端島

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長崎県長崎市、長崎港から約19キロの海に浮かぶ「端島」。
通称「軍艦島」としての方が、ご存知の方は多いかもしれません。
端島には、かつて炭鉱があり、そこで石炭が産出されていました。

実はこの島の石炭産出業はかなり古く、戦中、戦後だけのものではありません。
また、日本中の建物が基本的にはまだ木造であった時代にも関わらず、端島には多くの鉄骨造の建物が建てられました。

鉄骨造のアパート

鉄骨であれほどの規模の住居を造るとなると、当時莫大なお金が必要でした。
なぜそのようなことが可能だったのでしょうか。

そこで今回の記事では、この「端島」の歴史的背景と、人々がどのように生活していたのか、といったことを深掘りしてみようと思います。


まず、歴史的に、いったいいつから端島で石炭産出の事業が開始されたのかということです。
端島炭坑の歴史区分は大まかに、以下の6期に分けられます。
・第一期:原始的採炭期(1810 – 1889年)
・第二期:納屋制度期(1890 – 1914年)
・第三期:産業報国期(1914 – 1945年)
・第四期:復興・近代化期(1945 – 1964年)
・第五期:石炭衰退・閉山期(1964 – 1974年)
・第六期:廃墟ブームと産業遺産期(1974年 – )

端島の名がいつごろから用いられるようになったのか、正確なところは不明ですが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されています。
『天保国絵図』にも「端島」とあるようです。

端島での石炭の発見は、一般に1810(文化7)年のこととされています。
発見者は不明だそうです。

『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760(宝暦10)年に、佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が、端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張しました。
特に野母村・高浜村は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていた、と述べています。
なお当時は、幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようです。

つまり端島では、すでに江戸時代から、少しではありますが炭鉱業が行われていたということです。

石炭発見の時期ははっきりしませんが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度でした。
1869(明治2)年に長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、台風による被害のために廃業に追い込まれました。

36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886(明治19)年のことで、これが第一竪坑だとされています。

端島(軍艦島)の位置

1890(明治23)年、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が、三菱社へ10万円で譲渡します。
端島はその後100年以上にわたり、三菱の私有地となりました。

譲渡後、端島炭鉱の出炭量は、第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって、隣接する高島炭鉱を抜くまでに成長しました。
この頃には、社船「夕顔丸」の就航、製塩・蒸留水機設置にともなう飲料水供給が開始され、1893(明治26)年には社立の尋常小学校が設立されるなど、基本的な居住環境が整備されました。
また、島の周囲が段階的に埋め立てられました。

端島の埋め立て歴史

1890年代には、高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていましたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていました。

納屋制度とは、明治期に炭鉱などでみられた制度です。
その時代、炭鉱資本家は労働者を直接管理せず、納屋頭を設けて労働者の雇入れや管理をまかせました。
納屋頭は労働者を、納屋と称する合宿所に収容して家具など一式を貸与するとともに、仕事の割当てから賃金の一括受取りまで行ないましたが、様々な名目で搾取しました。
待遇は残忍でさえあり、鉱夫の死亡率は高く、逃亡する者には私刑が加えられました。

こうしたことから、高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こりました。
端島における納屋制度の廃止は高島よりも遅かったのですが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となりました。

納屋制度の廃止や三菱による坑夫の直轄化とともに、RCアパートの建造が進められ、1916年(大正5)年には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設されました。
大正時代には、すでに鉄筋コンクリート造の住宅が造られています。
日本中の家のほとんどが木造住宅だった時代に、です。

30号棟

この年には、大阪朝日新聞が、端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しています。
また、5年後の1921(大正10)年には、長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいます。
これらのことから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったと思われます。

戦艦土佐と軍艦島比較

ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく、大半は木造の平屋か2階建てだったようです。

RC造の30号棟が完成した1916年(大正5)年までに、まず世帯持ち坑夫の納屋(小納屋)が廃止されました。
1930(昭和5)年の直営合宿所の完成以降には単身坑夫の納屋(大納屋)も順次廃止され、1941(昭和16)年にはついに、端島から納屋制度が全廃されることになります。

しかし、代わって登場した三菱の直轄寄宿舎も、劣悪でした。
例えば1916年(大正5)年に建設された30号棟は、世帯持ち坑内夫向けの6畳一間の小住居がロの字プランの一面に敷き詰められ、その狭さから建設当初から評判が良くなかったようです。
一方で、後に建設された坑外夫向けの16号-20号棟は、6畳+4.5畳というやや広めの間取りで、端島における坑内夫と坑外夫の差別がそのまま出ていました。

しかし、鉄筋コンクリート造で住宅が造られるなどといった背景から、この端島という炭鉱がどれだけ政府にとって重要だったかがわかります。
大正時代というと、鉄道がどんどん整備されていった時代です。
また、端島で産出される石炭は非常に良質であったそうで、この炭鉱は重宝されたようです。

端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つでした。
それを支える労働者のための福利厚生も急速に整えられました。
1937(昭和12)年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていたそうです。

高島炭鉱

一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」との言葉が残されています。

1916(大正5)年以降から少年および婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始されてもいます。
1939(昭和14)年からは、朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943(昭和18)年から中国人捕虜の強制労働が開始されました。
朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中に、それぞれ収容されたといいます。
戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の華人労務者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、2007(平成19)年3月27日に長崎地裁が、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定しました。

また、1939(昭和14)年には坑内でガス爆発事故が発生し、死傷者34名を出した記録もあります。

戦後になると、設備の近代化と同時に、労使関係の近代化が行われました。
1946(昭和21)年には端島炭鉱労働組合が結成され、組合闘争の結果として賃金が上がり、ますます転入者が増えました。

賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えました。
遊び場にブランコも設置され、住みやすくなったとされています。
特に1955(昭和30)年の海底水道開通で、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど、生活環境は劇的に改善しました。

ブランコ

風呂

島内には3つの共同浴場が存在し、職員風呂と坑員風呂の区別がありました。
しかし、これも労働組合結成直後に起こった差別撤廃闘争で解消するなど、戦前からあった職員と坑員の差別は戦後から閉山期にかけて段階的に解消されていきました。

人口が最盛期を迎えた1960(昭和35)年には5,267人の人口があり、人口密度は83,600人/平方キロメートルを記録して世界一を誇り、東京特別区の9倍以上に達しました。
そう、当時この場所は、世界一の人口密度を誇る場所だったのです。
炭鉱施設や住宅のほか、役場、小中学校、店舗、病院、寺院、映画館、理髪店、美容院、パチンコ屋、雀荘、社交場(スナック)などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していました。

スナック

映画館

ただし、火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に建設されました。
おそらく、これほど狭い場所にこれほど全てのものがそろってい場所は、当時世界のどこにもなかったでしょう。

このころが、端島の最盛期でした。
このころになると、工夫たちには依然として階級はあったものの、皆が高給取りになっていました。
1950年代、「三種の神器」といわれた白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の日本全国の普及率は、7.8%、20.2%、2.8%と非常に低い水準でした。
ところが、端島のこれらの三種の神器の普及率は、全家庭において全てが100%という驚異的な数字を誇りました。

当時の部屋

これらのことから、端島にいた人たちの当時の暮らしぶりがわかるでしょう。

しかし、そんな時代も長くは続きませんでした。

1960年以降、主要エネルギーが石炭から石油へ移行することにより、端島も衰退していくことになります。
特に1964(昭和39)年の九片治層坑道の自然発火事件が痛手となり、炭鉱の規模が縮小されることになります。
これ以降、人口が急速に減少していきます。

しかし1965(昭和40)年に三ツ瀬区域の新坑が開発されて端島炭鉱は一時期に持ち直し、人口は減ったものの、機械化・合理化によって生産量も戦時中に迫る水準となりました。
さらに、空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情は劇的に改善されます。

この時期に長崎造船大学の片寄俊秀が端島の住民にアンケート調査を行った結果が残っています。
それによると、この時期の端島は住民の充足度も高く、福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、全てが狭い所で完結している「シビル・ミニマムの完全充足期」と評されています。

しかし、1970年代以降のエネルギー政策の影響をもろに受けます。
1970(昭和45)年に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表します。
その後数百万トンの石炭を残したまま、1974(昭和49)年1月15日に閉山しました。

閉山時に約2,000人まで減っていた住民は、同年4月20日までに全て島を離れます。
4月20日の連絡船の「最終便」で退去した総務課のN氏、端島の最後を見届けるべく乗船していた研究者の片寄俊秀、阿久井喜孝、片寄の友達である作家の小松左京らの離島をもって、端島は無人島となりました。
しかし、その後すぐに人がいなくなったわけではなかったようです。
高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は同年末まで続きました。

時を経て、2000年代に入り廃墟ブームが巻き起こったこともあり、再び端島が注目されるようになりました。
今でも「軍艦島上陸ツアー」などが組まれています。

さて、では端島にはどのような建物があるのかということですが、本当にいろいろあります。
また、建物の前に、そもそも端島はどのぐらいの大きさの島なのかということも重要です。

端島は本来は、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬でした。
その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897(明治30)年から1931(昭和6)年にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張しているのです。
その大きさは、南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われています。
面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1,200メートル。
島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っていて、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設があります。

埋め立ての歴史とマップ

では、いくつか建物を紹介していきます。

まずは、1936(昭和11)年に建設された端島神社(1号棟)です。
小高い丘の上に1階建てで、例祭(山神祭)は毎年の4月3日ごろの日曜日です。
神社の下には温室があります。

1号棟

30号棟は、1916(大正5)年に建設された、日本初の鉄筋コンクリート造アパートです。
日本初の鉄筋コンクリート造「高層」アパートともいわれています。
グラバー邸のトーマス・ブレーク・グラバーと関わりがあるという説があり、通称グラバーハウスと呼ばれます。
当初は4階建てでしたが、完成後まもなく7階建てに増築されました。

島の南西部、岩山の南端の山麓に位置し、中央に吹き抜けをもち、上から見るとほぼ正方形に近い「ロの字形」をした建物です。
吹き抜けの周りを囲むようにロの字形の廊下があり、階段も吹き抜けに面しています。
その周囲に巴形に住居が配置されていて、鉱員社宅として建てられましたが、閉山時には下請飯場として用いられました。
部分的に地階もあり、閉山時には売店が入っていました。

戸数は140戸、総床面積は3808.0平方メートル。
基本的な階の構造は、1K(6畳)が19戸と、1K(4畳)が1戸と、共同トイレです。

30号棟

25号棟・26号棟・緑道(山通り)とは通路で繋がっています。
建物の南東側には、船着場に直通のトンネルの出口があります。
技術の問題や材料や環境の悪さのため、最初に造られた下層階の劣化が速く、1953(昭和28)年に上層階をそのままに下層階の鉄筋を取り替え、コンクリートを打ち直して改築しています。

25号棟

23号棟は1921(大正10)年に建設された2階建て木造建築で、1階が社宅、2階が寺となっています。
住職は禅宗でしたが、島唯一の寺として全ての宗派を扱うため、「全宗」と称していました。
個人的には、うまいこと言うなと思いました。
島における死亡者はここに安置された後、火葬場と墓がある中ノ島に送られたそうです。

50号棟は1927(昭和2)年に建造された、アールデコ風の映画館です。
社経営で2階席を完備し、平日は6時から2回上映していました。
端島においては福利厚生が重視され、映画が福岡から直送されて長崎市内よりも早く封切されることから、映画を見るために島外から訪れる人もいたそうです。
演劇やコンサートなども行われました。
炭鉱は24時間の3交代勤務で日中は暇な人も多いため、非常に賑わいました。
しかし、テレビの普及後は衰退し、成人向けのポルノ映画の上映が増えた後、1970(昭和45)年に閉館しました。

65号棟は鉄筋コンクリート造の鉱員社宅で、端島で最大のアパートでもあります。
コの字型をしており、最初に建設された北側の7階建て『報国寮』は、第二次世界大戦中にも関わらず建設が進められ1945(昭和20)年に完成しました。
戦時中には、鉄骨造はおろか木造ですら家を建てるぐらいなら軍備をというのが、基本的な政府の考え方でした。
にもかかわらず、この場所に鉄骨造の巨大なアパートを造ったということから、どれほどこの島が重要な拠点だったかわかります。

65号棟

その後、1947(昭和22)年に8階・9階部分を増築、1949(昭和24)年に東側を9階建てで増築、1953(昭和28)年に東側に10階部分(屋上保育園)を増築、1958(昭和33)年に南側を10階建てで増築(1958年)と、段階的に拡張しました。
最終的には317戸、総床面積16,895.5平方メートル(屋上・地下含む)となりました。

計画時は北側の棟にエレベーターが設置される予定でしたが、中止となり、そのスペースは住居に転用されました。

上層階には、1941(昭和16)年完成の中央住宅(14号棟)で本格的に採用されたカンチレバー(張り出しベランダ)が設けられています。
基本的な部屋の構造は2K(6畳2間)。
4階と7階には緑道(山通り)への連絡通路が、地下1階には理容室があります。

1958(昭和33)年に完成した南側の棟は、「新65号」と呼ばれていました。
端島では最も高い10階建ての建物で、北側・東側の棟は共同トイレでしたが、この棟には各戸に水洗式のトイレが完備されていました。

島内の道路は、30号棟と病院を結ぶ商店街のある街路、岩山の尾根付近を30号棟から65号棟の屋上を繋ぐ山道、岩山の東の中腹の緑道の3本が並行して走っていて、屋内外の階段、スロープ、廊下、連絡橋、屋上などで各棟と接続していました。
交通はほとんど徒歩のみで自転車は無く、自動車もオート三輪が2台あるのみでした。

オート三輪

59号棟・57号棟・16号棟の間にある階段は、端島随一の繁華街である端島銀座の正面にあります。
丘の上の端島神社までずっと続いており、登るのがとても辛いので「地獄段」と呼ばれました。

地獄段

と、ここまで書いてきましたが、まだまだ多くの建物や場所があります。
廃墟となった建物しかありませんが、この廃墟にはとてつもなく歴史的な価値があります。

長崎に行くなら、ちょっと廃墟ツアーの申し込みもしてみるのもいいかもしれません。
ただし、天候次第で普通に中止になるのでご注意ください。

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