大雲院 祇園閣

京都の有名な建築物で、「金閣・銀閣」と呼ばれる建物は、おそらくご存じでしょう。
金色で有名な鹿苑寺が通称「金閣寺」、哲学の道付近にある慈照寺が「銀閣寺」です。

金閣寺

銀閣寺

しかしあなたはご存じでしょうか?
実は京都には、金閣・銀閣のほかに『銅閣寺』と呼ばれる建物が存在することを。
おそらくほとんどの方がご存知ないと思います。

それもそのはず、実はこの建物、普段は一般公開されていないのです。
その建物が、「大雲院 祇園閣」という寺院と、その中にある建物です。

大雲院

この寺院と祇園閣、そして銅閣寺という通称は、もともと全く別物で、別の場所にあったものなのですが、
いくつもの偶然が重なり、結果的に現在は、それらが一つの場所に集まっている状態となっています。

では、まずは歴史から見ていきましょう。

大雲院の歴史はかなり古く、戦国時代にまで遡ります。
1587(天正15)年、正親町天皇の勅命を受けるという形で、父子の知遇を得ていた貞安上人を開山として、織田信長の子信忠の菩提を弔うために、信忠が討たれた二条新御所跡(烏丸御池)に創建したのが初めで、大雲院という寺院名は、信忠の法名からつけられました。

正親町天皇

織田信忠

しかし同年中に都市政策(京都改造)を理由として、豊臣秀吉の命にて四条寺町南(四条河原町、下京区)に移るように指示され、1590(天正18)年頃に四条に移ったといわれています。
後陽成天皇により勅願所ともなりました。

豊臣秀吉

後陽成天皇

また、境内墓地にはあの有名な石川五右衛門の墓があり、これは処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁によるものです。

石川五右衛門

その後度々火災で焼失し、明治初期に再建されました。
しかし、周囲が繁華街となったことで、1972(昭和47)年に、髙島屋京都店増床に伴い東山区の大倉喜八郎旧邸を買得して再移転しました。

この大倉喜八郎は、一代で巨万の富を築き、現在の大成建設や帝国ホテルの創始者となった人物です。
現在の大雲院は、もともと大倉喜八郎氏の別邸「真葛荘(まくずそう)」の一部だったのです。

大倉喜八郎

現在地の東山(祇園のあたり)に移ったのは、比較的最近のことなのですね。

ちなみに、2014(平成26)年の京都市下京区の河原町通四条の発掘調査で、旧大雲院の敷地跡から豊臣秀次の供養塔の一部とみられる石材が見つかりました。
大雲院は秀次の切腹後、三条河原で処刑された側室らを供養したとする文献もあったそうです。

豊臣秀次

織田信忠の慰霊のためには、妙心寺にも同名の大雲院が建立されました。

これには、妙心寺56世の九天宗瑞と、宗瑞の妹で信忠の乳母かつ信長の側室であった慈徳院らが尽力しました。
二者は共に信長の重臣であった滝川一益の子といわれています。
ここには、二条城で九死に一生を得た織田長益の子の長孝が葬られたという記録があります。

一方、同じ妙心寺内の隣接地に、1581(天正9)年に滝川一益と同じく九天宗瑞が開いた「暘谷庵」を、一益の娘婿であった津田秀政が1606(慶長11)年に再興し、「暘谷院」と名付けて津田氏の菩提寺としました。

1612(慶長17)年に宗瑞が、1635(寛永12)年に秀政が90歳で死去すると、暘谷院は秀政の法号にちなんで「長興院」と名を変えます。
そして、この長興院が1692(元禄5)年に隣接する大雲院を合併したため、妙心寺大雲院は現存しません。

大雲院のお話はこのぐらいで。

では「銅閣」という通称は誰が作ったの??という話ですが、大倉喜八郎です。

そもそも大倉喜八郎は、老後保養の地として別邸「真葛荘」を建てました。
その時「金閣も銀閣もあるんだから、銅閣も作る!」という意思で、ゆくゆくは一般に公開して京都の名物にすることを考えて、敷地内に「銅閣」を建てることを決めたといわれています。

大倉喜八郎は、1837(天保8)年9月24日、越後国蒲原郡新発田町(現新潟県新発田市)の下町に、父・千之助、母・千勢子の三男として生まれました。
幼名は鶴吉で、23歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名します。

大倉家は、喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営んでいましたが、曽祖父・宇一郎(初代定七)の時、兄に田地を返し、商いで生計を立てるようになりました。
祖父・卯一郎(二代目定七)の時に、薬種・砂糖・錦・塩などで大きな利益を得、質店を営み始めます。
この頃から、藩侯への拝謁を許されるようになります。
父・千之助(四代目定七)は、天保の大飢饉で米倉を開き窮民に施すなどの経緯から、藩主から検断役を命じられるほどの家柄であったといいます。

自叙伝『大倉鶴彦翁』などでは、“大倉家は累代の大名主で、苗字帯刀を許され、また下座御免の格式ある家柄であった”との旨が記されています。
史実として、大倉家が新発田藩の大名主で苗字を名乗れた高い身分であったことは事実ともされています。

そんな家に生まれた喜八郎は、家業を手伝う傍ら、8歳で四書五経を学び、12歳の時から丹羽伯弘の私塾積善堂で漢籍・習字などを学びました。
この時に陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けたといわれています。

1851(嘉永4)年、丹羽塾同学の白勢三之助の父の行動により、酒屋の営業差止めに追い込まれたことに大変憤慨し、江戸に出ることを決意しました。
同年中に江戸日本橋長谷川町(現日本橋堀留町)の狂歌の師・檜園梅明(ひのきえん・うめあき)を訪ね、檜垣(ひがき)の社中に入ります。

江戸到着後、狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝いを経たのち、中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公しました。
丁稚時代に安田善次郎と親交を持つようになり、1857(安政4)年には奉公中に貯めた100両を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業します。
安田善次郎は、のちに銀行王と呼ばれる人物です。

安田善次郎

横浜で黒船を見たことを契機に、喜八郎は乾物店を1866(慶応2)年に廃業し、同年10月に小泉屋鉄砲店に見習いに入ります。
小泉屋のもとで約4ヶ月間鉄砲商いを見習い、1867(慶応3)年に独立し、鉄砲店大倉屋を開業しました。

神田和泉橋通りに開業した大倉屋は「和泉橋通藤堂門前自身番向大倉屋」と名乗り、小泉屋鉄砲店が出入りする屋敷先とは一切の商売をしないと証文を出しました。
店頭には現物を置く資金がなかったため、注文を受けては横浜居留地に出向き、百数十度に渡り外商から鉄砲などを購入しました。
不良銃を高値で売りつける鉄砲商が多かったため、良品を得意先へ早いかつ安い納品を心がけていた大倉屋は、厚い信用を博しました。

そののち官軍御用達となり、1868(明治元)年には新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになりました。
1871(明治4)年7月以降は、鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受けます。

さらに、1868(明治元)年に有栖川宮熾仁親王御用達となります。
これ以後、1874(明治7)年の台湾出兵の征討都督府陸軍用達、1877(明治10)年の西南戦争で征討軍御用達、1894(明治27)年の日清戦争では陸軍御用達として活躍しました。
日露戦争の際は軍用達となり、朝鮮龍巌浦に大倉組製材所を設立します。

その後も、建設、貿易、洋服裁縫など様々な事業を行い、果ては水道、銀行などの方面の事業にも関わっています。

たった一代でこれだけの富と名声を築き上げた人物ですから、「銅閣があってもいいじゃないか!ないなら作ろう!」と行動してしまったわけです。

この銅閣づくりを依頼した先は、築地本願寺や平安神宮を手掛けた事で有名な、昭和初期の代表的な建築家・伊東忠太です。
伊東 忠太は、明治から昭和期の建築家、建築史家です。
そのデザインには独特のセンスがあり、近代日本きっての奇想の建築家とも呼ばれています。

伊東忠太

大倉喜八郎氏は当初、少年時代に見た、「突風に吹かれて逆立った雨傘」のイメージで作るように求めていたそうです。

しかしさすがにそれは設計的に無茶だったようで、伊東氏は祇園祭の山鉾をモチーフにして設計、その形から「祇園閣」と命名されました。
この「祇園閣」は屋根がしっかりと銅板葺きにされており、大倉喜八郎氏の夢“銅閣”が京都に誕生しました。

祇園閣外観

屋根

屋根の先の頭頂部の鶴

ここで金閣寺、銀閣寺がそう呼ばれる所以を補足しておきます。
金閣寺は、金箔が貼られた舎利殿があり、同時にそこが寺院であることが理由で、正式名称は鹿苑寺です。
銀閣寺は、観音殿(通称:銀閣)があり、同時にそこが寺院であることが理由で、正式名称は慈照寺です。

大倉氏は別に寺院を作ろうとしていたわけではありません。
ですので、そもそも本来は「銅閣」で終わるはずだったのですが・・・。

その後時は流れ、大雲院が「真葛荘」へ移転してしまいます。
結果的に「祇園閣」は大雲院の所有となり、大雲院が公称しているわけではありませんが、銅閣を有するお寺『銅閣寺』がここに誕生してしまったのです。

こういったいくつもの偶然が重なってできたのが『銅閣寺』なのです。

さてこの祇園閣、どういった建物かというと、鉄筋コンクリート造3階建てで、頂部まで含めた高さは約36メートルあります。
伝統的な京町家が立ち並ぶ祇園という町中に、奇妙な建築がそびえたっています。

祇園祭の山鉾をモチーフにしていますが、そのてっぺんには鶴が乗り、全体は仏堂風の造りです。
普通ではないデザインです。

頂部の鶴は、喜八郎の幼名が“鶴吉”、雅号が“鶴彦”、晩年に“鶴翁”と名乗ったことに由来します。
入口を守る一対の獅子はずんぐりむっくりした造形で、忠太らしい個性的なデザインですね。

獅子

伊東忠太にとって、喜八郎は重要なパトロンの一人でした。
東京の『大倉集古館』をはじめ数々の設計を依頼されています。
建築の造形には施主の意向が反映されがちですが、長年の信頼関係もあり、忠太はかなり自由に設計できたといわれています。
忠太は元々奇抜なデザインを作るのが得意な建築家ですので、そんな人に自由にさせたら奇抜なものになるのは当たり前の話ですね。
そのため、この建物内外で、忠太の十八番である動物や怪獣の姿を見ることができます。

動物1

動物?2

大雲院が1987(昭和62)年に開祖400年を迎えた記念に、祇園閣内部の通路・階段壁面に、世界遺産でもある中国の”敦煌莫高窟”の壁画が模写されました。
祇園閣自体は国の登録有形文化財となっていますが、その内部に世界遺産という、中々面白い取り合わせとなっています。

祇園閣内部

祇園閣内部を探索しながら登っていくと、最上階で一気に視界が開けます。
この祇園閣は、高さが36メートルという、立派な高層建築物です。
祇園閣の楼上からの眺めは、360度の絶景です。

実はここは、京都市内を広く見渡せる数少ない貴重な絶景スポットでもあります。

また、上述しましたが、大雲院はもともと織田信長・信忠親子の菩提を弔う寺です。
境内には墓地が広がっていて、その中には織田信長親子の墓もあり、参拝する人も多数おられます。
大泥棒で有名な石川五右衛門の墓も、ここ大雲院にあります。
実際ものすごい格式の高い寺なのです。

その他貴重な文化財も多数所持する大雲院なのですが、残念なのが「普段は非公開」ということ。
年に1度も公開されない時も普通にありますし、気になる方は季節毎の京都の特別拝観キャンペーンをチェックしておきましょう!

ちなみに・・・、2021年は11月19日~12月6日に一般公開されるそうですよ!
予約優先制なので、行きたい方は予約必須ですよ。

 

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