五稜郭

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北海道函館にある、誰もが知る有名な観光スポット「五稜郭」。

新選組土方歳三の最期の地としても有名です。

「五稜郭」は、江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に築造した稜堡式の城郭です。

予算書時点から五稜郭の名称は用いられていましたが、築造中は「亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)」、または「亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)」とも呼ばれました。

元々、この地が湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、「柳野城(やなぎのじょう)」の別名も持ってます。

函館

五稜郭は、箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造されました。

しかし、1866(慶応2)年の完成からわずか2年後に、江戸幕府が崩壊します。

五稜郭は数年間のみ箱館府にされた後、箱館戦争で海軍副総裁の榎本武揚率いる旧幕府軍に占領され、その本拠となりました。

明治に入ると郭内の建物は兵糧庫1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用されました。

その後、1914(大正3)年から五稜郭公園として一般開放され、その後は函館市民の憩いの場であるとともに、函館を代表する観光地となっています。

函館戦争

かつては、現在残る星形の遺構から外側100~350メートルに、北と北西を除いて外郭の土塁が存在しましたが、現在では国有保安林となっている箇所以外、面影は失われています。

国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されています。

五稜郭の築造について説明していきましょう。

1854(安政元年)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、江戸幕府は松前藩領だった箱館周辺を上知し、同年6月に箱館奉行を再置しました。

箱館奉行所は前幕領時代と同じ基坂に置かれます。

函館港

初代奉行の竹内保徳は、松前藩の建物を増改築して引き続き使用する方針を示しました。

しかし、続いて奉行に任命された堀利煕が「同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく、加えて外国人の遊歩区域内の箱館山に登れば奉行所を眼下に見下ろすことができるので防御に適さず、亀田方面への移転が必要だ」と上申します。

そして竹内と堀は江戸に戻ると、箱館湾内からの艦砲射撃の射程外に位置する鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築いて奉行所を移転する意見書を、老中・阿部正弘に出しました。

これが幕閣に受理され、五稜郭の建設が決定します。

竹内保徳

堀利煕

併せて、矢不来・押付・山背泊・弁天岬・立待岬・築島・沖の口番所の7か所の台場の新改築からなる箱館港の防御策も上申されました。

しかし、阿部はこれらを同時に築造するのは困難なので、まず弁天岬(弁天台場)と築島(未着工)に着手するよう指示しました。

1855(安政2年)7月に、フランスの軍艦「コンスタンティーヌ号」が箱館に入港した際、箱館奉行所で器械製造と弾薬製造の御用取扱を務めていた武田斐三郎が同艦の副艦長から指導を受け、大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取ります。

斐三郎はこの絵図面を基に、五稜郭と弁天台場の設計を行っています。

そして五稜郭と弁天・築島・沖の口台場の築造からなる総工費41万両の予算書が作成されました。

当初の計画では、工期は20年の予定でした。

しかし、蝦夷地警備を命じられた松前藩(戸切地陣屋)・津軽藩(津軽陣屋)・南部藩(南部陣屋)・仙台藩(白老陣屋)の各陣屋が既に完成していたことから、五稜郭や台場の工事が遅れると箱館市民や外国人に対して幕府の権威を失うことになるため、弁天台場と五稜郭の築造を急ぐこととなりました。

1856(安政3)年11月、組頭・河津祐邦、調役並・鈴木孫四郎、下役元締・山口顕之進、諸術教授役・武田斐三郎らを台場並亀田役所土塁普請掛に任命し、1857(安政4)年7月に五稜郭の築造を開始します。

建物については、1860(万延元)年頃から郭外北側に役宅の建設が始まり、1862年(文久2)年に奉行所庁舎建設が開始されました。

施工は土木工事を松川弁之助、石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を江戸在住の小普請方鍛冶方石方請負人中川伝蔵が請け負いました。

当初は、まず掘割と土塁工事、続いて建物工事、最後に石垣工事を行う計画でした。

しかし、この地は地盤が脆弱で冬季の凍結・融解により掘割の壁面が崩落したため、急遽石垣工事を先行させました。

1864(元治元)年に竣工、6月15日に箱館奉行・小出秀実が奉行所を五稜郭内に移転し、業務を開始しました。

引き続き防風林や庭木としてのアカマツの植樹や付帯施設の工事も行われ、1866(慶応2)年に全ての工事が完了しました。

 

五稜郭の最大の特徴は、雪の結晶のようなこの独特の形にあります。

この形は、「星形要塞」あるいは「稜堡(りょうほ)式城郭」と呼ばれるもので、15世紀のイタリアに起源を持つ建設方式です。

この形の最大のメリットは「死角」をなくすことができる点です。

たとえば、この城郭を攻め落とそうとする敵が、5つあるうちの1つの角から城の中に攻め込もうとしているとします。

この時、敵はその両隣にある砲台から狙われることになります。

もしこの星型の角が円形だった場合、各円に接する場所にごくわずかな死角が生まれてしまいます。

この理由からヨーロッパ各地には星形要塞が点在します。

ヨーロッパ稜堡式城郭

 

五稜郭建造の中心人物となった武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)は、1827(文政10)年、伊予大洲藩士・武田敬忠の次男として、伊予国喜多郡中村(現在の愛媛県大洲市)に生まれます。

武田斐三郎

先祖は甲斐武田氏の出で、大洲藩加藤氏に仕えましたが、名をはばかって江戸時代は竹田姓を名乗っていたこともあります。

家紋は四つ目菱(甲斐武田の本家は四つ菱)です。

藩祖加藤光泰が甲斐を領した際に召し抱えられたものと考えられます。

斐三郎は、大洲藩校・明倫堂に通い、母親の実家で漢方医学を学んでいましたが、22歳の時、藩主・加藤泰幹に願い出て、大坂の緒方洪庵の適塾で学び、
2年後に洪庵の紹介で伊東玄朴や佐久間象山に兵学、砲学まで学びました。

ペリー来航の際は、象山に連れられて吉田松陰らとともに浦賀に行き、黒船を見て『三浦見聞記』を著しています。

その才能を認めた江戸幕府の命により、旗本格として出仕しました。

ペリー

また斐三郎は、箕作阮甫(みつくり げんぽ)に従って長崎にてロシアのエフィム・プチャーチンとの交渉に参加し、通詞御用を務めました。

なお、母思いであったため、長崎からの帰路の際に阮甫の許可を得て、母親に会いに大洲へ帰っていたそうです。

江戸に戻ると、幕府の命で箱館奉行・堀利煕らの蝦夷地・樺太巡察に随行、箱館でペリーと会談しました。

巡察中に箱館奉行所が設置されると箱館詰めとなり、10年間同地に滞在しました。

箱館では機械・弾薬製造の任に就き、弁天台場や五稜郭の設計・建設に携わりました。

また、諸術調所が開設されると教授役となり、榎本武揚・前島密・井上勝などが学んでいます。

他にも、溶鉱炉を作ったり、生徒らを連れて国産帆船「亀田丸」を操船して日本一周をしたり、ロシアの黒竜江に日本初の修学旅行を兼ねた貿易に出かけたりしたこともあります。

私生活では三度の結婚歴があり、箱館で商家の娘・小島美那子と結婚しますが、死別し、二度目は大塚高子と再婚しましたがこれも死別、三度目に西村仲子と結婚しました。

やがて、斐三郎は小栗忠順(おぐり ただまさ)の兵器国産化構想による抜擢により江戸へ戻り、江戸開成所教授や大砲製造所頭取に任じられます。

友平栄などと大砲及び小銃の製造に携わり、同時期に小栗の命により中小坂鉄山の実況見分に赴いています。

ところが戊辰戦争が始まると、兄で儒学者の武田敬孝(のちに宮内省官僚)が指導した大洲藩が討幕派だったことから、斐三郎も疑われて御徒町の自宅が襲われ、恩師・象山の故郷である松代藩に匿われ、藩の兵制士官学校の教官を務めました。

明治維新後は新政府に出仕し、日本軍の近代兵制、装備、運用を含め、明治の科学技術方面の指導者となりました。

さらに、フランス軍事顧問団との厳しい折衝を経て、1875(明治8)年に陸軍士官学校を開校させました。

しかし日本陸軍創設の過酷な仕事で健康を害し、1880(明治13)年に病死しました。

東京芝東照宮社前の参道脇に、有栖川宮熾仁親王の額による碑が建てられています。

 

五稜郭はもともとは外国勢力と戦うために造られた要塞なのですが、結局日本国内での戦争に使用されました。

それが函館戦争です。

大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は1868(慶応4)年閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府が引き続き政庁として使用しました。

同年10月21日に、榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸します。

箱館府は迎撃したものの、各地で敗北します。

10月25日に清水谷知事が箱館から青森へ逃走し、翌10月26日には松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領しました。
当時の五稜郭は「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態でしたが、旧幕府軍は冬の間に堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869(明治2)年3月に完成させました。

同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で、七重浜および箱館港方面に砲撃を行いました。

しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、甲鉄が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷します。

また、新政府軍は各所に陣地を築き、大砲を並べて砲撃しました。

猛烈な砲撃に旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、また五稜郭には堡塁がなかったため、石垣や堤を盾にして畳を敷き、屏風を立ててかろうじて攻撃を凌ぐ有様でした。

その後、5月15日に弁天台場が降伏、16日には千代ヶ岱陣屋が陥落し、新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始が通知され、衆議を経て5月18日に榎本らが降伏、五稜郭では戦闘が行われることなく新政府軍に引き渡されました。

明治以降の五稜郭は、1873(明治6)年には陸軍省の所管となりました。

奉行所庁舎および付属建物の多くは、1871(明治4)年に札幌の開拓使本庁舎建設の資材とする目的で解体されましたが、実際には札幌に運ばれず、札幌本道の工事や蓬莱町遊廓の建設資材として使われたそうです。

その後、五稜郭は特に手を加えられることなく、練兵場として使用されました。

このほか、1890(明治23)年から1899(明治32)年まで、函館要塞砲兵大隊の仮事務所が置かれました。

一般市民は立入禁止となっていましたが、中川嘉兵衛が陸軍の許可を得て、1871(明治4)年から五稜郭の氷を切り出して「函館氷」として売り出していました。

その後、1913(大正2)年、函館区長・北守政直が陸軍大臣に五稜郭を公園として無償貸与して欲しいとの請願を行いました。

すると陸軍から、使用許可時点の状態を変更することは認めない、最小限の便益施設の設置や新たな樹木の植栽は全て函館要塞司令部の許可が必要である、
かつ借用期間中の土地建物等の保存責任と費用負担は函館区が負う、などの条件付きで使用許可が出され、翌年に「五稜郭公園(ごりょうかくこうえん)」として一般開放されました。

また、『函館毎日新聞』が発行1万号を記念して、1913(大正2)年から10年かけて数千本のソメイヨシノを植樹しました。

この桜は現在も約1,600本が残っており、北海道内有数の花見の名所となっています。

五稜郭の桜

1925(大正11)年には内務省に所管が変わるとともに、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づく史蹟に指定されました。

1929(昭和4)年には郭外の長斜坂が追加指定され、文部省の所管となり、そして戦後に文化財保護法が制定されると、1952(昭和27)年に特別史跡に指定されました。

1954(昭和29)年には、函館で開催された「北洋漁業再開記念北海道大博覧会(北洋博)」の第2会場となりました。

北洋博で「観光館・お菓子デパート」として用いられた建物は、翌1955(昭和30)年から市立函館博物館五稜郭分館となり、奉行所の復元工事に伴い、2007(平成19)年11月に閉館するまで箱館戦争関連の品々を展示していました。

また、発掘調査・復元工事が行われる以前には、中央部の広場で地元の運動会や夏季の林間学校などが行われ、堀も水質が良好だった時代にはプールやスケートリンクとして使用されていました。

1964(昭和39)年、五稜郭築城100年を記念して、南隣に高さ60メートルの五稜郭タワーが開業しました。

1970(昭和45)年からは、毎年5月に「箱館五稜郭祭」が開催され、箱館戦争の旧幕府軍・新政府軍に扮した「維新パレード」や、土方歳三の物まねを競う「土方歳三コンテスト」などが行われています。

土方歳三コンテスト

そのほか、1986(昭和61)年から2013(平成25)年までは、「はこだて冬フェスティバル」の会場の1つとなり、市民団体えぞ共和国が五稜郭ファミリーイベントを開催していました。

同イベントでは、1990(平成2年)から2010(平成22)年まで、陸上自衛隊第28普通科連隊が長さ約40メートルの雪像すべり台を製作したほか、北海道大学水産学部の学生が、赤いふんどしに足袋を履いた姿で女性騎手をのせたタイヤチューブを曳き走る赤ふんダービーも行われました。

また、1988(昭和63)年からは、五稜郭の土手や堀を舞台に市民ボランティアが函館の歴史を演じる「市民創作函館野外劇」が、1989(平成元)年からは、冬の夜間に五稜郭のライトアップを行う「五稜星の夢」が始まりました。

2004(平成16)年に「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されたほか、観光地の評価としては、ミシュラン・グリーンガイド・ジャパンで、「五稜郭跡」と「眺望(五稜郭跡)」が二つ星を獲得しています。

2006(平成18)年には、五稜郭タワーが高さ107メートルの新タワーに改築されました。

五稜郭タワー

五稜郭は、水堀で囲まれた五芒星型の堡塁と1ヶ所の半月堡(馬出堡)からなり、堡塁には本塁(土塁)が築かれ、その内側に奉行所などの建物が建築されました。

その他、郭外北側に役宅街が造られました。

現在の敷地面積(国有地部分)は、郭内外合わせて250,835.51平方メートルで、うち郭内は約12万平方メートルです。

予算の制約と開港後の外国の脅威が予想ほどではなかったことから、外構工事は縮小されました。

当初5ヶ所を計画していた半月堡は1ヶ所のみ、内岸沿いの低塁も3辺のみ、郭外の斜堤も4辺しか造られませんでした。

土塁に関しては、堀を掘った土で土塁を築きました。

本塁の高さは7.5メートル、幅は土台部分で30メートル、上部の塁道が8メートルあり、塁道は砲台として使用されました。

そのほか郭内への入口の奥に高さ5.5メートルの見隠塁、堀の内岸に高さ2メートルの低塁、郭外に高さ1メートル強の斜堤が築かれました。

総堀のほか、郭内への入口3ヶ所の両側に幅4メートルの空堀が造られました。

総堀の幅は最も広い所で約30メートル、深さは約4ないし5メートル、外周は約1.8キロメートル。

築造当時、五稜郭の裏手約1キロメートル離れた亀田川に取水口を設け、地中に埋めた箱樋を通して五稜郭の堀と郭内外の住居の水道用に川の水を引いていました。

しかし、第二次世界大戦後、亀田川の護岸工事により五稜郭へ水が流れなくなり、水位が低下して堀の水質が悪化し、悪臭を放つようになったため、1974(昭和49)年からは水道水を堀に流すようになりました。

当初は総堀のほか土塁全てに石垣を築く「西洋法石垣御全備」を計画しましたが、費用が嵩むとともに石の切り出しに時間がかかることから中止され、石垣は堀のほか半月堡と郭内入口周辺にしか築かれませんでした。

函館山などから切り出された石材を使用しましたが、堀の石垣では資金不足のため赤川や亀田川の石を集めて代用した箇所があります。

半月堡と大手口の本塁の最上部には「刎ね出し(武者返し)」が付いています。

本塁

見隠塁

橋は現在、郭外南西の広場と半月堡を結ぶ一の橋、半月堡と堡塁を結ぶ二の橋、および北側の裏門橋の3本の橋が架かっていますが、築造当時は、半月堡から一の橋の反対側および郭の東北側にも橋が架けられていました。

なお現在の一の橋、二の橋は築造当時と同じ平橋ですが、1950(昭和25)年から1980(昭和55)年までは太鼓橋が架けられていました。

五稜郭内には、奉行所庁舎のほか、用人や近習の長屋、厩、仮牢など計26棟が建てられました。

建材には津軽・南部・出羽など、瓦は能登・越後など、釘や畳は江戸というように各地から運ばれた資材が用いられました。

奉行所は郭内中心部に建てられました。

規模は東西約97メートル、南北約59メートルで、建物面積は約2,685平方メートルです。

一部2階建で、西側の役所部分(全体の3/4)と東南の奉行役宅(奥向)から構成されていました。

また役所部分は、正面玄関から大広間に繋がる南棟、同心詰所などがある中央棟、白洲や土間などのある北棟に分かれていました。

奉行所

兵糧庫は築造当時から唯一現存する建物です。

明治30年代に函館要塞砲兵大隊の兵舎として使用され、一般開放後、1917(大正6)年から、片上楽天が私設の展示館「懐古館」を開き箱館戦争の資料を展示していました。

また、市立博物館の科学教室としても使用されていたことがあります。

1972(昭和47)年~1973(昭和48)年と、2001(平成13)年~2002(平成14)年に復元工事が行われ、現在の姿となりました。

兵糧庫

箱館戦争の終結によって戊辰戦争は区切りを迎え、近代国家・日本の歩みが始まります。

徳川に忠誠を尽くそうとした武士たちの最後の舞台こそ、函館戦争であり、この五稜郭という地だったのです。

函館を訪れた際は、ぜひこの五稜郭を訪れてみることをおすすめします。

 

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