安曇野ちひろ美術館

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長野県の安曇野ちひろ公園内に、北アルプスを背景にして、まるで風景の一部のように建っている小さな美術館があります。
こちらは1997(平成9)年に建てられた、絵本作家いわさきちひろの絵本美術館です。

1977(昭和52)年には東京のいわさきちひろの自宅兼アトリエ跡に絵本美術館が建てられています。
ちなみにですが、この1977年に建てられた美術館は、世界初の絵本美術館となっています。

どちらの美術館も、絵本に関することはもちろんですが、建物自体も魅力的で、訪れる価値のある建築となっています。
今回は、そのうちの安曇野のほうの美術館を紹介します。

安曇野

さて、まずはいわさきちひろさんについて、よくわからないという方のために、少しご説明しましょう。
いわさきちひろさんは、有名な絵本作家さんです。

いわさきちひろ

岩崎千尋(本名:松本千尋、旧姓:岩崎)は、1918(大正7)年12月15日、雪の降る師走の朝に、三姉妹の長女として福井県南条郡武生町(現・福井県越前市)で生まれました。
岩崎家は当時としては非常に恵まれた家庭で、ラジオや蓄音機、オルガンなどのモダンな品々がありました。

父である、正勝はカメラも所有し、当時の写真を数多く残しています。
岩崎家にはこども向けの本も多くありましたが、それらはちひろの気に入るものではなかったそうです。

ある時ちひろは、隣の家で絵雑誌「コドモノクニ」を見かけ、当時人気のあった岡本帰一、武井武雄、初山滋らの絵に強く心を惹かれました。
また、幼少のころから絵を描くのが得意で、小学校の学芸会ではたびたび席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどでした。

コドモノクニ

ちひろが入学した東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)は、生徒の個性を重んじ、試験もなく、成績表も希望者に配布されるのみだったそうです。
ここでも、ちひろは絵がうまいと評判でした。
その一方で運動神経にも優れ、スキーに水泳、登山などもこなしました。
 
女学校2年(14歳)の3学期、岡田三郎助の門をたたき、そこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たしました。
ちひろは女学校を卒業したのち、岡田の教えていた美術学校に進むことを望みましたが、両親の反対にあって第六高女補習科に進みました。

岡田三郎助

18歳になるとコロンビア洋裁学院に入学し、その一方で書家小田周洋に師事して藤原行成流の書を習い始めました。
ここでもちひろはその才能を発揮し、小田の代理として教えることもあったそうです。


1939(昭和14)年4月、20歳になったちひろは、両親の薦めを断り切れず婿養子を迎えることになりました。
相手の青年はちひろに好意を持っていたものの、ちひろの方ではどうしても好きになれず、形だけの結婚でした。
同年6月には、いやいやながら夫の勤務地である満州・大連に渡りましたが、翌年に夫の自殺により帰国することになりました。

この時ちひろは二度と結婚するまいと心に決めたそうです。

帰国したちひろは、中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めました。
再度習い始めた書の師である小田周洋には、絵では無理でも書であれば自立できると励まされ、書家をめざしました。

1944(昭和19)年、25歳になると女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡りますが、戦況悪化のため同年帰国しました。
翌年には5月25日の空襲で東京中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えました。
両親は戦後、同県北安曇郡松川村に開拓農民として移住しました。

ちなみにこの両親の移住先の土地こそが、今回ご紹介する「安曇野ちひろ美術館」の場所となります。

ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感します。
終戦翌日から約1か月間に、ちひろが書いた日記『草穂』が残されています。
「国破れて山河有り」(杜甫の詩より)の題でスケッチから始まるこの日記には、戦争に対する苦悩に加え、数々のスケッチや自画像、武者小路実篤の小説『幸福者』からの抜粋や、「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られています。

いわさきちひろ 若き日の日記『草穂』

戦争が終結した直後の1946(昭和21)年1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていた27歳のちひろは、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党します。
5月には党宣伝部の芸術学校(後の日本美術会付属日本民主主義美術研究所)で学ぶため、両親に相談することなく上京しました。

東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊に師事してデッサンを学びました。
この頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、紙芝居『お母さんの話』(1949(昭和24)年)をきっかけに、画家として自立する決心をしました。

お母さんの話

画家としての多忙な日々を送っていたちひろは、1949(昭和24)年の夏、30歳の時に、支部会議で演説する青年松本善明と出会います。
2人は党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、ある時ちひろが言った何気ない言葉から、結婚する決心をしました。
二度と結婚しないと決めていたちひろですが、時がたち、戦争も経験し、いろいろと環境が変わったのでしょう。

松本善明

翌1950(昭和25)年1月21日、レーニンの命日を選び、2人きりのつましい結婚式を挙げました。
ちひろは31歳、善明は23歳でした。
結婚にあたって2人が交わした誓約書が残っています。
そこには、日本共産党員としての熱い情熱と、お互いの立場、特に画家として生きようとするちひろの立場を尊重しようとする姿勢とが記されています。
善明はちひろと相談の上で弁護士を目指し、ちひろは絵を描いて生活を支えました。

翌年の4月に、ちひろは長男・松本猛を出産しますが、狭い借間で赤ん坊を抱えて画家の仕事を続けることは困難でした。
1951(昭和26)年6月、2人はやむを得ず長野県北安曇郡松川村に開拓農民として移住していたちひろの両親のもとに猛を預けることにしました。
ちひろは猛に会いたさに、片道10時間近くかけて信州に通っていました。
猛を預けてからも、当然ながら猛に与えるはずの乳は毎日張ります。
初めのうちは自ら絞って捨てていたそうです。
しかし、実際に赤ん坊に与えなければ出なくなってしまい猛に会って授乳する時に充分出なくなってしまうのではないか、と懸念したちひろは、当時近所に住んでいた子供が生まれたばかりの夫婦に頼み、授乳させてもらっていました。

ちなみに、その時の赤ちゃんが、後にタレントとなる三宅裕司です。
すごい方がすごい方から授乳されていたという話ですね。

三宅裕司

1940年代から1950年代にかけてのちひろは、油彩画も多く手がけていました。
仕事は広告ポスターや雑誌、教科書のカットや表紙絵などが主でした。

1952(昭和27)年ごろに始まるヒゲタ醤油の広告の絵は、ほとんど制約をつけずちひろに自由に筆をふるわせてくれる貴重な仕事で、1954(昭和29)年には朝日広告準グランプリを受賞しました。
ヒゲタの挿絵はちひろが童画家として著名になってからも、およそ20年間続きました。

1956(昭和31)年、福音館書店の月刊絵本シリーズ『こどものとも』12号で、小林純一の詩に挿絵をつけて『ひとりでできるよ』を制作しました。
そしてこれが、ちひろにとって初めての絵本となりました。
『こどものとも』では、同じく小林の文で『みんなでしようよ』も掲載されています。

こどものとも

一方このころ、ちひろの絵には、少女趣味だ、かわいらしすぎる、もっとリアルな民衆の子どもの姿を描くべき、などの批判があり、ちひろ自身もそのことに悩んでいました。
しかし、1963(昭和38)年、44歳の時に雑誌『子どものしあわせ』の表紙絵を担当することになり、その後の作品に大きく影響を与えることになります。

「子どもを題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、ちひろはそれまでの迷いを捨て、自分の感性に素直に描いていく決意をしました。
1962(昭和37)年の作品『子ども』を最後に油彩画をやめ、以降はもっぱら水彩画に専念することにしました。

1964(昭和39)年、日本共産党の内紛で、ちひろ夫婦と交流の深かった丸木夫妻が党を除名されたころを境に、丸木俊の影響から抜け出し、独自の画風を追い始めます。

『子どものしあわせ』はちひろにとって実験の場でもあり、そこで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられました。
当初は2色もしくは3色刷りでしたが、1969(昭和44)年にカラー印刷になると、ちひろの代表作となるものがこの雑誌で多く描かれるようになりました。

子どものしあわせ

ちひろはハンス・クリスチャン・アンデルセンに深い思い入れをもっていて、画家として自立するきっかけとなった紙芝居『お母さんの話』をはじめ、当初から多くの作品を手がけていました。
1963(昭和38)年6月に世界婦人会議の日本代表団として渡ったソビエト連邦では、異国の風景を数多くスケッチし、アンデルセンへの思いを新たにしました。

1966(昭和41)年、47歳の時、アンデルセンの生まれ育ったオーデンセを訪れたいとの思いを募らせていたちひろは、「美術家のヨーロッパ気まま旅行」に母・文江とともに参加し、その念願を果たしました。
この時、ちひろはアンデルセンの生家を訪れ、ヨーロッパ各地で大量のスケッチを残しています。
2度の海外旅行で得た経験は、同年に出版された『絵のない絵本』に生かされました。

また同年、赤羽末吉の誘いで、まだ開発の進んでいなかった黒姫高原に土地を購入して山荘を建て、毎年訪れてはここのアトリエで絵本の制作を行うようになります。
当時の日本では、絵本というものは文が主体であり、絵はあくまで従、文章あってのものにすぎないと考えられていました。
至光社の武市八十雄は、欧米の絵本作家からそうした苦言を受け、ちひろに声をかけたそうです。

2人はこうして新しい絵本、「絵で展開する絵本」の制作に取り組みました。
そして1968(昭和43)年に『あめのひのおるすばん』が出版されると、それ以降ほぼ毎年のように新しい絵本を制作しました。
中でも1972(昭和47)年の『ことりのくるひ』は、ボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞しています。

当時、挿絵画家の絵は美術作品としてほとんど認められず、絵本の原画も美術館での展示などは考えられない時代でした。
挿絵画家の著作権は顧みられず、作品は出版社が「買い切り」という形で自由にすることが一般でしたが、ちひろは教科書執筆画家連盟、日本児童出版美術家連盟にかかわり、自分の絵だけでなく、絵本画家の著作権を守るための活動を積極的に展開しました。

ちひろは「子どもの幸せと平和」を願い、原爆やベトナム戦争の中で傷つき死んでいった子どもたちに心を寄せていました。
1967(昭和42)年に出版された『わたしがちいさかったときに』は、稲庭桂子の勧めで、作文集『原爆の子』(岩波書店版 長田新編)と詩集『原子雲の下より』(青木書店版)から抜粋した文にちひろが絵を描いたものでした。
また1972(昭和47)年には、童画ぐるーぷ車の展覧会に、「こども」と題した3枚のタブローを出品しました。
これがきっかけとなって制作された、ベトナム戦争の中での子どもたちを描いた1973(昭和48)年の『戦火のなかの子どもたち』が、ちひろ最後の絵本となります。

戦火のなかの子どもたち

1973(昭和48)年秋、肝臓ガンが見つかり、1974(昭和49)年8月8日、肝臓ガンのため死去しました。
享年55歳という若さでした。

ちひろの没後も、ちひろの挿絵は様々な場面で用いられています。
そのひとつに1981(昭和56)年の『窓ぎわのトットちゃん』(黒柳徹子著、講談社)があります。

窓際のトットちゃん

夫の善明と一人息子の猛は、ちひろの足跡を残すために、1977(昭和52)年9月、下石神井の自宅跡地に、ちひろの個人美術館として「いわさきちひろ絵本美術館(現:ちひろ美術館・東京)」を開館しました。
また1980(昭和55)年には、岩崎書店より『いわさきちひろ作品集』全7巻が出版されました。
個人美術館開設と個人全集刊行は、日本の童画家として初めてのことでした。

やがてちひろ美術館は、ちひろの作品の収集展示という個人美術館の枠を超え、「絵本を美術の一ジャンルとして正当に評価し、絵本原画の散逸を防いで、後世に残していくこと」に目的をひろげて活動を展開しました。
絵本原画を残す活動に共鳴する作家らの協力もあって、作品の収集が進み、下石神井のちひろ美術館は手狭になっていきました。
そして1997(平成9)年4月、長野県北安曇郡松川村に広い公園を併設した「安曇野ちひろ美術館」が開館しました。


この安曇野ちひろ美術館の設計は、内藤廣です。

内藤廣

彼は、海の博物館の設計で日本建築学会賞、第18回吉田五十八賞、芸術選奨新人賞美術部門などを受賞、牧野富太郎記念館で第13回村野藤吾賞を受賞しています。
『高田松原津波復興祈念公園 国営追悼・祈念施設』の設計で芸術選奨文部科学大臣賞美術部門も受賞しています。

土木、建築、都市計画、造園、インダストリアルデザインなどの都市景観に関連した異なる職域によるデザイン・コラボレーションを提唱し、2003(平成15)年には織部賞を受賞しました。
2005(平成17)年に「GSデザイン会議」(GSはグラウンドスケープの略)を篠原修らと発足し同代表に就任しています。

国土交通省東日本大震災復興都市デザイン検討会委員、岩手県津波防災技術専門委員会委員でもあります。
空間デザインコンペティション、建築環境デザインコンペティション、トウキョウ建築コレクション2009、同2010、国立競技場国際デザイン・コンクールなど、各コンペティションで審査員、及び審査委員長を歴任しています。

渋谷の再開発プロジェクト「渋谷駅中心地区まちづくり指針2010」において、デザイン会議の座長を務め、建築とデザインや景観を先導しています。
そんな人物がこの安曇野ちひろ美術館を設計するのにどのような想いを持って、どのように設計したのでしょうか。
以下の言葉を内藤氏は語っています。

「絵本は、いろんな解釈があるけれども、美術とそうでないものとの境界にあるもの。
 文字は、物語や文学、詩と呼べるだろうし、挿絵は、絵画、アート。
 本全体のつくり上げ方は、エディトリアルデザイン。
 全部のことをつなぎ合わせると、いかにも美術館らしい建物とは違うだろう。
 図書館と美術館の間のようなものをつくりたいと思った。」

「展示室は、展示室の機能を果たすようにできるだけ箱にしよう、それ以外はできるだけ外に広がっていこうという考え方をした。」

「天井は、小ぶりな屋根がつながっている形にしたかったので、普通の材木屋さんで手に入る長さの唐松を使っている。
 この天井のひん曲がっているところは、デザインではなく、完全に構造的に合理的なもの。
 加えて、のぼりばりが壁に突き刺さっているのは、建築的には、ありそうでない収まりで、コンクリート側に細かい造作をしている。
 住宅スケールながら、あらゆる知恵をつかってできていることを知ってほしい。」

「建物を建てるときは、その関係者には、さまざまな強い思いがある。
 そのときのことばや主張を、そのまますべて受け止めるのは難しい。
 ことばの向こう側にあるものをしっかり捉えられていれば、後はいいのかなと思う。
 それを言わせている気持ちみたいなものが大事で、その思いを建築家が受け止められれば、設計はできると思う。」

このような考え方で、ちひろの残した足跡や絵本文化、そこにかかわる人たちの想いを受け止めて作り出していったようです。

安曇野ちひろ美術館のある安曇野ちひろ公園も、内藤氏のデザインによるものです。
建築的デザインで、ゆるやかなコンタの芝生に覆われた広場の中に、安曇野ちひろ美術館、復元されたちひろの黒姫山荘、チェコの絵本作家クヴィエタ・パツォウスカーがデザインした池と石のオブジェが点在する「パツォウスカーの庭」、花畑などが美しく配置され、アプローチに楽しさを演出しています。

ちひろ公園

安曇野ちひろ美術館正面の池は護岸のデザインも自然です。

内藤氏は
「環境を人為的に創るということは、必然的に幾つもの不自然なボーダーを引くことです。」
と語っています。
そして、そこに生じた亀裂に対して、
「私自身はこの切断された亀裂を埋めて行きたい」
と考えました。
「分断された様々なボーダーをつなげていくこと」は「場所から派生するものと折り合いをつけること」を「可能にするひとつの道筋ではないか」という考えをもっています。

その試みの例として、安曇野ちひろ公園の池や、駐車場をあげ、
「ボーダーを消していくことで周囲と共存することを考えた。」
とその意図を語られています。

ボーダーを消すというのは具体的には、池の護岸の自然なデザインや、100台近く収容しないといけない駐車場を、
「車があまり止まっていないときにも景観上齟齬がないよう配慮」されているといったことです。

安曇野ちひろ美術館の建物にもふれておきましょう。
広い公園の中に建つ建物は、三角屋根が連なっているファサードは、背景の北アルプスの山々とシルエットが重なって見えます。
勾配も山に合わせられているようです。

ファザード

くねくねしたアプローチを歩くと建物が樹に隠れたり顔を出したり、入る前からワクワクします。

大きく口を開けた開口は美術館のエントランスです。
屋根の架構がかなり特徴的です。
屋根を支えるのは登り梁という斜めにかかる木材ですが、スレンダーで美しいです。

登り梁は集成材ではなくて、無垢材です。
木目がすごくはっきりしています。
長野の地場の木材をふんだんに使っているのでしょう。

そしてアーチ状の開きどめがポイントです。
これがないときっと棟木(頂点の部分でずっと奥まで続く部材)がすごく太くなってしまいます。
すると途端に凡庸な小屋組になってしまいそうで、このアーチの開きどめこそが、この華奢で美しい架構を作る最大の特徴だと思います。

外から

内部に入っても架構がずっと続きますが、天井を架構と同じカラマツの野地板を貼ることで架構だけが浮き出て来ないように、ごく自然な屋根に見せています。
内部の家具などは中村好文という建築家がデザインしているそうです。

家具

エントランスの先には展示室へ向かう廊下があります。
廊下の始まりの部分は天井が下がっていて、廊下の幅も高さも、住宅くらいのスケールに抑えられている印象です。

この美術館は、屋根以外の構造はコンクリートです。
しかし、それを感じさせない圧倒的な木の素材感があります。

壁はザラザラした土で覆われています。
おそらく珪藻土です。
手に触れる箇所は、コンクリートを露出させずに土や木で覆うことで、建物全体が優しい印象になっています。

ホールは中庭に面しています。
この美術館の床はフローリングなのですが、なんとなく海外の田舎にある教会みたいな雰囲気です。
美術館で床がフローリングというのはなかなか珍しいかなと思います。
かなり落ち着く空間なので一日中のんびり過ごしてもいいかもしれません。

ホール

「窓ぎわのトットちゃん」の教室を模した休憩所があります。
上述したように、本のイラストをいわさきちひろが描いてます。
そして著者の黒柳徹子は、この美術館の館長を務めているそうです。

トットちゃんの部屋

渡り廊下はルーバーの屋根で建物間を繋ぎます。
他にもまだまだ見どころが満載なのですが、紹介はこのぐらいにしておきます。

日本の絵本文化を作り上げたと言っても過言ではないいわさきちひろさんの想いや思想、そしてそこに関わる全ての人の気持ちが詰め込まれた美術館です。
東京・長野の2か所にあり、どちらも全然違う形ですが、どちらも行く価値のある場所だと思います。

安曇野あたりに行く際は、一度訪れてみるのもいいのではないでしょうか。
のんびりできますよ。

 

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