旧山邑家住宅 (ヨドコウ迎賓館)

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兵庫県芦屋市にある「旧山邑家住宅」は、灘五郷の造り酒屋・櫻正宗の八代目当主である山邑太左衛門の別邸として建築されました。
アメリカ人建築家フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)が設計しました。

フランクロイドライト

原設計は1918(大正7)年です。
しかし、ライトが1922(大正11)年にアメリカに帰国してしまったため、実際の建築はライトの下で帝国ホテルライト館の建設にも携わっていた、弟子の遠藤新と南信が行いました。

遠藤新

山邑太左衛門の娘婿であった政治家・星島二郎が、遠藤新と大学時代からの親しい友人であったことから、遠藤新を通じて山邑太左衛門にライトを紹介したと考えられています。
竣工は1924(大正13)年で、芦屋市街を一望できる高台に建っています。

旧山邑家住宅からの眺望

さて、この山邑家の生業である酒屋・櫻政宗は、灘五郷の一つ、魚崎郷に本拠を構える老舗です。
1625(寛永2)年、兵庫県荒牧村(現・伊丹市)にて創醸し、1717(享保2)年に魚崎へ移転して酒造専業となりました。
ですので、この年を「創業」としています。

創業以来、当主は山邑太左衛門を襲名しており、2020(令和2)年時点では11代目です。

櫻政宗

また、六代目当主の山邑太左衛門は、酒の仕込み水として全国的に知られる宮水の発見者とされています。
1906(明治39)年には、官立醸造試験所の技師高橋偵造によって櫻正宗酒母から分離された櫻正宗酵母が、日本醸造協会より“協会一号酵母”として全国に頒布されました。

江戸時代末期に現在の場所に移転し、築後200年余り経過した内蔵(1973(昭和48)年に兵庫県重要有形文化財に指定)にて酒造りを行ってきましたが、内蔵は阪神・淡路大震災で門以外全ての建物が倒壊し、現在は震災の前年に完成した櫻喜蔵で製造を行っています。

倒壊を免れた内蔵の門は、現在記念館の入り口となっています。
商標が「櫻正宗」であることもあり、酒蔵や記念館、酒蔵付近のゴルフ練習場の敷地には、多数の桜の木が植えられています。
また2010(平成22)年秋、櫻正宗記念館「櫻宴」の装いをリニューアルするに至りました。

お酒の飲み口としては、口あたりの良い「やや辛口」の酒が特徴です。

創業の頃は、俳優の名に由来する「薪水(しんすい)」と言う酒銘で流通していました。
しかし、酒銘が女性的で酒客の嗜好に投じないとの理由から、時代に応じた命名を考えていました。
ある時、元々親交のあった山城国深草の極楽寺村瑞光寺(元政庵)の住職を訪ねた際に、机の上に置かれていた経典に書かれた「臨済正宗」の文字を見て、「正宗(セイシュウ)」が「清酒(セイシュ)」に語音が通じることから、1840(天保11)年に「正宗」を酒銘としたそうです。

当初は「セイシュウ」という読みが正しい読みでしたが、「マサムネ」という読み名で親しまれていたためにマサムネが一般的に定着し、明治期に至るまで「正宗」の銘で流通しました。

なお、正宗という銘の入った酒銘が今日においても全国的に多く見られるように、「正宗」という銘は江戸期に流行った酒銘であり、櫻正宗だけが「正宗」であったわけではありません。

他の正宗

明治時代になり、商標制度ができると、正宗を正式に商標登録を申請しようとしました。
しかし、他にも多くの蔵元が正宗の名を名乗り出たため、政府が”正宗”を普通名詞として扱うと決めてしまい、受理されませんでした。
政府の勧めもあり、国花である櫻花一輪を冠し「櫻正宗」と名付けられ、今日に至ります。

そんな山邑家の別邸である「旧山邑家住宅」の設計を行った人物は、誰もが知っているフランク・ロイド・ライトです。

ライトはアメリカのウィスコンシン州で生まれました。
ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学した後、シカゴへ移り住みます。
叔父ジェンキンの紹介により、建築家のジョセフ・ライマン・シルスビーの事務所で働き始めました。
しかし、1年ほどでシルスビー事務所を辞し、ダンクマール・アドラーとルイス・サリヴァンが共同して設立したアドラー=サリヴァン事務所へと移りました。

アドラー=サリヴァン事務所ではその才能を見込まれ、事務所における1888(明治21)年以降のほとんどの住宅の設計を任せられました。
ライト自身もサリヴァンを「Lieber Meister (愛する師匠)」と呼んで尊敬し、生涯にわたりその影響を肯定し続けました。

アドラー=サリヴァン事務所に勤めて7年になろうとした1893(明治26)年、事務所での設計業務とは別にアルバイトの住宅設計を行っていたことがサリヴァンの知るところとなります。
その件を咎められたライトはアドラー=サリヴァン事務所を辞し、独立して事務所を構えました。

ライトの経済的困窮は、子だくさんに加え、洋服や車など、贅沢品を好むそのライフスタイルにありました。
1894(明治27)年のウィンズロー邸は、独立後最初の作品です。

ライトは、独立した1893(明治26)年から1910(明治43)年までの17年間に、計画案も含め200件近い建築の設計を行い、プレイリースタイル(草原様式 Prairie Style)の作品で知られるようになりました。
1906(明治39)年のロビー邸はその代表的作品です。

ロビー邸

プレイリースタイルの特徴としては、当時シカゴ周辺の住宅にあった屋根裏、地下室などを廃することで建物の高さを抑えたこと、水平線を強調した佇まい、部屋同士を完全に区切ることなく一つの空間として緩やかにつないだことなどがあげられます。

ヨーロッパの建築様式の模倣である新古典主義が全盛であった当時のアメリカにおいて、プレイリースタイルの作品でアメリカの郊外住宅に新しい建築様式を打ち出し、建築家としての評価を受けたライトでしたが、この後1936(昭和11)年のカウフマン邸(落水荘)までの間、長い低迷期を迎えることとなります。

そのきっかけになった出来事が、1904(明治37)年に竣工したチェニー邸の施主の妻ママー・チェニーとの不倫関係でした。
当時、ライトは1889(明治22)年に結婚したキャサリン・トビンとの間に6人の子供をもうけていました。

既にチェニー夫人と恋仲にあったライトは妻キャサリンに離婚を切り出しましたが、彼女は応じませんでした

1909(明治42)年、ライトはついに事務所を閉じ、家庭をも捨て、チェニー夫人とニューヨーク、さらにはヨーロッパへの駆け落ちを強行します。

1911(明治44)年にアメリカに帰国するまでの2年間に設計活動が行われることはありませんでした。
しかし、その間に滞在したベルリンにおいて、後にライトの建築を広く知らしめ、ヨーロッパの近代建築運動に大きな影響を与えるきっかけとなったヴァスムート社出版のライト作品集の編集及び監修に関わりました。

帰国したライトを待っていたのは、不倫事件によって地に落ちた名声と、設計依頼の激減という危機的状況でした。
妻は依然として離婚に応じませんでしたが、ライトはチェニー夫人との新居を構えるべく、母アンナに与えられたウィスコンシン州スプリング・グリーンの土地にて、タリアセン(ライトの自邸)の設計を始めました。

タリアセン

その後、少しずつ設計の依頼が増えてきたライトを、更なる事件が襲います。
タリアセンの使用人であったジュリアン・カールトンが建物に放火した上、チェニー夫人と2人の子供、及び弟子達の計7人を斧で惨殺したのです。

逮捕されたカールトンは犯行の動機を語ることなく、7週間後に獄中で餓死しました。

当時シカゴの現場に出ていたライトは難を逃れましたが、これにより大きな精神的痛手を受け、さらには再びスキャンダルの渦中の人となります。
そのような中で依頼が来たのが、日本の帝国ホテル新館設計の仕事でした。

1913(大正2)年、ライトは帝国ホテル新館設計のために訪日します。
以後もたびたび訪日し、設計を進めましたが、大幅な予算オーバーと工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、このホテルの完成を見ることなく離日を余儀なくされました。
ホテルの建設は弟子の遠藤新の指揮のもとでその後も続けられ、1923(大正12)年に竣工しました。
この時、同時にいくつかの設計を行っていたため、帝国ホテル以外の建築も日本に残しています。
自由学園明日館などがその代表です。

自由学園明日館

数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライトでしたが、1930年代後半になると、カウフマン邸(落水荘)、ジョンソンワックス社と相次いで2つの代表作を世に発表し、70歳代になって再び歴史の表舞台に返り咲くことになります。

2作ともにカンチレバー(片持ち梁)が効果的に用いられました。
同時期には、プレイリースタイルの発展形である「ユーソニアン・ハウス」と名付けられた新たな建設方式を考案し、これに則った工業化住宅を次々と設計しました。

ここでは、万人により安価でより良い住宅を提供することが目標とされました。
1936(昭和11)年のジェイコブス邸は、その第1作目の作品です。

ライトのスタイルには変遷もあり、一時はマヤの装飾を取り入れたことがありますが、基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴です。

浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されています。
また、浮世絵のディーラーとしても知られていて、富豪のために日本で浮世絵を購入した上で売却していました。

そしてライトの弟子であり、旧山邑家住宅を最終的に造り上げた人物、遠藤新についてです。

遠藤は1889(明治22)年、福島県宇多郡福田村(現:相馬郡新地町)に生まれました。
第二高等学校を経て東京帝国大学建築学科卒業し、卒業の翌年には、建築界の大御所だった辰野金吾設計による東京駅建築の批判を発表しました。

明治神宮の建設に関わった後、1917(大正6)年、帝国ホテルの設計を引き受けたライトの建築設計事務所に勤務しました。

1919(大正8)年にライトとともに渡米し、翌年帰国、1921(大正10)年まで帝国ホテル設計・監督中のライトの助手として働きました。
翌1922(大正11)年、建築事務所を開設しました。

上述しましたが、建設費用がかかり過ぎるとしてライトは解雇され、途中で帰国してしまいます。
しかし、遠藤ら弟子が見事に帝国ホテルを完成させました。

関東大震災後には応急建築に奔走し、賛育会産院・乳児院、銀座ホテル、日比谷世帯の会マーケット、東洋軒、陶陶亭、盛京亭、第一屋分店・山邑酒造店などのバラック建築を手掛けました。
また、自由学園、山邑邸も、ライトの基本設計を元に完成させます。

1935(昭和10)年からは、満州と日本を行き来して設計活動を行いました。
1945(昭和20)年、満州にて第二次世界大戦の終戦を迎えましたが、翌年心臓発作で入院し、半年後に日本に帰国しました。

遠藤は、1949(昭和24)年から文部省学校建築企画協議会員を務め、戦後占領下の日本における学校建築のあり方に対する提言を行いました。
しかし1951(昭和26)年4月に体調を崩し、東大病院に入院します。
2ヶ月後の6月29日、心臓病のため、同病院にて死去しました。

葬儀は自身の作品である新宿区下落合の目白ヶ丘教会で行われ、これがこの教会での初の葬儀となりました。

目白ヶ丘教会

遠藤は独立後もライトに心酔し、ライトばりの建築を設計し続けました。
このため、ライトの使徒とも呼ばれ、独創性がないと軽視されることもありました。

しかし、ライトの設計思想をよく理解した遠藤の作品は、ヒューマンスケールな広がりのある空間で多くの人に親しまれており、近年再評価が行われています。

ライトの建築の特徴は、『有機的建築』であるということです。
『有機的建築』というのは、土地を活かし、自然の景観を損なわないように配慮した、自然との共存を目指した建築のことです。

「機能性や建物の景観さえよければいい」という考えではなく、自然と融和することこそ、より豊かな人間性に繋がると考えました。
ライトは、『自然界に存在するものは、生きるために必要な部分だけでできており、建築するというのは自然から教えられたものを大自然の中に返す行為なのだ』と語っています。

 

「旧山邑家住宅」は、芦屋川が眼下に見下ろせる高台に建っています。

外観1

緩やかな斜面で、南北に細長い敷地に、ライトは非常に興味を抱きました。

ライトは敷地に対する建物配置が絶妙ですが、この旧山邑家住宅でも、それが実感できます。
芦屋川が海に向かってまっすぐに行く寸前の折れたところの急峻な丘に階段状に建っているため、建築物が密集した現在でも芦屋川を通じて大阪湾が一望できます。

建物全体を眺めながらエントランスに導かれるアプローチ、迷路状の流れるようなプラン、室内外の空間の細かい出入りなど、ライトのよく使った建築手法が存分に反映されています。

外観2

旧山邑家住宅も、まさに『有機的建築』で、自然の地形を生かした設計になっています。
建物全体は、4階建てですが、斜面に沿って階段状に各階がずれて重なっているので どの断面をとっても、1階か2階のつくりになっています。

外観設計図

正面から見ると、左右対称になっています。
左右対称の構図は、ライトの特徴でもあり、内観も左右対称の構図がたくさんあります。

外観3

内外装に多く使われている石は大谷石(おおやいし)といい、栃木県宇都宮市で採掘されています。
ライトは、この大谷石を気に入っており、日本での建築の際に多く用いたといわれています。
大谷石はやわらかく加工がしやすいため、ライト独自の幾何学的な装飾模様を彫り込むのに適していたようです。

窓やドア、欄間等に用いられている緑色の飾り銅板は、植物をイメージしたもので、緑青というサビを意図的に発生させています。
いたるところに、全部で約200枚の飾り銅板があります。

ライトは各建物ごとに象徴を作っていたそうで、この飾り銅板が旧山邑家住宅の象徴といえるでしょう。

人が多く出入りするところにある照明には幾何学模様のリボンが巻かれており、人目を意識した演出になっています。

内観1

内観2

内観3

廊下には一面に窓があり、飾り銅板が取り付けられています。
空気の入れ替えがしやすく、光を取り込みやすくなっています。

廊下

4階には食堂があります。
食堂も左右対称なつくりで、非常に独創的です。
この場所の天井も圧巻です。

食堂天井

食堂からはそのままバルコニーに出ることができ、芦屋の絶景を望めます。

バルコニー

バルコニーからの眺望

この建物は1947(昭和22)年に淀川製鋼所(ヨドコウ)が購入し、1971(昭和46)年にマンションへの建て替えが検討されました。
しかし、建築史研究者らの保存要望を受けて取りやめとなり、現在は「ヨドコウ迎賓館」として、一般の見学も受け付けています。

波乱万丈の人生を生きた天才建築家であるフランク・ロイド・ライトと、師の技法を忠実に再現し続けた建築家、遠藤新。
この2人のどちらが欠けても、おそらくこの建物は完成することはなかったのでしょう。

阪神辺りにお越しの際は、見学してみてはいかがでしょうか。

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