韮山反射炉

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静岡県伊豆の国市に石積みの塔のような建築物があります。
元々は石積みだけで、現在は保存のため鉄柱で補強がされています。
この建物、4つあるようですが、一体なんなのでしょうか?

これは鉄を造るための炉の一種で、反射炉といいます。

この建物は『韮山反射炉』と呼ばれる、数少ない現存する近世の反射炉の一つです。
では、鉄はどのように造られるのかご存じですか?

鉄は、元から銀色なのではありません。
あれは加工されたあとの形で、元々鉄は茶色いのです。
これは「酸化鉄」と呼ばれていますが、要は錆びた鉄です。

酸化鉄

海沿いの町のガードレールなどが、錆びついて茶色くなっているのを見たことがあると思います。
鉄の酸化とは、ただただ鉄が元の形に戻っただけの話なのです。
つまり、私たちがよく知っている銀色の鉄とは、その茶色い酸化鉄から錆の部分を徹底的に排除した姿ということです。

酸化鉄を鉄にする方法はたった1つ、鉄から酸素を抜くことです。
鉄は酸素と結合することで酸化鉄となるのです。

では、その酸素をなくすにはどうすればいいのでしょうか?

答えはとても簡単です。
「燃やす」です。

しかしそうはいっても、酸化鉄を燃やして鉄にできる温度は非常に高温で、大量の鉄を造ろうとすると超巨大な設備が必要になります。

溶鉱炉

現在日本で稼働している鋳鉄工場には、巨大な炉があります。
これは高さも重要で、50メートルほどの高さからゆっくり酸化鉄を落とし、燃やし続けます。
その際、炭を絶えず一緒に燃やすことで、炭素が発生します。
その炭素と、酸化鉄から出た酸素が結合し、二酸化炭素となって排出され、最終的に物質として残るのが鉄なのです。

あれですね、『ターミネーター2』で、ターミネーターが最後に落ちていくのが溶鉱炉です。


しかし、そんな巨大設備、150年前の日本には存在しません。
たたら製鉄が主流だった時代ですから。

それでも素早く多く、鉄を造る必要性が、江戸時代末期に出てきました。

1853(嘉永6)年のペリー来航により、日本は外国の脅威にさらされました。
そこで幕府は、江戸湾海防の実務責任者となった江川英龍(坦庵)に対して、江戸内湾への台場築造と並行して、反射炉の建造を命じます。

ペリー

黒船

江川英龍

英龍は、ペリー来航以前から反射炉の研究を続けていましたが、蘭書の記述のみを頼りに反射炉を建造するのは非常に困難な事業でした。

さて、また出てきましたが、反射炉とはいったいなんなのか?

反射炉とは、銑鉄(せんてつ)を溶かして優良な鉄を生産するための炉です。
銑鉄は、砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄で、不純物を多く含んでいます。
銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となりますが、普通はたたら製鉄のように何日もかける、もしくは超巨大設備が必要となります。

しかしそのどちらでもない方法が存在します。
それが反射炉です。

反射炉内部の溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに炎や熱を「反射」させ、銑鉄に集中させることで高温を実現する構造となっています。
このように反射させる仕組みから、反射炉と呼ばれました。

日本に現存する近世の反射炉は、この『韮山反射炉』と、山口県萩市の『萩反射炉』のみです。
また世界的にも、実際に鋳鉄の溶解が行われた反射炉としては、世界で唯一現存する遺構とされています。

萩反射炉

この反射炉を造った人物、江川英龍は、江戸時代後期の幕臣で、伊豆韮山代官でした。
通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん/たんなん)の呼び名で知られています。
韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多いそうです。

洋学、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させました。
地方一代官でしたが、海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死しました。

江川家は大和源氏の系統で、鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄です。
代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆韮山代官として天領の民政に従事しました。
英龍はその36代目の当主に当たり、1821(文政4)年、兄・英虎の死去により英毅の嫡子となりました。
1824(文政7)年、代官見習の申し渡しを受け、1835(天保6)年、父・英毅の死去に伴い34歳で代官となります。

代官となる前の英龍は多くの士と交友しました。
例えば、岡田十松に剣を学び、同門の斎藤弥九郎と親しくなり、彼と共に代官地の領内を行商人の姿で隠密に歩き回ったりしていました。

斎藤弥九郎

甲斐国では1836(天保7)年8月に甲斐一国規模の天保騒動が発生し、騒動には多くの無宿(博徒)が参加していました。
英龍は騒動が幕領の武蔵・相模へ波及することを警戒しました。
8月に伊豆・駿河の廻村から韮山代官所へ帰還して騒動の発生を知ると、斎藤弥九郎を伴い正体を隠して甲斐へ向かいます。

天保騒動

英龍は同年9月3日に甲府代官・井上十左衛門から騒動の鎮圧を知ると、韮山へ帰還しました。
その後も弥九郎との関係は終生続きました。

父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られています。
英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行いました。
二宮尊徳とは二宮金次郎・・・全国にいくつもある、あの像です。

二宮尊徳

英龍は、自身・自身の役所・支配地の村々まで積極的な倹約を実施した一方で、殖産のための貸付、飢饉の際の施しは積極的に行い、領民の信頼を得ていました。
また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進しました。
こうした領民を思った英龍の姿勢に、領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛したそうです。
現在に至っても、彼の地元・韮山では江川へ強い愛着を持っていることがうかがわれます。

英龍は長崎に赴いて高島秋帆に弟子入りし、近代砲術を学ぶと共に、幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけました。
これが実現し、英龍は水野忠邦より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められます。
以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、「江川塾」を江戸に開き、全国の藩士にこれを教育しました。

佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(後の木戸孝允)・伊東祐亨などが彼の下で学んでいます。

佐久間象山

大鳥圭介

橋本左内

桂小五郎

伊東祐亨

なにがすごいかというと、この人たちの写真や肖像が、普通に現在も簡単に見つかるほど有名な人たちということです。
そして、その人物たちに教える立場だったのが、英龍だったということです。

1843(天保14)年に水野忠邦が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、1853(嘉永6)年、ペリー来航直後に勘定吟味役格に登用され、
正弘の命で品川台場(お台場)を築造しました。
今のお台場という地名も、この人が作ったのです。

お台場

銃砲製作のため、湯島大小砲鋳立場を設立し、後の関口製造所の原型となっています。
今回の韮山反射炉も、息子の代で完成しています。

品川沖台場の築造も、翌1854(嘉永7)年に日米和親条約が調印されると、11基のうち5基が完成しただけで、工事の中止が決定されてもいます。
これは、阿部正弘がかなり消極的で保守的な人物だったことが最も大きな要因だそうです。

英龍は造船技術の向上にも力を注ぎ、更に当時日本に来航していたロシア使節プチャーチン一行への対処の差配に加え、爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図しました。
しかし、あまりの激務に体調を崩し、1855(安政2)年1月16日に本所南割下水(現東京都墨田区亀沢1丁目)にあった江戸屋敷にて病死してしまいます。

跡を継いだ長男・英敏が1863(文久3)年に農兵軍の編成に成功しました。
また、英敏の跡を継いだ英武(英龍の5男)は、韮山県県令となりました。
娘の英子は木戸孝允の養女となって河瀬真孝に嫁ぎ、外交官夫人として夫を支えました。

さて、ここまでのところでいろいろとビッグネームが出てきましたが、あなたはこの江川英龍という人物を知っていましたか?

韮山あたりでは有名なので、地元の方はご存じだと思います。
しかし、日本人の多くはこの人物のことを知りません。
幕末の日本において、とてつもなく大きな功績を残し、桂小五郎のような有名人も排出しているのにです。

なぜなのでしょうか?

答えは簡単です。
教科書に載ることをGHQが許さなかったからです。

GHQマッカーサー

普通、これほどの功績を残した人物は、歴史の教科書に大々的に掲載されます。
しかし江川英龍は、日本帝国の戦争の礎を、大戦の80~90年も前に築いてしまっていたために、名前や実績が隠されてしまったのです。

1943(昭和18)年当時の教科書である「初等科国史下巻」では、高島秋帆と協力し、新しい兵器を開発して軍備の充実を図ったと紹介されています。
また、江川英龍が設計し、彼の死後に息子が完成させた反射炉の写真も掲載されています。
大正時代、1921(大正10)年発行の「新訂中学日本歴史下巻」でも、同様の記述がみられます。

簡単にいえば、江川英龍は、軍事技術分野で幕末の中で非常に突出した存在でした。
そしてGHQは日本から軍事色を一掃する必要がありました。
このことが原因で、GHQが教科書への掲載を認めなかったということです。

江川英龍は、ただ軍事力を強化しようとしたわけではなく、日本を守るために必要なことを行い続けただけです。
しかし、GHQからすれば、非常に警戒すべき最重要人物だったそうです。
すでに没後何十年も経っていたにも関わらずです。

江川英龍を大河ドラマの主役にすれば、幕末のビッグネームがポンポン登場してくるはずです。
それぐらいすごい人物ということです。

さて、『韮山反射炉』に話を戻しましょう。

韮山反射炉は、連双2基4炉を備える反射炉で、大砲を自力製造したことが特徴としてあります。
4つの塔のようなものがありますが、この4つが炉となっています。

韮山反射炉 外観

反射炉の設計は、ヒュゲェニン(Ulrich Huguenin)著『ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造法(Het Gietwezen in’s Rijks Ijzer – geschutgieterij te Luik)』という蘭書が参考と推測されます。
炉体は、外側が伊豆石(緑色凝灰岩質石材)の組積造、内部が耐火煉瓦(伊豆天城山産出の土で焼かれた)のアーチ積となっています。

煙突も耐火煉瓦の組積で、その高さは約15.7メートルです。
「反射炉御取建日記」によると、築造当時、煙突部分の表面は漆喰で仕上げられていたそうです。

内部

構造

外観説明文

韮山反射炉では、鋳鉄製と青銅製の大砲を製造しました。
現在もいろいろと調査が行われていますが、製造内容は完全には確定していません。

大砲

鋳鉄製18ポンド砲4門を製造、内2門が試打(試射)、銅製は5門以上製造との論文があります。
韮山反射炉に関連する大砲は次のとおりです。

・18ポンドカノン砲
鋳鉄製。
韮山反射炉で鋳造され、反射炉付属の錐台小屋で砲身の内部をくり抜いた。
1番から4番まで4門製造された模様。

・24ポンドカノン砲
青銅製。
1門製造された模様。
なお、2015(平成27)年現在、現地で展示されている24ポンドカノン砲は、銑鉄製で株式会社木村鋳造所が1998(平成10)年レプリカとして製造したもの。

・80ポンドカノン砲
青銅製。
4門製造された模様。

・20ドイム臼砲
青銅製。
2015(平成27)年現在、現地で展示されている。
韮山反射炉で製造されたものといわれている。

・29ドイム臼砲
青銅製。
2015(平成27)年現在、現地で展示されている。
韮山反射炉の築造に先立ち、江川邸で作られた縮小サイズ反射炉で試作されたものといわれている。
なお、ドイム(拇)は、オランダの長さの単位で、2.57393636センチメートルに相当するが、幕末の日本では1ドイム=1センチメートルと定義されている。


韮山反射炉では、鋳造した砲身に砲穴を刳り貫く鑽開作業に水車動力を用いたため、反射炉敷地脇を流れる古川を河川改修し、反射炉側へ流れを蛇行させ、取水口から木樋で水車に水流を供給しました。
この改修した区間約144メートルも世界遺産として含まれています。

流下開削によって次第に河床が下がったことから護岸が石垣補強されましたが、上流からの流石や川岸の土砂崩れで取水口部分は埋もれてしまいました。

なお、古川は一級河川に指定されていますが、その起点は水車から排水された水流が再び川へ戻された合流点からとなっています。
流れを改修された箇所(世界遺産登録範囲)やそれより上流の水源域は準用河川扱いとなっています。
世界遺産に求められる法的保護根拠としては河川法が適用されています。

伊豆の国市としては、独自に韮山反射炉ガイダンスセンターを2016(平成28)年12月11日に反射炉脇に整備しました。
鉄骨造平屋建て、608.51平方メートル。
設計はアイ・エヌ・エー新建築研究所です。
入館料は、反射炉入場料500円に含まれます。

GHQが隠そうとした日本の偉人が150年も前に造り上げた反射炉。
実際に見にいかれるのもよいのではないでしょうか。

 

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