松下村塾
山口県萩市に『松下村塾』という観光スポットがあります。
幕末に興味がある人なら知らない人はいないほど有名な場所です。
萩市
松下村塾とは、江戸時代末期(幕末)に、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾のことです。
吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られています。
吉田松陰は1830(文政13)年、長州萩城下松本村(現・山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。
1834(天保5)年、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修めます。
1835(天保6)年に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けました。
玉木文之進
文之進の指導は非常に厳格なもので、松陰が授業中に顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わっています。
文之進が官職に就いたことで松下村塾は一旦は閉鎖されますが、その後に、松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、塾生の教育にあたりました。
1838(天保9)年、松陰はわずか9歳で、明倫館の兵学師範に就任します。
明倫館は、1719(享保4)年に、5代藩主毛利吉元が毛利家家巨の子弟教育のために開いた藩校です。
水戸藩の「弘道館」、岡山藩の「閑谷学校」と並んで、日本三大学府の一つと称されました。
明倫館には、士分と認められた者しか入学できず、町民、農民はもちろん、軽輩と呼ばれた足軽、中間なども入学できませんでした。
対照的に、松下村塾は武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れていたことで知られています。
明倫館
松陰は11歳のときに藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められます。
そして、13歳のときに長州軍を率いて西洋艦隊撃滅演習を実施します。
毛利慶親
15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなりました。
1850(嘉永3年)9月には、九州の平戸藩に遊学し、海防論者として有名な葉山左内のもとで修練しました。
左内は『辺備摘案』を上梓し、阿片戦争で清が敗北した原因は、紅夷(欧米列強)の軍事力が強大であったことと、アヘンとキリスト教によって中国の内治を混乱させたことにあったとみて、山鹿流兵学では西洋兵学にかなわず、西洋兵学を導入すべきだと主張し、民政・内治に努めるべきだと主張していました。
平戸
松蔭は左内から『辺備摘案』や魏源著『聖武記附録』を借り受け、謄写し、大きな影響を受けたそうです。
その後江戸に出た松蔭は、砲学者の豊島権平や、安積艮斎、山鹿素水、古河謹一郎、佐久間象山などから西洋兵学を学びました。
佐久間象山
1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀に来航すると、松蔭は師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれます。
この時、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っています。
そこには「聞くところによれば、彼らは来年、国書の回答を受け取りにくるということです。そのときにこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていました。
ペリー
その後、師の薦めもあって外国留学を決意し、同郷で足軽の金子重之輔と、長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとします。
しかし、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦したことから、同艦が予定を繰り上げて出航していたために果たせませんでした。
同年、藩主に意見書「将及私言」を提出し、諸侯が一致して幕府を助け、外寇に対処することを説きました。
クリミア戦争
1854(嘉永7)年、ペリーが日米和親条約締結のために再航した際には、金子重之輔と2人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ乗船しました。
しかし、渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄されました。
幕府の一部では、このときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったようですが、象山と親交のあった川路聖謨の働きかけで老中の松平忠固、老中首座の阿部正弘が反対したために助命、国許蟄居となりました。
松陰は長州へ檻送されたあとに野山獄に幽囚されました。
ここで富永有隣、高須久子らと知り合い、彼らを含め11名の同囚のために『論語』『孟子』を講じ、それがもととなって『講孟余話』が成立することになります。
この獄中で、密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記しました。
高須久子といえば、映画『獄に咲く花』や大河ドラマの『花燃ゆ』などに出ています。
『獄に咲く花』高須久役:近衛はな 吉田松陰役:前田倫良
1855(安政2)年に出獄を許されましたが、生家である杉家に幽閉の処分となります。
1856(安政3)年には、禁固中の杉家において「武教全書」の講義を開始しました。
1857(安政4)年に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾します。
この松下村塾で、松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していきました。
また、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行うという「生きた学問」だったといわれています。
現代の教育の開祖ともいえる存在です。
高杉晋作
伊藤博文
山縣有朋
1858(安政5)年、松陰は幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言します。
間部要撃策とは、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策でした。
松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶されます。
次に伏見にて、大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画しました。
しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)ら弟子や友人の多くは、伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え、松陰を失望させました。
当時はまだ、高杉や桂といった幕末の志士も、そこまで過激派ではなかったようです。
桂小五郎
松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり、草莽崛起論を唱えるようになります。
さらに、幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけています。
結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚されることとなりました。
1859(安政6)年、尊王攘夷派の思想的指導者であった梅田雲浜が幕府に捕縛されます。
その際、雲浜が萩に滞在した際に松陰と面会していることや、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、松陰も江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄されます。
評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認でしたが、松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を自ら進んで告白しました。
この結果、松陰に死罪が宣告され、1859(安政6)年10月27日、伝馬町牢屋敷にて執行されました。
29歳という若さでした。
松陰の死後、松陰の弟子たちが次々に台頭していき、結果的には倒幕が成され、260年続いた江戸時代が終わり、明治時代がやってきます。
明治維新に関わった維新志士たちのトップの多くは松陰の弟子であったため、やはりこの吉田松陰なしには明治維新は為されなかったのだろうと思います。
そんな彼らがともに学んだ『松下村塾』は、どのような場所だったのでしょうか。
場所は、山口県萩市の松陰神社境内の一角にあります。
松陰神社 正面鳥居
建物は木造瓦葺き平屋建ての小舎で、当初からあった八畳と、十畳半の部分があります。
建てられた詳細な年は不明です。江戸後期と言われています。
もともとは松陰の実家の物置だった建物で、和室2間に土間が付いただけの簡素なものです。
普通の江戸時代の家と考えてください。
十畳半の部屋は、塾生が増えて手狭になったため、後から塾生の中谷正亮が設計し、松陰と塾生の共同作業で増築したものだといわれています。
松下村塾外観
1889年(明治22)年に、松下村塾の門下生であり島根県令などを務めた後、萩に帰郷していた境二郎が、往時の塾舎の保存を提案します。
品川弥二郎、山田顕義らがこれに賛同して保存会を発足させ、寄付金を募ります。
その後、屋根の漆喰塗りや壁の塗り直しなどの補修を行い、塾舎を保存することになったそうです。
1922(大正11)年には、国の史跡に指定されました。
すぐ隣には、史跡『吉田松陰幽囚ノ旧宅』があります。
ここは松陰の生家であり、1855(安政2)年に野山獄から出た松陰が謹慎していた場所でもあります。
幽囚室はこの家の東面の4畳半室ですが、部屋の西面に杉家の仏壇、神祭霊位吉田家祖霊を祀ってあるため、実際には3畳半の部屋です。
建物の形式は、木造平屋建、入母屋造、桟瓦葺。
茶室、便所、井戸、庭園施設(灯籠、飛石、石敷き、手水鉢)が付属しています。
内観1
内観2
幽閉部屋
松下村塾は、2015(平成27)年に「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産の文化遺産に登録されました。
松陰ゆかりのこれらの建物は、松陰神社の敷地内にあるので、年中無休で外観のみ見学可能となっています。
幕末当時に建てられた建物も現存しています。
境内には他にも松陰ゆかりの建物や史跡がありますので、山口を訪れた際は訪ねてみてはいかがでしょうか。
ただし、実際にはけっこう辺鄙な場所にあるので、アクセスにはご注意を。