大谷美術館 旧古河庭園 旧古河邸

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東京都北区西ケ原に「旧古河庭園」という場所があります。
武蔵野台地の斜面を巧みに利用した造りとなっており、台地上に洋館、斜面に洋風庭園、斜面下の低地部に日本庭園が配置されています。
1919(大正8)年に、古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられたものです。

現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開しています。
東京のバラの名所として親しまれています。

庭園として一般公開されたのは1956(昭和31)年です。

東京都北区

東京都北区西ヶ原とはどんな場所なのか、少しご説明します。

『北区史』によれば、西ケ原二丁目貝塚は、荒川谷に臨む台地に積成された貝塚ですが、上野不忍池から入り込んでくる狭い支谷に臨む西ケ原一丁目、三丁目には昌林寺貝塚があるとされています。
また歴史的に見ると、西ケ原一帯の地形は、東側は崖地で海に接し、西側は「谷戸」があり海産物が豊富なため原始集落の好適地であり、付近からは貝塚などの遺跡が発見されています。

中世の西ケ原は、平安後期、関東を支配した源家の勢力下で西ケ原一帯の豪族は豊島氏で、平安時代末期に豊島太郎近義が城を築き「平塚城」と称しました。

1477(文明9)年、太田道灌が長尾景春の大将として、駒込妙義神社に陣を置き、平塚城の豊島泰明を攻めた時、石神井城から迎撃してきた豊島泰経(泰明の兄)との決戦となりました。
妙義神社は本郷台地の北側にあり、谷戸川を挟んで真正面に古河邸があることから、両軍の攻防戦がこの庭園あたりで繰り広げられたといわれています。
合戦は豊島勢の石神井城と平塚城ともに陥落し、翌1478(文明10)年、400年も支配を続けた豊島氏は壊滅し、領土は太田道灌の手に移りました。
その後何事もなく、1647(正保4)年の西ケ原は「岩淵領西ケ原村」と呼ばれ、野菜の生産畑でした。

1603(慶長8)年、江戸幕府による日本橋を起点とする五街道を決め、川越街道や岩槻街道(日光御成道、本郷通り)などが順次整備されました。

日本橋

前述の『北区史』によると、江戸時代の染井から上駒込は植木の生産地で、岩槻街道沿いに「西ケ原牡丹園」という植木御用庭園があったそうです。

1868(明治初)年頃、西ケ原に紀州藩士・伊達宗広の六男である政治家・陸奥宗光が邸宅を建て、その宗光と親交のあった渋沢栄一も1870(明治3)年頃、飛鳥山に近い西ケ原二丁目に邸宅を構えました。

宗光には、古く京都井筒屋小野組の頃から、後の古河財閥の創始者である古河市兵衛との親交がありました。
宗光は実子の無い市兵衛に、次男の潤吉を養子に与える約束をしていました。

陸奥宗光

古河市兵衛

潤吉は、1870(明治3)年に東京に生まれました。
古河家に入籍したのは14歳で、18歳の時コーネル大学に留学し、帰国後は市兵衛の家業を手伝っていました。
足尾鉱毒事件の予防対策に際して、資金調達のため第一銀行との折衝に成功するなど、潤吉は市兵衛から全幅の信頼を得ていました。

1887(明治20)年、市兵衛が56歳の時、側室せいとの間に初の実子・虎之助をもうけ、1900(明治33)年、先妻の没後、側室のせいが正室に入りました。
潤吉は虚弱な体質のため生涯独身を通し、後に3代目となる虎之助に家督を譲ることになります。
1903(明治36)年4月、市兵衛は72歳で没します。

1905(明治38)年3月、潤吉は古河鉱業を設立して社長に就任し、副社長に原敬を迎え、病弱な自身の代理として実兄の陸奥広吉を社長代理にあてました。
健康回復を図るために転地療養などに努めていた潤吉でしたが、同年12月、西ケ原邸において35歳で亡くなりました。

虎之助は1903(明治36)年から米国コロンビア大学に留学していましたが、留学中に潤吉が死去したため、古河家の当主となり、古河鉱業の社長に赴任しました。

1915(大正4)年12月、虎之助は弱冠27歳で男爵を授けられ、第一次世界大戦の影響で社業は急成長し、海外取引も順調に伸びました。
1917(大正6)年6月、古河グループ東京古河銀行が発足し、「古河財閥」として経済界に躍り出ます。

古河虎之助

1914(大正3)年頃は、当時の財閥が競って豪邸を構えていた時代でした。
もちろん虎之助も、古河家の本邸を建てることになります。

それが、今回ご紹介する「旧古川邸」となります。

建物の設計は、当時評判だった建築家ジョサイア・コンドルに委託しました。
古河邸は1917(大正6)年5月に竣工し、京都の庭匠植治に依頼して庭園の作庭にかかり、同年秋頃に入居しました。
庭園は引き続き手を加えられ、1919(大正8)年にようやく完成しました。

コンドルの設計による本邸と、植治の作庭による庭園は、明治大正期建築の代表的傑作として、今日においても当時のままに保存されている貴重な文化遺産として有名です。

ジョサイア・コンドル

その後、時勢は景気下降に向かい、押尾銅山では労働争議が起こり、日本経済にも恐慌が訪れました。
また、会社経営に支援を受けていた原敬が暗殺され、養子で育てていた市太郎が6歳で急死してしまいました。

原敬

虎之助は心神を煩い不眠症に悩みましたが、転地療養などで1922(大正11)年に立ち直りました。
西ケ原の本邸が利用され始めて10年。
その後、経営の拡張と海外へ進出などから迎賓館として役立て、1926(大正15)年に住居を若松町に移転しました。

古河家4代目は西郷従純という人物でした。
1904(明治37)年、西郷従徳の次男として東京目黒に生まれ、渡米してハーバード大学に留学し、1929(昭和4)年に帰国後、古河合名会社に入社しました。

1931(昭和6)年、従純が28歳の時、古河家の養子に入りました。
西郷家からは虎之助夫人の不二子が嫁いでおり、そうした縁で正式に古河家に迎えられた従純は、古河鉱業の副社長に就任しました。
1940(昭和15)年3月、3代目の虎之助が病により54歳で没したため、従純は37歳で古河系列会社の社長に就任しました。

しかし、当時は太平洋戦争時代で、戦況は悪化の一途をたどり、社員は出征し操業にも支障が出てくるようになりました。
従純自らも召集を受け、1944(昭和19)年5月に教育招集、1945(昭和20)年2月、東部第十七部隊に応召入隊しました。
東京への空襲は激化し、大勢は決し、同年8月15日に無条件降伏となり、太平洋戦争に終止符が打たれることになりました。

建物自体は、虎之助が西ケ原に本邸を移して以来、顧客接遇に利用されてきました。
古河邸は、非常時に避難が出来るように忍者屋敷的な秘密構造があったといわれています。
また、戦争末期には、滝野川小学校に東部軍管区管轄下の九州九師団の一部が駐留し、古河邸は聯隊本部将校宿舎として接収されました。

終戦時の滝野川地区は被害は軽微で、古河邸は洋館も庭園も損害を受けませんでしたが、財閥家族と指定され進駐軍のために接収され、英国大使館の武官独身宿舎として使われ、1952(昭和27)年4月に接収解除となりました。

しかし、洋館等の建物はその後約30年間放置された状態で、「お化け屋敷」と呼ばれるほど荒廃が進みました。
1981(昭和56)年刊行の北村信正「旧古河庭園」には、洋館は「きづたに覆われている」とあり、蔦に覆われた洋館の写真も掲載されています。

1982(昭和57)年に東京都名勝の指定を受けると、それから1989(平成元)年まで7年をかけた修復工事が行われ、現在の状態まで復元されました。
2006(平成18)年には、大正時代初期の形式をよく留める庭園が評価され、国の名勝に指定されました。

「旧古川邸」の建物の外観はスコティッシュ・バロニアル様式を目指したとされています。
古河虎之助がコンドルに設計を依頼した時期や経緯は明らかではありませんが、大正3年(1914年)ごろ、洋館の設計がなされています。

外観1

屋根はスレート葺きで、煉瓦造の躯体を、黒々とした真鶴産の本小松石(安山岩)の野面積みで覆っているのが特徴的です。

外観2

南側の庭園から見た外観は、左右対称に近く、両脇に切妻屋根を据え、その間の部分は1階に3連アーチ、2階には高欄をめぐらしたベランダが設けられて、屋根にはドーマー窓を乗せています。
全体的に野趣と重厚さにあふれ、まるでスコットランドの山荘の風情であるかのようです。

外観 正面から

玄関前アーチ

内部に入ると、玄関扉にはステンドグラスが設けられ、古河家の家紋、鬼蔦のデザインが見られます。

玄関

1階は食堂、ビリヤード室、喫煙室などの接客空間で、すべて洋室となっています。
食堂の壁面は真紅の布張りで、大きな暖炉が設けられ、天井にはパイナップルやリンゴなど果物の装飾が見られます。
応接室にはバラのモチーフが随所に配されています。

内観1

内観2

内観3

2階は家族の居室など私的空間で、ホールと寝室が洋室である以外は、すべて畳敷きの和室ちなっています。
ホールと各和室は洋風のドアで区切られ、板の間の緩衝地帯があり、さらに障子や襖で区切られて和室空間に入るという構造になっています。
仏間には、前室との間に禅寺を連想させる火灯窓風の出入口がしつらえられています。

また、客間は書院造で、コンドルの和と洋の共存への苦心が伺われます。
同じコンドルの旧岩崎邸庭園が和室は和館、洋室は洋館という並列形式であるのに対し、この建物は洋館の中に和室が内包されているのが特徴です。

内観4

内観5

和室1

和室2

洋館南側には洋風庭園があります。
全体的には、斜面に石の手すり、石段、水盤などが配され、バラ園のテラスが階段状に連なっており、立体的なイタリア式庭園となっていますが、テラス内部は平面的で幾何学的に構成されるフランス式庭園の技法があわせて用いられています。

バラのテラス庭園は、1段目の花壇は正しく左右対称形ですが、2段目から中央の階段を挟んで左右に方形の植え込みとなっている花壇東側の方形北東部が、斜面突出部によって欠けています。
これは、コンドルが敷地下部の日本庭園との調和をはかるため、意図的にバラ園の対象形を崩したものと推測されています。

3段目のテラスは非整形的なツツジ園となっており、手前の西洋庭園と奥の日本庭園との連続性をもたせる仕組みになっています。
コンドルは単なる西洋建築の技術者ではなく、「日本の山水庭園」(”Landscape Gardening in Japan”)という著作もあるほど日本庭園に対する造詣を持っていたので、日本庭園との調和を計算に入れて建築、築庭を苦心したようです。

洋館1階の一部には喫茶室が設けられており、春と秋には窓越しにバラ園を望みながらお茶を飲むことができます。

洋風庭園

日本庭園は洋館、洋式庭園の完成に続いて、1919(大正8)年に完成しました。
京都の造園家である七代目小川治兵衛の作です。
斜面の一番底部に位置する池泉回遊式庭園です。
シイ、モチノキ、ムクノキ、カエデなどの鬱蒼と茂った樹林のなか、「心」の字を崩した形の心字池を中心に、急勾配を利用した大滝、枯山水を取り入れた枯滝、大きな雪見灯籠などが配されています。

心の草書体をかたどった心字池は、鞍馬平石や伊予青石などで造られ、池を眺める舟付石、正面には荒磯、雪見灯籠、枯滝、石組み、背後には築山が見られます。
枯滝は、心字池の州浜の奥の渓谷の水源を模していて、大滝は園内で最も勾配の急な箇所を削って断崖とし、十数メートルの高所から落ちます。

心字池と大滝の間には入母屋造の茶室が設けられていて、大谷美術館の管理で茶会が開かれたり、一般見学者も有料(500円)にて抹茶をいただくことができます。

和風庭園

現在、洋館の管理は公益財団法人大谷美術館が行っています。
洋館内部は1日3回、時間を決めて行われているガイドツアーに参加すると見学可能です。

結婚式やコンサートなどで洋館を貸し切ることも可能で、大正時代の瀟洒な洋館での記念行事は雰囲気が良く人気があります。
文化財という場所柄、特別な条件や制約もありますが、申し込みは誰でも可能です。
諸条件は電話での問い合わせや実際に下見に行って聞くことができますので、機械があれば一度訪れてみてはいかがでしょうか。

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