出津教会堂

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長崎県長崎市西出津町に、「出津教会堂(しつきょうかいどう)」があります。
キリスト教カトリックの教会堂(聖堂)国の重要文化財に指定されており、ユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されています。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する「外海(そとめ)の出津集落」に包括される教会です。

正式名称は「カトリック出津教会」で、出津教会とも呼ばれています。

隠れキリシタン洞窟

出津教会堂は、1882(明治15)年、出津地区において主任司祭を務めていたマルク・マリー・ド・ロ神父の設計により建設されました。
その後、信徒数の増加等により二度の増築(いずれもド・ロ神父の設計による)を経て、1909(明治42)年に、ほぼ現在の姿が完成しました。

マルク・マリー・ド・ロ神父は、1840(天保11)年3月27日、フランスノルマンディー地方バイユー近郊のカルヴァドス県ヴォシュロール村(Vaux-sur-Aure)で、ナポレオンの血を引く貴族の家に生まれました。

ナポレオン

ド・ロ神父の祖先であるナポレオン・ボナパルトは、フランス革命期の軍人・革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世となった人物です。
とても有名な人物ですね。
ナポレオンは、フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を樹立しました。
大陸軍(フランス語: Grande Armée)と名づけた軍隊を築き上げて、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦いました。
また、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置きました。

フランス革命

そんなナポレオンの子孫であるド・ロ神父は、両親と主任司祭による厳格な教育を受けました。
1848(嘉永元)年、オルレアンの聖十字架学院に入学し、1860(安政7)年、同じくオルレアン神学校に入学し、1862(文久2)年、パリ外国宣教会神学校に転入学しました。

1863(文久3)年になると病気のため退学し、帰郷ののち、バュー大神学校に入学しています。
1865(慶応元)年、同神学校卒業後、司祭に叙階されました。
1866(慶応2)年にはカン市の聖ジュリアン教会補佐司祭に就任し、1867(慶応3)年にパリ外国宣教会に入会しています。

1868(慶応4)年6月、司祭のベルナール・プティジャンが帰国中に印刷技術を持った宣教師を募集したのに応じて来日しました。
長崎で宣教に従事したのち、1871(明治4)年に横浜へ転属し、横浜に来たサン・モール会(現:幼きイエス会)の修道女のために修道院を建築しました。
ド・ロ神父は石版印刷術を日本に伝えたともいわれていて、『教会暦』(祝日表)、『聖務日課』など7種の本を刊行しています。
なかでも、大浦天主堂の印刷所で最初に印刷した石版一枚刷りの教会暦は、日本初の石版印刷物であると考えられています。

キリシタン暦

1873(明治6)年、浦上の信徒らが浦上四番崩れによる流刑から釈放されたのを機会に長崎に戻り、印刷物の発行を行いました。
翌年7月、長崎港外の伊王島で赤痢が発生して浦上地区まで広がり、流罪によって衰弱していた浦上信徒に蔓延しました。
それを受けてド・ロ神父は、毎日患者の家まで薬箱を下げて通い、予防方法等について説いて回りました。

そしてようやく1878(明治11)年、出津教会主任司祭として赴任し、カトリックに復帰した信者や隠れキリシタンが多く住んでいた外海地区(黒崎教会、出津教会)の司牧の任にあたりました。
ド・ロ神父は、この地域の人々の生活が貧しく、孤児や捨て子も多いことを知りました。
特に、海難事故で一家の働き手である夫や息子を失った家族は、悲惨な生活を送っていました。
そこで、1880(明治12)年に孤児院を開設し、1883(明治16)年には救助院(黒崎村女子救助院)を設立して授産活動を開始しました。

救助院

この施設に修道女として入った婦人たちは、ド・ロ神父の技術指導に基づいて、織布、編物、素麺、マカロニ、パン、醤油の製造などを行いました。
ここで製造されたシーツやマカロニ、パンなどは、外国人居留地向け、素麺や醤油などは内地向けに販売されました。
貴族の家に生まれたド・ロ神父は、施設建設や事業のために私財を惜しみなく投じました。
また、フランスで身につけた農業・印刷・医療・土木・建築・工業・養蚕業などの広範な分野に渡る技術を外海の人々に教え、「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれていました。
外海地区の住民たちに伝えた製麺技術は、「ド・ロ様そうめん」として現在も親しまれています。

ド・ロさまそうめん

このようにド・ロ神父は、地域の貧困者や海難事故で未亡人となった女性を進んで雇い、西洋式の機織や日本初のマカロニ製造工場でもある「そうめん工場」を造り、人々の宗教的指導者であるとともに地域の経済的発展にも貢献しました。
また、農業用地を買い取り、フランスから持ち込んだ農耕用具で自ら開墾を行ったほか、当時の日本では珍しかったドリルや滑車なども持ち込みました。
ド・ロ神父は、20世紀初頭の西洋と長崎の文化的掛け橋となるとともに、あらゆる分野でその功績を残しているのです。

ド・ロ神父が設計・建築に携わった数々の教会堂は、ゴシック様式を踏襲しながらも、扉を引き戸にして大工の技術を生かしたり、木造建築ならではの柱と梁の配置としたりするなど、日本の伝統文化を重んじた建築様式が特徴です。
当時の厳しい環境下において実現したこれら建築物には一見の価値があるので、今回の出津教会堂以外もおすすめです。

黒崎教会

1875(明治8)年に大浦天主堂の隣に建設した長崎公教神学校の校舎は、1972(昭和47)年に旧羅典神学校として国の重要文化財に指定されました。
長崎公教神学校は、現在は移転して長崎カトリック神学院となっています。

大浦天主堂

長崎公教神学校

さらに1886(明治19)年には、住民を伝染病から救済するため「ド・ロ診療所」を開設し、社会福祉事業に挺身しました。

しかし、1914(大正3)年11月6日、大浦天主堂司教館(旧長崎大司教館)建築現場で、足場から転落してしまいます。
それが元で持病が悪化し、翌日の11月7日に死去しました。
遺骸は出津に運ばれ、小高い丘陵にある共同墓地に埋葬されたそうです。

当時の環境の補足として、キリシタンについて少々解説します。
時代は江戸時代までさかのぼります。
これも有名な話ですが、江戸幕府はキリスト教禁止を国策とし、全国でキリスト教宣教師・信徒を徹底的に捕縛、仏教へ強制改宗させ、改宗しないものは処刑する政策をとりました。

踏み絵

もともと長崎はカトリック教会とゆかりがあり、信徒たちが多く暮らしていました。
しかし、禁教令をうけた信徒たちは隠れキリシタンとしてひそかに信仰を守り、次代へ受け継いでいくことになりました。

そんな長崎の隠れキリシタンたちの間には、江戸時代の初期に幕府に捕らえられて殉教したバスチャンという伝道士の予言が伝えられていました。
それは「七代耐え忍べば、再びローマからパードレ(司祭)がやってくる」というものでした。
7代といえば、30歳で1代と考えると、210年経過してちょうど幕末ごろにあたります。
すさまじい予言です。

1867(慶応3)年、隠れキリシタンとして信仰を守り続けキリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが、江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けました。
間もなく江戸幕府は瓦解しますが、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって、村民たちは流罪とされました。
こちらの事件を浦上崩れと呼びます。
この事件は4回起こり、浦上一番崩れ~浦上四番崩れまでありますが、キリスト教信仰の盛んな諸国から激しい非難を受けました。

この頃、別件で政府使節として欧米へ赴いた遣欧使節団一行が、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていると判断し、その旨本国に打電通達しました。
これにより1873(明治6)年にキリシタン禁制は廃止され、1614(慶長19)年の全面禁教以来259年振りに、日本でキリスト教信仰が解禁されることになりました。
そしてこの一件で流刑から解放された浦上のキリスト教徒のために、ド・ロ神父が長崎に戻りました。

今回紹介している「出津教会堂」は、ド・ロ神父が私財を投じて建設したものです。
地域の信徒と力を合わせ、自らの設計で、1882(明治15)年に完成させました。
教会堂は角力灘(五島灘)の強い海風に耐えられるように屋根を低くした木造平屋で、漆喰の白い外壁は山の緑に映え、清楚なたたずまいが美しいです。

外観

尾根上を整地した敷地に、ほぼ西を正面として建っています。
桁行(奥行)36.3メートル、梁間(間口)10.9メートル、長方形平面の三廊式教会堂で、屋根は切妻造平入り、桟瓦葺きです。
煉瓦造ですが、外壁や内部天井は漆喰塗仕上げとなっています。

屋根

西側正面入口は中央に大アーチ、両脇に小アーチの開口部を設け、要所に安山岩の切石を貼っています。
正面入口屋根上には、身廊と同じ幅の方形平面の鐘楼が立ち上がり、反対側の東面屋根上にも小塔があります。

鐘楼の頂上には聖母マリア像、小塔の頂上には十字架をそれぞれ飾っており、側面には切妻屋根の入口が各2か所突出しています。

マリア像

鐘楼の鐘は神父がフランスから取り寄せたもので、朝夕に美しい鐘の音を谷間一帯に響かせています。

鐘楼

玄関部は、鉄骨造りで、周囲をレンガで囲み、白漆喰に仕上げています。
外部はモルタル塗装、屋根は切妻です。

内部は、六本ずつの柱列が二列に並び、身廊部と左右の側廊とに分けて三廊式になっています。

内部

出津教会の周辺には、 外海の石を積み重ねて作った石垣が残っています。
苔がいい感じに生えていて、歴史を感じさせます。
地元で「ド・ロ壁」と呼ばれるこの壁は独特の石造りで、風が強い立地に対応して、地域で産出する石を赤土に石灰を混ぜた漆喰で固めた物です。
130年の歳月を過ぎてもなお、この地へのド・ロ神父の思いを伝えています。

ド・ロ壁

出津教会の手前に続く、ド・ロ壁の張り巡らされた小道は、ド・ロ神父が教会と救助院との行き来に使った道で、「歴史の道」と呼ばれています。
歴史の道の途中には、ド・ロ神父が使った井戸が残されています。

歴史の道

井戸

「出津教会堂」は、キリスト教徒だけでなく地域の貧しい人々のために、様々な社会福祉活動に尽力し続けた、偉大な神父が建てた教会堂です。
昔も今も、地域住民、とくにキリスト教徒たちの心の拠り所となっています。
長崎に行かれる際には、こちらの教会堂も見に行ってみてはいかがでしょうか。
ただし、現在も教会として利用されているので、心静かに、マナーを守って見学してただくようお願いいたします。

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