小田原城

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『小田原城』は、神奈川県小田原市にあった、戦国時代から江戸時代にかけての日本の城です。

戦国時代に栄えた後北条氏の本拠地として有名で、江戸時代には小田原藩の藩庁がありました。

城跡は国の史跡に指定されています。

小田原市

小田原城の前身は、室町時代に西相模に進出した大森氏が築いた城郭とされています。

城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中ごろに造られたのではないかと考えられています。

1500年頃、北条早雲(伊勢宗瑞)が小田原に進出し、大森藤頼から小田原城を奪いました。

以後、5代約100年に渡って、後北条氏が関東での勢力を拡大していきました。

北条早雲は後北条氏の祖で、元は室町幕府家臣の伊勢氏の出自とされています。

息子である氏綱が、父の死後に北条氏を称するようになり、鎌倉時代に栄えた北条氏と区別して「後北条氏」と呼ばれています。

北条早雲

後北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高等学校がある場所)を詰の城としていました。

居館部については、後北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説です。

しかし大森氏時代には、より東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もあります。

後北条氏3代当主・北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えました。

北条氏康

1561(永禄4)年、北関東において、後北条氏と敵対する上杉謙信が越後から侵攻し、小田原城の戦いとなりました。

軍記などでは、謙信は11万3千(関八州古戦録より)ともいわれる大軍勢で小田原城を包囲しましたが、1か月にわたる篭城戦の後、上杉軍の攻撃を防ぎ切ったと伝えています。

ただ、実際は10日間ほどの包囲であったとみられています。

上杉謙信

1568(永禄11)年、甲斐国の武田信玄は駿河今川領国への侵攻を開始し、後北条氏は甲相同盟を破棄して越後上杉氏との越相同盟を結び、武田方に対抗しました。

これに対して信玄は、北関東の国衆と同盟して後北条領国へ圧力を加え、翌年10月1日から4日にかけて後北条領国へ侵攻し、小田原城を包囲する軍事的示威活動を行い、撤退に際して追尾した後北条勢を三増峠の戦いにおいて撃退しました。

ただ、後に後北条氏が武田の駿河領有を承認し甲相同盟を回復している経緯からも、この時の小田原攻めは本格的な侵攻ではなく、軍事的示威行為に過ぎないものであったと考えられています。

武田信玄

後北条氏による小田原城の改築は、大きいものでは少なくとも二度あったと考えられています。

最初は北条早雲が小田原城を得た直後で、ほぼ同時期に鎌倉に大被害をもたらした大地震があったといわれています。

文献上の記録は無いものの、距離的に近い小田原も被害を受けた可能性があり、戦闘と地震による打撃を回復させるための改築が行われたと見られています。

もう一回は、1566(永禄9)年から同12年の時期に小田原城の改築に関する文書が多数発給されていることから、この時期に相次いだ上杉氏・武田氏の侵攻に備えたものと考えられています。

 

また、甲相駿三国同盟の時期を除けば、小田原城の西隣に位置する駿河国駿東郡は、後北条氏を含めた諸勢力による争奪が長く続いていました。

小田原城は、後北条氏の時代全体を通じて一番緊迫した国境であった駿東方面への押さえとして重要視されており、関東地方の大半を制圧した後もその中央部に本拠地に移動させずに小田原城を本拠とした理由と考えられています。

なお、北条氏康の居館には会所・寝殿が備わっており、1558(永禄元)年に小田原に入った古河公方足利義氏が氏康邸を宿舎としていたことが知られています。

 

1590(天正18)年、豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして北条氏政と当主氏直が指揮する後北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重・宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃しました。

小田原征伐などと呼ばれるこの戦いにおいて、秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに、別働隊をもって関東各地の後北条氏の支城を各個撃破しました。

篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした後北条氏の意図を挫かれ、3か月の篭城戦の末、ほとんど無血で小田原城は開城することになりました。

これにより、後北条氏は滅亡し戦国時代が終焉を迎えました。

豊臣秀吉

その後、秀吉は国綱とともに下野国宇都宮に陣を移し、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定、秀吉の国内統一事業はこれをもって完成しました。

また、この篭城戦において北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論しましたが、一向に結論が出なかった故事が「小田原評定」という言葉になっています。

小田原評定

後北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参陣した大久保氏が小田原城の城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。

その後、大久保氏の改易にあたり、城の一部は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。

近世に大久保忠世・稲葉正勝によって改修された部分は、現在の小田原城址公園及び、その近辺です。

小田原城址公園

小田原城の最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭です。

関東支配の中心拠点として整備拡張され、城と城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構(そうがまえ)の出現に至って、その規模は最大に達しました。

これは、秀吉の来攻に備えて八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の総構を凌いでいました。

1614(慶長19)年、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いて、この総構を撤去させています。

地元地方の城郭にこのような大規模な総構があることを警戒していたという説もあります。

徳川家康

江戸時代には居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となりましたが、八幡山は放置されました。

また、外郭は完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心に遺構が残っています。

古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界であり続けました。

明治初期における小田原町の境界も総構です。

そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭であるといえます。

総構

1686(貞享3)年に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。

1870(明治3)年に廃城となり、1872(明治5)年までに城内の多くの建物は解体されました。

後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに1901(明治34)年には、二の丸に御用邸が建てられました。

しかし、1923(大正12)年9月の関東大震災により、御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。

従って、現在残っている建造物は、ほとんど近年復元されたものです。

その後、1934(昭和9)年に隅櫓(すみやぐら)が再建され、1960(昭和35)年5月には市民待望の天守閣が、廃城以来90年ぶりに復興されました。

続いて1971(昭和46)年3月に常盤木門(ときわぎもん)が枡形のかたちで復元され、1997(平成9)年10月に銅門(あかがねもん)、2009(平成21)年3月には馬出門(うまだしもん)が復元されました。

1938(昭和13)年8月に二の丸・三の丸の一部が、1959(昭和34)年5月に本丸と二の丸の残り全部が、国の史跡に指定されています。

また、県内中井町(中井町史跡文化財)の民家には、二の丸にあった幸田門と伝わる門が現存しています。

しかし当時の部材が少しだけしか使われていないようであり、大きさの面でも違いがあることから確定には至っていません。

市内の民家にも城門が移築現存していますが、改造が著しくこちらも移築城門と確定に至っていません。

 

小田原城は、主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城です。

千葉県佐倉市の「佐倉城」や埼玉県川越市の「川越城」のように土塁のみの城の多い関東地方においては特殊といえ、関東の入口としての小田原城の重要性が窺えます。

なお、現在のような総石垣の城になったのは、1632(寛永9)年に始められた大改修後のことです。

本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪(くるわ)、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、四方向の守りを固めていました。

この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出として機能しました。

本丸には天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられています。

江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されています。

小田原駅の南西側にある八幡山古郭は、平地部に対する詰城に当たります。

小田原合戦において、北条氏政がここに陣を置いたとされています。

八幡山

 

小田原城天守は、1階建の小天守、続櫓、三重4階の大天守の三部構成からなります。

大天守は見た目三重ですが、一重目は2階に別れており、4階建の天守となります。

天守

これは大きな天守を嫌がる幕府に対する配慮です。

他のお城でもこのように天守を小さく見せる工夫が施されている例が見られます。

天守のみの高さは27.2m、天守台石垣の高さは11.5m、総高38.7m、本丸広場の海抜は29.7m、合わせて海抜約70mです。

ちなみに五重天守の設計図と雛形の模型もありました。

これは江戸時代の震災後の修復の為に書かれたものらしいですが、幕府への配慮からか結局小田原城に五重天守が造られることはありませんでした。

天守の意匠には宮大工の寺社建築の技術が取り入れられているといわれます。

一重目の屋根には、出窓の上に切妻破風と千鳥破風が施されています。

出窓は3箇所に施されていますが、石落しはいずれも再現されていません。

天守アップ

二重目の屋根には比翼千鳥破風と軒唐破風が、入母屋造の屋根には入母屋破風と軒唐破風、鯱が施されています。

天守台石垣からは、基礎工事の際に古い時代の石垣が出土し、この石垣の埋蔵保存の為の工事変更などから工期が2ヶ月以上も遅れました。

北條の天守台発見かと騒がれましたが、江戸時代初期のものと推測されています。

 

小田原城天守は60~70年周期で訪れる震災の度に、再建と修復を繰り返してきました。

後北条氏の時代である1581(天正9)年から天守が存在したという説もありますが、1633(寛永10)年の震災まで存在した初代、同年より再建された2代目、1870(明治3)年に取り壊された3代目と、3代に渡って存在したのではないかといわれています。

1634(寛永11)年には、三代将軍徳川家光が天守からの眺めを楽しんだとの記録もあります。

江戸時代の小田原城は、徳川将軍家の上洛の際の宿所、御成城であり、天守も含めて本丸は藩主ではなく将軍家の敷地として使われました。

現在、天守は資料館になっており、最上階は売店と展望台になっています。

内観1

内観2

内観3

展望台

また、小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。

このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。

多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。

常盤木門

本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。

古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。

1703(元禄16)年の大地震で崩壊した後、1706(宝永3)年に、多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、1870(明治3)年の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。

常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられてます。

また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。

現在の常盤木門は、市制30周年事業として再建したもので、1971(昭和46)年3月に完成しました。

 

現在の小田原城は古くから残っている建築ではないですが、復元された天守や城郭などを見て、広大な外郭遺構を見て回り、その歴史を学んでみるのも良いのではないでしょうか。

 

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