旧リンガー住宅

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長崎の南山手の丘の上にある、観光の定番スポットのグラバー園。
その中には9つの洋館がありますが、もともとこの地に建っていたのは最も古い旧グラバー住宅、そして旧リンガー住宅と隣の旧オルト住宅だけです。
それ以外は、市内の各地に建っていたものを移築したものです。

グラバー園

今回紹介する『旧リンガー住宅』は、もともとグラバー園の土地にあったフレデリック・リンガーという人物の旧宅です。

フレデリック・リンガー

グラバー園の名前の由来となっているトーマス・ブレーク・グラバーという人物は、武器商人として幕末の日本で活躍しました。
日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした人物です。

その彼が中心となって立ち上げたのが「グラバー商会」です。
そして、そのグラバー商会にスカウトされた人物の1人がリンガーです。

トーマス・ブレーク・グラバー

リンガーは1838(天保8)年、イングランドのノーフォーク州ノリッジで生まれました。
そして若くしてノリッジを離れ、東アジアに渡ります。

ノーフォーク州ノリッジ

1856(安政2)年、25歳のリンガーは中国にいました。
茶の鑑定士として、英国の会社「フレッチャー商会」に勤務していたそうです。
ティークリッパーと呼ばれた茶の輸送用の快速帆船が、欧州への季節ごとの茶葉の輸送の速さを競い合っていた時代の初期の頃です。

ティークリッパー

リンガーは、1865(元治元)年にグラバー商会のスカウトを受け、長崎で同社の茶の貿易の監督官として勤務することになりました。

1868(明治1)年、イギリス人の同僚であるエドワード・Z・ホームと共同で、長崎の大浦11半番地に、「ホーム・リンガー商会」を設立しました。
当初はグラバー商会時代と同様に茶の取引をしていましたが、日本の第一次産業革命による運輸、石炭、軍需産業の急成長とともに事業を拡大し、海藻、フカヒレ、生蝋の輸出に至るまで、当時の日本の主要な取引品目は全て取り扱うようになりました。

ホームは、その後間もなくロンドンでの事業を指揮するため日本を離れ、最終的に日本における事業の権利をすべてリンガーに譲りました。
長崎での事業においてリンガーの一番の協力者は、グラバー商会時代の同僚でもあったジョン・C・スミスという人物でした。

1888(明治21)年、ホーム・リンガー商会は本社を海岸に面した大浦7番地に移転します。
そして、イギリスの保険組合ロイズの長崎における代理店として活動したり、国をまたいで活動する数々の銀行、保険会社、海運業者の仲介業を営んだりしました。

事業は海外にも広がりを見せ、支店は中国や朝鮮におかれ、ときにはロシアとも幅広く貿易することもありました。
1890年代初頭、ホーム・リンガー商会は下関港に支社を設立しました。
しかし、当時外国法人が条約港の外に支店を設立することは認められていなかったため、「瓜生(うりゅう)商会」と称していました。

瓜生商会(現・藤原義江記念館)

リンガーは、長崎に渡った当初から、長崎の外国人居留地の政界・社交界に積極的に関与していました。
1874(明治7)年に居留地会議住民代表(行事)に選出され、その5年後にユリシーズ・グラントが大統領を辞職して世界旅行中に日本を訪れた際には、歓待役を務めました。

ユリシーズ・グラント

またリンガーは、1884(明治17)年からはベルギー領事を務め、デンマーク、スウェーデン、ハワイの領事代理を複数回務めました。
1899(明治32)年に「長崎内外倶楽部」の設立を先導した人物の1人でもありました。

当時日本でどのような事業が行われていたのかは、日本の2大財閥である三菱と三井について見てみると、よく理解できます。
両財閥はともに膨大な量の石炭を輸出していましたが、その九州における主な仲介業者はホーム・リンガー商会の支社である下関の瓜生商会に他なりません。

リンガーは、長崎と日本の経済発展(殖産興業)に多大な貢献をしました。
長年の間に設立した企業は、機械化された製粉所、蒸気洗濯所、石油の備蓄場、港湾荷役、トロール漁業、近代捕鯨など多岐にわたります。
1890年代末まで、長崎は日清戦争、米西戦争、あるいはロシア艦隊の回航により活況に沸き、リンガーは当地の外国人商人の中で支配的な地位を築きました。

リンガーの成功を反映するものに、1897(明治30)年に日刊英字新聞「ナガサキ・プレス(Nagasaki Press)」を創刊したことや、翌1898(明治31)年に海岸沿いに「ナガサキ・ホテル」を建設したことなどが挙げられます。

リンガーは、1906(明治39)年に健康上の理由でイングランドへ帰国するまで長崎に留まっていました。
その後一度長崎に戻りましたが、長期間は滞在できませんでした。
1907(明治40)年11月29日、故郷ノリッジで死去、享年69歳でした。

遺骸はロザリー路の非国教徒用の共同墓地に埋葬されました。
リンガーの遺産には、数多くの芸術品や、ノリッジ城博物館への寄付も含まれていました。

ノリッジ城博物館

リンガーは、長男フレッドと次男シドニーの2人の長崎生まれの息子を残しています。
フレッドは1940(昭和15)年に長崎で56歳で死去しました。

同年8月に、シドニーの2人の息子マイケルとヴァーニャは、太平洋戦争中に日本の当局からスパイ容疑で逮捕され、国外退去とさせられました。

シドニーは、同年10月にホーム・リンガー商会の長崎本社を閉鎖するよう命じられ、上海への亡命を余儀なくされました。
その後シドニーとその夫人は、上海で拘束され日本軍の収容所に抑留されます。

1941(昭和16)年12月、日本陸軍がイギリス領マラヤに侵攻したとき、マイケルとヴァーニャは、英印軍に加入しマラヤに駐屯していました。
ヴァーニャは第14パンジャブ連隊第5大隊に属して戦い、イギリス側が壊滅的な被害を蒙ったスリム川の戦いで1942年1月7日に戦死しました。

マイケルは日本語話者だったおかげで、陥落前にシンガポールから脱出できましたが、スマトラで捕えられ、終戦まで同地で捕虜として過ごしました。

マイケルは戦後、日本軍の残虐行為の証人として法廷に召喚されています。

リンガーの次男シドニーは、日本に帰化しましたが、戦後長崎の財産をほとんど売り払ってイングランドに渡り、1967(昭和42)年に死去しました。

戦中閉鎖されていたホーム・リンガー商会は、かつての日本人従業員によって再開され、北九州市門司などで船舶代理業などを商っています。

ちなみにですが、リンガーハット公式ホームページによれば、外食チェーン・リンガーハットの店名は、長崎で貿易商をしていたリンガーの名前にあやかって付けられたそうです。

なお、株式会社リンガーハットの前身「とんかつ浜勝」の創業は1962(昭和37)年、リンガーハット1号店の出店は1974(昭和49)年のことで、リンガーやホーム・リンガー商会との直接的なつながりはないそうです。

リンガーハット

さて、旧リンガー住宅についてですが、この住宅には明治から昭和にかけて、リンガーとその家族が親子三代で暮らしました。
旧リンガー住宅が建つこの敷地は、トーマス・グラバーの弟アレキザンダーが1864(文久3)年に永代借地権を取得し、1868(慶応3)年に住宅を建てました。
リンガーが借地権と建物を取得したのは1874(明治7)年で、結婚を機に1883(明治16)年から妻のカロリーナと暮らし始めました。

住所の「南山手2番」にちなみ、「NIBAN」という愛称を付けました。

この家は、木造で外壁石造、3面に角石の列柱吹き放ちのベランダを有し、正面中央が出入口で、中廊下左右に各室を配置する、初期洋館の典型的な平面計画です。

グラバー邸と同様の、南欧風バンガロー洋式です。
使われている石は天草の下浦石で、設計者はオルト邸と同じくイギリス人の建築家によるものと推測されています。

外観1

外観2

屋根

施工は、その前に建てられたオルト邸と同じ石材などが使われていることから、小山商会棟梁、小山秀之進が請負ったようです。

建物は西を正面として、正面中央の玄関とその奥の廊下を挟んで南北に部屋を配置しています。

西側の部屋は北が応接室、南が居間です。
その奥は北が寝室、南が食堂です。
寝室の東には化粧室と浴室、食堂の東には調理室がそれぞれ突出しています。

建物の西面全体と北面・南面の前寄りにはベランダを設ていて、応接室と居間の正面側はベランダに張り出したベイウィンドウとなっています。
裏手の東側に突出する化粧室と調理室の中間部分もベランダです。

外壁は天草石張りで、内装は壁は白漆喰、天井は板に紙貼りです。
応接室、居間、寝室、食堂の主要4室には、大理石のマントルピースを2室ずつ背中合わせの位置に設けています。

内観1

内観2

内観3

内観4

ベランダの柱は柱頭はトスカナ式ですが、角柱に几帳面取りを施した独特のものです。
ベランダの床は御影石の四半敷、天井は菱形網代組です。

西洋建築のスタイルを取り入れつつも、小屋組は和小屋とするなど、和風の要素が強いと言える住宅です。

外観アップ

ちなみにですが、リンガー率いる投資家グループにより1897(明治30)年に建てられた「ナガサキ・ホテル」というホテルがありました。
ナガサキ・ホテルは、当時、極東一豪華なホテルと謳われましたが、開業からわずか10年で閉館してしまいました。

2013(平成25)年6月、一部改装中だった奈良市の「奈良ホテル」で、ナガサキ・ホテルで使用されていた銀製カトラリー(ナイフ、フォーク、スプーン)のセットが発見されました。
これらは、ナガサキ・ホテルが閉館する際に奈良ホテルが買い取ったものの一部とみられています。
その内の1セットが、2015(平成27)年6月に、奈良ホテルから長崎市に寄贈されました。

それらのカトラリーは、長い時を超え、現在は旧リンガー住宅で展示されています。

カトラリー

グラバー園を訪れた際は、そのあたりも見てみるとおもしろいかもしれません。

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