瑞鳳殿

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『瑞鳳殿』は、宮城県仙台市青葉区霊屋下にある、仙台藩祖・伊達政宗の霊廟です。

広瀬川の蛇行部を挟んで、仙台城の本丸跡と向かい合う経ヶ峯に位置します。

元々あった建物は戦災で焼失しましたが、後に復元されています。

広瀬川

仙台城本丸跡

瑞鳳殿の周辺には、伊達政宗の次男(嫡男)で仙台藩2代藩主・伊達忠宗の霊廟である「感仙殿」、伊達忠宗の六男で仙台藩3代藩主・伊達綱宗の霊廟である「善応殿」があります。

さらに、9代藩主周宗公、11代藩主斉義公夫妻の墓所である「妙雲界廟」や、5代藩主吉村公以後、歴代藩主の夭折した公子公女の墓所である「御子様御廟」といった伊達氏に関連する霊廟や付属施設があり、一帯が「経ヶ峯伊達家墓所」として、仙台市指定史跡となっています。

また、霊廟瑞鳳殿の香華所として二代忠宗が創建した「瑞鳳寺」が隣接しています。

感仙殿

瑞鳳寺

伊達政宗は、「独眼竜政宗」の異名で知られた武将で、大河ドラマの主人公にもなりました。

17歳で奥州伊達氏の家督を継ぐと、19歳で南奥州を支配し、仙台藩初代藩主となって東北の繁栄を築きました。

10~20年生まれるのが早ければ天下人となっていたかもしれないといわれ、謝罪と処世術の達人だったともいわれています。

伊達政宗

伊達政宗は1567年9月5日(永禄10年8月3日)、出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗と、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男として生まれました。

幼名は梵天丸です。

1577(天正5)年11月15日、元服して、伊達藤次郎政宗と名付けられました。

諱の「政宗」は、伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって父・輝宗が名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多いです。

梵天丸はこの諱を固辞しましたが、父・輝宗より強いて命ぜられました。

伊達輝宗

伊達政宗が伊達家当主として家督を継いだのは1584(天正12)年。

本能寺の変によって織田信長が明智光秀に討たれた2年後のことです。

この年、父・輝宗は上杉謙信との戦いにおいて、信長と共同歩調を取ることで奥州の覇権を狙っていました。

しかしその矢先に、信長の死を受けて「家督を伊達政宗に譲る」と言い放ち隠居しました。

輝宗の隠居の背景には、伊達家内部の家督相続を巡る確執があります。

輝宗には、政宗と弟・竺丸による後継者争いが表面化する前に、政宗を当主に決めてしまおうという魂胆があったのです。

織田信長

明智光秀

1585(天正13)年、輝宗が二本松城主・畠山義継の計略により没したのち、政宗は畠山義継の子・二本松義綱を攻めます。

しかし、周囲には蘆名氏をはじめとする南奥羽の諸大名が守りを固めていました。

1586(天正14)年、政宗は畠山氏及び奥羽大名との合戦を経て、畠山氏を滅ぼします。

しかしこの直後、政宗は友好関係を保っていた出羽国山形城・最上義光と敵対関係に陥ります。

政宗の母は、最上義光の妹・義姫で、義光と政宗は伯父と甥の関係にありましたが、両者は庄内地方の大宝寺氏を巡って対立します。

さらに政宗の家臣・鮎貝氏が最上側に寝返る事態にまで発展し、それまで維持されてきた最上氏と伊達家の同盟関係は完全に破綻しました。

こうして最上義光、大崎氏の当主・大崎義隆、蘆名義広という奥羽の3大名と、常陸国・佐竹義重が伊達包囲網の連合軍を形勢し、政宗の敵となりました。

四面楚歌の状況となり、義光と政宗が衝突しようとするそのとき、説得をするために輿に乗って駆けつけたのが、正宗の母・義姫でした。

義光と義姫は兄妹仲が良く、日頃から可愛がっていた義姫の説得に義光が応じて、政宗は衝突を避けることに成功しました。

そして、義光が参戦しなくなったことで連合軍の足並みは揃わなくなり、政宗は1589(天正17)年の摺上原の戦いにおいて、蘆名氏を滅亡に追い込みました。

家督相続の後、わずか24歳で、政宗は奥州平定を果たしたのです。

政宗はその後、豊臣秀吉による小田原攻めに遅参した際には死に装束で現れて弁明したり、豊臣秀次と親しくなったことで謀反を疑われた際も結局は死罪は免れたりといった逸話を残しています。

非常に世渡りが上手で、なおかつ豪胆な性格の人物だったといわれています。

豊臣秀吉

1599(慶長4)年に秀吉が死去した後、政宗は徳川家康に忠誠を誓い、政宗の長女・五郎八姫と家康の6男・松平忠輝との婚約を結びます。

家康は関東管領として領土を拡大していましたが、これに危機感を抱いた石田三成ら奉行衆が、牽制役として上杉景勝を越後から会津に転封しました。

徳川家康

1600(慶長5)年、上杉征伐のための包囲網が展開されます。

このとき、政宗は家康から「戦後の報酬には政宗が自ら切り取った領土をすべて与える」と書かれた約束状「100万石のお墨付き」を受けていますが、これは政宗が景勝との戦いに集中できるようにと配慮したものでした。

上杉包囲網には、最上義光を含めた奥州大名も参戦し、家康の背後を突かせないように画策します。

一方で政宗は、この戦いに乗じて領地拡大を企んでいました。

独断で一揆を扇動するなど、勝手な振る舞いをしていたことが家康に知られた結果、戦後の恩賞追加の希望はほとんどを退けられ、62万石の領地を与えられるに留まったのです。

 

政宗は政治・軍事に精通するだけではなく、文化人でもありました。

仙台藩初代藩主に収まった政宗は、東北の都作りに着手します。

仙台が古代陸奥国府のあった宮城郡に位置することから、名所や旧跡の再生と復興に努めました。

仏教美術においては上方の絢爛豪華な桃山文化の手法を吸収すべく、畿内から随一の職人を呼び寄せます。

また、政宗は国内だけではなく西洋世界にも意識を向けており、1613(慶長18)年に、仙台藩とスペインの通商交渉のため「遣欧使節」を結成します。

フランシスコ会宣教師・ルイス・ソテロと、政宗の家臣、支倉常長をはじめとする180名余りの使者を、「ヌエバ・エスパーニャ」(現在のメキシコ)、「スペイン」、「ローマ」へ派遣しました。

これは「日本人がヨーロッパへ赴いて外交交渉をした」という点において日本初の外交でしたが、交渉は幕府によるキリスト教弾圧により失敗に終わります。

帰国したあと、支倉常長は間もなく死去し、ルイス・ソテロは長崎へ密入国を試みて捕らえられ、火刑により殉教しました。

ヨーロッパとの外交交渉は失敗に終わりましたが、政宗はその後も田畑を整備し、運河を造って、江戸へ米を出荷するための渡し口として「石巻港」を開くなど、仙台藩を発展させるために尽力します。

仙台藩から出荷された米は江戸で広く流通し、江戸で消費される米の3分の1は仙台藩で作られた「奥州米」であったといわれており、仙台藩はこうして東北の要として機能するようになりました。

政宗は、生前ホトトギスの初音を聞き遺骸を経ヶ峯に葬るよう遺言し、1636(寛永13)年没しました。

 

政宗の後を継いだ第2代藩主の忠宗は、政宗の遺言に従い、翌1637(寛永14)年10月に政宗の御霊屋(おたまや)を経ヶ峯の東部に建立して『瑞鳳殿』と命名しました。

瑞鳳殿は、本殿、拝殿、唐門、御供所、涅槃門からなり、桃山文化の華麗な建築を誇る建築物です。

仙台城本丸を向くように、西向きに建てられています。

瑞鳳殿の建築には、総奉行として奥山大学常吉、大工として米野内蔵助近吉、山内四郎兵衛貞次、装飾担当として絵師の狩野定良、中村清六常長らが関わりました。

同じ年に、瑞鳳殿の隣接地に政宗の菩提寺として「瑞鳳寺」が創建され、仙台藩領内の平泉の毛越寺より遷された釈迦三尊像が本尊となりました。

その後、第2代藩主の忠宗を祀る「感仙殿」、および第3代藩主である綱宗の「善応殿」が、共に経ヶ峯の西部に建立されました。

両者は瑞鳳殿と相対するように東向きで造られました。

第4代以降の藩主は、経ヶ峯から南東方向にある大年寺山の墓所に埋葬されましたが、第9代藩主である周宗、第11代藩主である斉義と斉義夫人芝姫の墓は、瑞鳳殿近くの「妙雲界廟」に置かれました。

瑞鳳殿

瑞鳳殿は1931(昭和6)年に国宝に指定されました。

しかし、第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年7月10日、アメリカ軍による仙台空襲によって瑞鳳殿、感仙殿、善応殿はすべて焼失しました。

戦中や戦後の仙台では、空襲による樹木の焼失に加え、食料不足、エネルギー不足、住宅不足から市街地周囲の森林が伐採され、薪、炭や木造住宅資材にされたり、開拓して農地や住宅地へ転用されたりする例が多くみられました。

仙台市は歴史的建造物が焼失したものの樹木の伐採は逃れた経ヶ峯の保存を期し、1951(昭和26)年ら1952(昭和27)年にかけて、買収および寄付により瑞鳳殿一帯の所有権を伊達家から買い取ります。

それからしばらく整備などは行われませんでしたが、政宗生誕400周年に当たる昭和40年代になると、瑞鳳殿再建の機運が高まりました。

経ヶ峯を含む青葉山段丘では、埋れ木細工の材料採取や木桶風呂(鉄砲風呂)の燃料採掘のために幕末から亜炭坑道が発達しました。

そのため、瑞鳳殿址でも至る所が陥没する鉱害が発生していました。

そこで、臨時石炭鉱害復旧法に基き、1969(昭和44)年から1971(昭和46)年にかけて、瑞鳳殿址の地盤安定化工事が施工されました。

また、瑞鳳殿再建工事に先立ち、経ヶ峯は「霊屋風致地区」および「霊屋保存緑地」に指定されました。

1971(昭和46)年に再建準備会が立ち上げられ、1973(昭和48)年に再建期成会が結成されました。

1974(昭和49)年に再建の起工式が行われ、併せて瑞鳳殿址の発掘調査が行われ、伊達政宗の遺骨や副葬品などが出土しました。

1979(昭和54)年に瑞鳳殿の本殿、拝殿、涅槃門、御供所が竣工し、1980(昭和55)年に御供所が瑞鳳殿資料館として開館しました。

さらに、1984(昭和59)年には感仙殿および善応殿が再建され、翌年に再建落成式が行われました。

3年後の1987(昭和62)年にNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』が放送されると「政宗ブーム」が起きました。

仙台には大勢の観光客が訪れ、瑞鳳殿は観光地の一つとなりました。

2001(平成13)年には、仙台開府400年を記念して大改修工事が実施されました。

柱には彫刻獅子頭、屋根には竜頭瓦が復元され、より創建当時に近い形へと甦りました。

 

参道の坂道を進み、杉並木の中にある石段を登った先には、涅槃門があります。

涅槃とは、煩悩を取り去った悟りの境地となる状態や死を意味しています。

樹齢数百年の青森ヒバを用いて再建され、金箔や漆で覆われた豪華で美しい門の奥は、煩悩から解き放たれた神聖な空間となっています。

石段

涅槃門

瑞鳳殿 本殿

本殿を彩る飾り彫刻は、目を奪われるほど鮮やかです。

鳳凰や天女、獅子など、豪奢かつ繊細な装飾に圧倒されます。

伊達政宗の遺体は、地下3メートルほどの場所に納められているといいます。

また、2022(令和4)年10月末から2023(令和5)年3月末にかけては、21年ぶりに修復作業が行われ、黒漆の塗り直しや彩色の補筆、クリーニングなどが行われました。

瑞鳳殿 装飾1

瑞鳳殿 装飾2

瑞鳳殿 装飾3

ちなみに、瑞鳳殿から北西に車で15分、八幡地区にある大崎八幡宮は、平安時代の蝦夷征伐を指揮した坂上田村麻呂ゆかりの神社です。

伊達政宗の命によって仙台に移され、豊臣家に仕えていた当代随一の名工を招き、1604(慶長9)年から12年の歳月をかけて造営させました。

赤く巨大な「一之鳥居」から続く参道の奥、石段を登った小高い丘に社殿があります。

手前の拝殿、奥の本殿が連結した「権現造り」の建築としては国内最古のもので、1952(昭和27)年に国宝に指定されています。

大崎八幡宮

仙台に訪れた際は、戦国時代に生まれた天才武将の霊廟に立ち寄ってみるのもいいかもしれませんね。

 

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