東京カテドラル聖マリア大聖堂

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東京都文京区、目白通りに面して、ホテル椿山荘東京の向かい側に「東京カテドラル聖マリア大聖堂」があります。
周囲は、早稲田大学、御茶ノ水女子大や日本女子大、筑波大付属高・中、東京音大付属高、その他教育施設がたくさんある“文教“地区です。

東京カテドラル

写真を見れば一目瞭然ですが、一般的な教会のイメージと随分違いますよね。
スケールが大きいのと、形状が複雑なので、写真だけでは全体像が伝わらないのですが、今回はこの建物について解説していこうと思います。

まず、そもそも「カテドラル」とはなんなのでしょうか?

日本のカトリック教には16の地域区分(教区)があり、各教区は司教または大司教が長を務めます。
「カテドラ(司教座)」がある教会を、「カテドラル(司教座聖堂)」と呼ぶそうです。
東京カテドラルは、東京教区の大司教が公に儀式を司式し、教え、指導する教会で、教区の母教会といえるものだそうです。
聖堂名が「無原罪の聖母(マリア)」であることから、「東京カテドラル聖マリア大聖堂」と呼ばれています。

もともとは、1899(明治32)年に建てられた、木造でゴシック様式の聖堂がありました。
しかし、1945(昭和20)年に戦災で消失。
敗戦後の物資不足による経済的理由で、長らく再建されないままでした。

そして1962(昭和37)年、日本へのカトリック再布教100年事業の一環としてドイツ・ケルン大司教区の支援を受けながら、カトリック東京大司教区主催による東京カテドラル聖マリア大聖堂のコンペが行われました。
そこで、指名競技設計を行い、丹下健三氏の案が採用されました。

丹下健三

つまり、現在の教会は第二次大戦中に戦災で焼失した教会を、1962(昭和37)年に丹下健三氏が再設計、復興させたものとなります。
すでに約60年前の建築となりますが、実はこの建物の構造や空間の使い方、デザイン性は現代建築にもひけをとらない建築で、国内外で非常に評価が高いです。

ちなみに、文化庁が毎年公表している「宗教統計調査」によると、日本に住む人のうちのだいたい1.5%がキリスト教徒です。
大多数の方が神道もしくは仏教の国なので、教会にはあまり馴染みがないかもしれません。
しかし、日本の神社やお寺などのように、観光目的で行ったり、落ち着いた雰囲気の建物の中でのんびりするために行ったりするのもOKな場所なのです。

日本のキリスト教に関する歴史は、次のようになります。

まず、「日本にいつキリスト教が到来したか?」という日本の歴史上の問いに関しては諸説あります。
最古のものですと、ネストリウス派キリスト教(中国で景教と呼ばれたもの)が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説・研究があります。

景教

ただし、歴史的証拠や文書による記録が少なく、はっきりしない点も多いため、今後の研究に期待したいですね。

現在、歴史的・学問的に見て証拠が多く、高等学校日本史の文部科学省検定済教科書で、キリスト教の日本への最初の伝来となっているのは、「1549年、カトリック教会の修道会であるイエズス会のフランシスコ・ザビエルによる布教」です。
これはとても有名ですね。

ザビエル

日本は戦国時代の真っただ中で、毎年各地で大きな戦が起こっていました。
特に、京都よりも東の地で、武田信玄、上杉謙信、織田信長などの有名武将たちが戦い続けていた時代です。

戦国時代

当初は、ザビエルたちイエズス会の宣教師のみで、キリスト教の日本布教が開始されました。
そして宣教師たちは、日本人と衝突を起こしながらも布教を続け、時の権力者織田信長の庇護を受けることにも成功し、順調に信者を増大させました。

織田信長

しかし、豊臣秀吉の安土桃山時代には、勢力を拡大したキリスト教徒が、神道や仏教を迫害するという事例が起こるようになります。
さらに、ポルトガル商人によって日本人が奴隷貿易の商品となって海外に人身売買されたという話も出ており、これを耳にした秀吉はバテレン追放令を発布し、宣教を禁止しました。

豊臣秀吉

ポルトガル商人

やがて時代が移り、関ヶ原の戦いで勝利を収め、豊臣政権に代わって天下統一を成し遂げた徳川家康の江戸時代には、一時的に布教が認められました。
しかし、その後は江戸幕府が禁教令を出し、キリスト教を禁教として鎖国政策を採ったため、宣教師はもちろん、外国人も許可無しでは日本に入国できなくなりました。

徳川家康

一方で、檀家制度を整備してキリスト教徒をあぶり出すため、庶民に踏み絵をさせる行為が続出します。
その間、江戸時代の末まで、一部の信者たちが密かにキリスト教の信仰を伝えていくことになります。
この信者は「隠れキリシタン」と呼ばれていました。
有名なお話ですね。

踏み絵

長崎キリシタン洞窟

その後、明治維新が起き、江戸時代が終わります。
明治政府は、欧米列強と不平等条約を結ばされます。
諸外国と対等になろうと必死な明治政府は日本の近代化を図り、富国強兵や殖産興業、文明開化といった政治・法律・経済・軍事など、西洋式に倣ってあらゆる分野の改革を断行します。
その中には、国内でのキリスト教の布教・国民の信仰許可も含まれていて、完全ではなかったものの信教の自由が法的にも保障されるようになります。

以後、キリスト教は再度日本での布教を開始していくようになりました。
戦国時代にはカトリックが主でしたが、明治以降はプロテスタントや正教会など、各派も布教を行っています。
この時、クリスマスなどのいくつかの行事が日本に持ち込まれ、日本の文化の一つとして定着していきました。

第二次世界大戦が始まると、「敵国の宗教」ともみなされたキリスト教も、政府・大本営から戦争協力を命じられました。
また、それを拒絶した宗教団体は、特別高等警察から徹底的に弾圧されることとなりました。

第二次世界大戦が日本の敗北で終わると、ほぼ完全な形での信教の自由が日本国憲法で(第20条)保障され、不自由のないキリスト教の布教が開始されるようになります。

現在の「東京カテドラル聖マリア大聖堂」の前身は、1899(明治32)年に聖母仏語学校『玫瑰塾』(まいかいじゅく)の付属聖堂として建てられました。
1900(明治33)年に関口小教区の聖堂となり、やがて1920(大正9)年に東京大司教座聖堂となりました。

当時は木造ゴシック式の聖堂で、信者席には畳が敷かれており、履物を脱いでから聖堂に入ることになっていました。
その後、昭和になって、中央信者席に椅子が設けられるようになりました。
この建物は1945(昭和20)年の東京大空襲によって消失してしまいました。

また、1911(明治44)年にはルルドの洞窟が、フランス人宣教師ドマンジエル神父により建てられました。
こちらは現存しており、現在も聖堂に入る際、この洞窟のほうへも歩くことになります。

ルルドの洞窟

ルルドの洞窟について、ご存じではないかもしれないので、簡単に説明しておきます。
1858年、フランスの南西部にあるルルドという小さな山村の町の近くの洞窟で、一人の少女の前に聖母マリアが現れたといわれています。
少女が言われたとおりに洞窟の土を掘ると、泥水が湧き、徐々に聖水へと変化し、ルルドの泉と呼ばれました。
そして、世界各国のカトリック教会や施設に、その洞窟を模したものが多く作られることになったそうです。
こちらのルルドの洞窟は、フランスの洞窟そっくりに作られています。

このように、日本ではキリスト教が完全に保証されるまでに、およそ400年もかかりました。
しかし、世界全体で見てみると、信仰者数が最も多い(宗派はいろいろありますが)のはキリスト教です。
当然、お金がありますから、日本国内での教会再建にも充実した支援が送れます。
そして再建された教会が、今回紹介している「東京カテドラル聖マリア大聖堂」です。

この建物を建築したのは丹下健三という人物です。
日本では「世界のタンゲ」と呼ばれたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人です。
第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がけました。
磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成しています。
位階勲等は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章し、フランス政府よりレジオンドヌール勲章を受章しています。
またカトリック信徒(洗礼名:ヨセフ)でもあります。

さて、それでは「東京カテドラル聖マリア大聖堂」について解説していきます。

まず、外観から見てとれるのは、4種類のRC壁のHPシェルが2枚ずつ立て掛けられるように、対になって成立している点です。
それにより、外観では滑らかな曲面が形成され、大きな翼を広げた鳥が舞い降りたような姿をして、周囲に柔らかな印象を与えています。
この外壁の内部空間は、RC打放しのHPシェルでできた曲面が構成され、頂部の十字架を描くトップライトに視線が向けられるように設計されています。

外観1

外観2

上から見ると、屋根は十字架の形になっています。

屋根

またこの教会では、一般的な教会建築のように直接教会の入口に向かうのではなく、いったん「ルルドの洞窟」に向かって歩き、そこから転回して「東京カテドラル聖マリア大聖堂」の入口に入る動線が用いられています。

西洋の教会に見られるような典型的な建築計画をとらず、日本の神社や仏閣のように転回している点は、極めて日本的な建築であるともいわれています。
これは、日本の伝統の通り、鳥居や山門をくぐって参道を歩みながら徐々に気持ちを整え、それから「本尊」に相対するといった方法を取っているためです。
建物本体の記念碑性だけでなく「場」の力によって聖性を生み出すことが目標とされた結果です。
日本人らしい発想で西洋の神聖な場所を訪れる事ができる新しい動線は、丹下健三氏ならではといえます。
こういった発想も、この建物が非常に高い評価を得ている一つの要因です。

ルルドの洞窟から転回し、大聖堂の入り口に入ると、その圧倒的な巨大空間に息を飲みます。
内部には柱が一切なく、鋭く傾斜した壁の高さは最高40メートル。
荘厳な大空間をつくり、見上げるとトップライトが十字に輝きます。

内観1

内観2

パイプオルガンなどの演奏会では残響も響き渡り、日本にはない独特な神聖さを感じることができます。

数段の階段をはさんでやや高くなっている内陣奥の祭壇部分だけは、ステンドグラスの代わりに大理石を薄くスライスしたものが嵌められていて、イエスの受難を象徴する高さ17メートルの十字架の後ろから、品格のある重く荘厳な黄金色の光を内部空間に放つようになっています。

パイプオルガン

この教会の中では、建造物の壮大さを味わえます。
と同時に、昔のキリスト教建築をも偲ばせる、不思議な空間となっています。

聖堂内にはケルン教区から贈られた聖フランシスコ・ザビエルの胸像や三博士(東方の三賢者)の聖遺物をはじめ、聖ヨハネ・パウロ二世教皇、聖ファウスティナ・コヴァルスカの聖遺物が安置されています。
また、バチカンの聖ペトロ大聖堂にあるピエタ像(ミケランジェロ)と同じ大きさのレプリカも所蔵しています。

収蔵品

ピエタ像

ちなみに2007(平成19)年に丹下都市建築設計が監修した改修が行われ、外装は防水下地処理を行った上で新たにステンレス板葺きに、トップライトは雨水の溜まりにくいフラットな設計に変更され、採光性が高まっています。
 
今はまだ難しいかもしれませんが、観光や建築散策だけでなく、非日常感を味わいたいとき、落ち着きたいときに、ふらっと立ち寄ってみるのもいいかもしれませんね。

 

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