彦根城

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彦根城は近江国犬上郡彦根、現在の滋賀県彦根市金亀町に現存する城です。

天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)は国宝、城跡は特別史跡であると共に、琵琶湖国定公園第1種特別地域となっています。

近世の城の中で、天守が国宝指定された5城(松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城)のうちの一つでもあります。

 

琵琶湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点でした。

このため、戦略拠点として古くから注目され、壬申の乱(672(白鳳元)年)、姉川の戦い(1570(元亀元)年)、賤ヶ岳の戦い(1583(天正11)年)、関ヶ原の戦い(1600(慶長5)年)など、多くの合戦がこの周辺で行われました。

織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えています。

また豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ、重臣の石田三成と井伊直政をこの地に配置しています。

江戸時代には彦根藩の政庁が置かれました。

彦根

彦根城は、江戸時代初期に、現在の彦根市金亀町にある彦根山に鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50メートル)です。

山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれました。

また、多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城として有名です。

徳川四天王の一人であった井伊直政は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城しました。

井伊直政

佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城でしたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったといいます。

石田三成

このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していましたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602(慶長7)年に死去しました。

家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603(慶長8)年に琵琶湖に面した彦根山に彦根城の築城を開始しました。

築城には、公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請でした。

1606(慶長11)年2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城しました。

大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後、1616(元和2)年に彦根藩により第3期工事が開始され、御殿が建造されました。

1622(元和8)年、すべての工事が完了し、彦根城が完成しました。

その後も井伊氏は加増を重ね、1633(寛永10)年には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至りました。

徳川家康

彦根城を築くにあたり、大津城、佐和山城はじめ近江国の諸城を移転や破却し、城の建設物に利用したとされます。

結果として彦根藩には彦根城しか残らず、大老も出す譜代筆頭の井伊氏が諸大名に一国一城令を守る手本を示した格好になりました。

筆頭家老・木俣家は1万石を領していましたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていたといいます。

徳川統治下の太平の世においては、城郭は軍事施設としての意義を失い、彦根城も西国大名の抑えのための江戸幕府の重要な軍事拠点から、藩政や年貢米の保管の場所となり、天守や櫓は倉庫等として使われました。

幕末に大老を務めた井伊直弼も、35歳で藩主となるまで、この城下町で過ごしています。

直弼がその時に住んだ屋敷は、「埋木舎(うもれぎのや)」として現存しています。

 

徳川四天王の1人である井伊直政は、1561(永禄4)年2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の嫡男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)近くの祝田(ほうだ・現在の浜松市北区細江町中川)で生まれました。

母は奥山朝利の娘・ひよ、幼名は虎松でした。

井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、当時の井伊家当主である井伊直盛(虎松の父・直親の従兄で養父)は今川義元に仕えて、桶狭間の戦いで戦死しました。

父・直親は、虎松の生まれた翌年の1562(永禄5)年、謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺されました。

当時、虎松はわずか2歳であったため、直盛の娘に当たる次郎法師が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となりました。(大河ドラマにもなっている、井伊直虎という日本の歴史上で非常に珍しい女性当主です)

大河ドラマ 女城主直虎 柴崎コウ

虎松も今川氏に命を狙われましたが、今川氏の家臣であった新野親矩が助命嘆願して、親矩のもとで生母・ひよとともに暮らしました。

1564(永禄7)年に親矩が討死すると、そのまま親矩の妻のもとで育てられたとも、親矩の妹で直盛の未亡人・祐椿尼とひよが養育したともいわれています。

1568(永禄11)年、甲斐国の武田氏が今川氏を攻めようとした際、井伊家家老の小野道好が、今川氏からの命令として、虎松を亡き者にして小野が井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、虎松を出家させることにして、浄土寺、さらに三河国の鳳来寺に入れました。

1574(天正2)年、虎松が父・直親の13回忌のために龍潭寺に来たとき、祐椿尼、直虎、ひよ、龍潭寺住職・南渓瑞聞が相談し、虎松を徳川家康に仕えさせようとします。

まずは虎松を鳳来寺に帰さないために、ひよが徳川氏家臣の松下清景に再嫁し、虎松を松下氏の養子にしたといいます。

 

1575(天正3)年、家康に見出され、井伊氏に復することを許された虎松は、名を井伊万千代と改めました。

さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられました。

万千代は、高天神城の戦いの攻略をはじめとする武田氏との戦いで戦功を立てました。

そして1582(天正10)年、22歳で元服し、直政と名乗ります。

同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、滞在先の堺から三河国に帰還しています。

天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃国・甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数含めた一部隊を編成することとなり、旗本先手役の侍大将になりました。

これにより、徳川重臣の一翼を担うことになります。

その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、その代表が山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した井伊の赤備えという軍装でした。

 

1583(天正11)年1月11日、直政は家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚します。

1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えを率いて武功を挙げ、名を知られるようになります。

また、小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったといいますが、赤備えをまとって兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられました。

1586(天正14)年10月、家康が上洛し、豊臣秀吉に臣従すると、直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価し、11月23日に従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜したといいます。

豊臣秀吉

1588(天正16)年4月、聚楽第行幸の際には、徳川家中で当時筆頭家老であった酒井忠次をはじめ、古参の重臣達が諸大夫に留まるなか、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となりました。

この時には「井侍従藤原直政」という署名がみられ、豊臣姓ではなく藤原姓を称していました。

直政は新参ながら数々の戦功を評価され、1590(天正18)年の小田原征伐では、数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を知られています。

奥州仕置の九戸政実の乱でも仕置軍の先鋒を務めました。

その後、北条氏に代わって家康が江戸に入ると、直政は上野国箕輪(群馬県高崎市)に徳川氏家臣団の中で最高の12万石で封ぜられます。

1598(慶長3)年には、箕輪城を廃し、南の和田城を改築して高崎城と改称して新たな居城としました。

このとき、箕輪城下に住んでいた民衆達も高崎に移っています。

同年、直政が番役として京都にいる家康のもとにいた時に秀吉が死去し、この後の政治抗争で直政は豊臣方の武将との交渉を引き受け、家康の味方に引き入れることに成功しています。

特に黒田如水・長政父子とは盟約を結ぶまでの関係を築き、黒田家を通じてその他の武将も親徳川に組み入れました。

 

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝とともに東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となりました。

同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込みました。

関ヶ原本戦では先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、直政と松平忠吉の抜け駆けによって戦闘が開始されたとされていますが、実際は抜け駆けとされている行為は霧の中での偶発的な遭遇戦であり、戦闘開始はそれに続く福島隊の宇喜多隊に向けた銃撃に求めるべきとされています。

決戦終盤では、井伊直政は島津義弘の甥である島津豊久を討ち取り、さらに退却する島津軍を百余騎率いて追撃しました。

義弘の目前までせまり、義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の柏木源藤に足を狙撃され、落馬してしまいます。

あまりの猛追振りに護衛も兼ねる配下が追いつけず、単騎駆けのような状態であったといいます。

島津義弘

関ヶ原の戦い後は、足に大怪我を負ったにもかかわらず、戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力しました。

西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和交渉役を務め、輝元からは直政の取りなし、特に、周防・長門の2か国が安堵されたことを感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文を送られています。

また、小牧・長久手の戦いで直政が同盟交渉にあたり、聚楽第行幸では同じ侍従以上の大名行列に供奉し、昇殿した縁もあり、長宗我部元親とは入魂の仲であったとされ、その息子で同じく親しい間柄にあり、意に反して西軍に与することとなった盛親の謝罪の取次を仲立ちをしました。

そのほか、徳川氏と島津氏の和平交渉を仲立ちし、外交手腕を発揮しています。

真田昌幸とその次男・信繁(幸村)の助命にも尽力しました。

これは、東軍に味方した昌幸の長男・真田信之の懇請を受け入れたもので、信之は将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動でした。

真田幸村

これらの功により、6万石を加増されて18万石となり、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)に転封となり、同時に従四位下に任官されました。

家康は、西国の抑えと非常時に朝廷を守るため、京都に近い佐和山に井伊家を配したと伝えられています。

直政は、1602(慶長7)年2月1日、彦根城築城途中に佐和山城で死去しました。

遺体は遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付され、その跡地に長松院が建立されました。

家督は長男の直継(後の直勝)が継ぎましたが病弱であったため、大坂冬の陣に出兵するに際し、家康の直命により次男である井伊直孝が指名されました。

その後、彦根城が築城されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となり、かわってこの地には新たに彦根藩(30万石)が置かれました。

それ以来、彦根藩は明治時代になるまで井伊氏の藩として栄えることとなりました。

 

さて、そんな彦根城ですが、明治時代初期の廃城令による破却を免れ、天守が現存しています。

滋賀県は廃城令で解体された城が多く、彦根城は県内唯一の保存例です。

天守と附櫓及び多聞櫓の2棟が国宝に指定されているほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されています。

中でも馬屋(うまや)は、重要文化財指定物件として全国的に希少です。

天守 東側より

天守 上空より

城の形式は連郭式平山城です。

連郭式とは、本丸と二の丸を並列に配置する縄張(城全体の設計のこと)で、平山城とは、平野の中にある山や丘陵等に築城された城のことです。

本丸、二の丸、三の丸と北側に山崎曲輪(くるわ、城の内外に造られた、土塁や石垣などで区画した区域のこと)が配置され、御殿は二の丸に置かれました。

本丸に天守、西の丸と山崎曲輪に三重櫓が建てられました。

山崎曲輪三重櫓は、明治初期に破却されました。

なお、城の北側には玄宮園と楽々園という大名庭園が配されており、これらは「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されています。

玄宮園と楽々園は、かつて松原内湖(戦中・戦後に干拓)に面しており、入江内湖も望める絶景でした。

また、彦根城には、現存例の少ない築城の技法でもある「登り石垣」が、良好な形で保存されています。

石垣1

石垣2

 

彦根城は西国大名の防衛のための城であったため、防御のための工夫がされています。

狭間は外から見えないように作られ、階段は敵を上から突き落せるように急角度(最大62度)となっており、蹴って落とせる構造です。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城の天守をはじめ、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされていますが、太鼓門などが移築されたという伝承が多いです。

建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城や岡山城や姫路城、福岡城など多くの城に建物の移築の伝承があります。

 

大手門と表門からの両坂道が合流する要の位置に築かれた櫓は、天秤櫓と呼ばれています。

目の前にかけられた廊下橋の部分を中央に、両坂道に面している多聞櫓の格を二重櫓とすることで左右対称となっていることが名前の由来です。

堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、天秤ばかりのような独特な形状です。

廊下橋は戦時には落としたと伝わり、坂道を登ってきた敵兵は天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸へ侵入できないようになっていました。

1854(安政元)年に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直されました。

天秤櫓の向かって右側が向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」(野面積みの一種)、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣です。

天秤櫓は、長浜城から移築したといわれ、時代劇の撮影にも使われました。

天秤櫓

 

天守は通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられ、3層3階地下1階の複合式望楼型です。

「牛蒡積み(ごぼうづみ)」といわれる石垣で支えられ、1重目の窓は突上窓、2重目以上の窓はすべて「華頭窓(かとうまど)」を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けています。

天守

各重に「千鳥破風(ちどりはふ)」、「切妻破風(きりづまはふ)」、「唐破風(からはふ)」、「入母屋破風(いりおもやはふ)」を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せます。

現在、本丸に残る建造物は天守のみですが、かつては「宝蔵」や「月見櫓」がありました。

月見櫓は、天守の南面にかつてそびえていた二層二階の櫓で、着見櫓ともいうそうです。

月見櫓から西へと方角を変えると、土塀を挟んで二十間多聞櫓が続いていました。

この二つの櫓群は、山麓の表門から本丸を仰ぎ見ると、天守とともに眺めることができました。

城内1

城内2

城内3

 

このように、彦根城は戦略的な城としても、眺望などを楽しむ場所としても、城自体の構造などをとっても、一級品の城といえます。

井伊直政はこの城を見ることはできませんでしたが、いかにこの人物の功績が称えられたかがわかる城といえるでしょう。

滋賀県へ行くなら、彦根城を訪れてみるのもいいのではないでしょうか。

 

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