和光本館(旧服部時計店)

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東京の数多くある繁華街の中で、高嶺の花の場所といえば、やはり銀座ではないでしょうか。

街を歩く人たちの服装も高級で、狭い裏通りを窮屈そうに走る自動車も高級車だらけです。
東京メトロ銀座線が地下を走る中央通りを中心に、老舗店、高級ブランドショップが軒を連ねています。

一説には銀座の一等地の地代は1平方メートルで1億円だとか。。
足を伸ばして寝ることもできないスペースですね。

銀座

銀座といえば、明治初期の煉瓦街建設を機に、その高級なイメージを定着させたといわれています。

しかし大正初期には松屋銀座店が建つ場所には煙草工場があったりと、この頃の銀座はこの時代の日本でよくありがちな、雑多的な要素を持ち合わせた繁華街だったようです。
そこからどんどん発展していき、日本最大の高級繁華街となりました。

そのようなブランドの街・銀座にあって、今も昔も街のランドマーク的存在の建造物といえば、4丁目交差点に建つ和光本館でしょう。
ネオ・ルネサンス調の、クラシカルな雰囲気漂う、美しい建築作品です。

時計台が美しいこの銀座和光は、1932(昭和7)年に服部時計店の本社ビルとして竣工したものです。

服部時計店といわれてもよくわからないという方も多いと思いますが、「セイコー」といえばわかるのではないでしょうか?

そう、日本最大の時計メーカー「セイコー」です。

このセイコーの本社ビルとして建てられたのが、こちらの服部時計店です。

セイコー時計

戦後は服部時計店の組織改編により、同社の小売部門である和光の店舗として使用されています。

ただし、セイコーの登記上の本店は、現在もこちらの場所に置かれているとのことです。
やはり同社にとっても思い入れの深い場所であり、そして同様の建造物なのでしょう。

創業者である服部金太郎が、銀座4丁目交差点に面する朝野新聞社の建物を買い取り、初代の“時計塔”として増改築したのは1894(明治27)年のことでした。

現存する和光本館とは違います。

初代時計塔

というのも、大正期に入って時計塔の建て替えが計画され、解体・基礎工事が順調に進められました。

しかしその直後に関東大震災が起こります。

当時から帝都・東京の商業中心地であった銀座は真っ先に復興の対象とされ、時計塔は綿密な設計見直しを経て、1932(昭和7)年に落成の運びとなりました。

これが現在まで残る和光本館です。

関東大震災

創業者の服部金太郎は、1860年11月21日(万延元年10月9日)、尾張国名古屋出身の服部喜三郎の長男として、江戸・京橋采女町(現在の東京都中央区)に生まれました。
寺子屋で習字・算盤等を学び、11歳で近所の雑貨問屋に丁稚奉公にあがりました。

服部金太郎

いずれは自分の店を持ちたいと考える金太郎でしたが、同じく近所の老舗時計店に強い印象を受けます。

「時計店は販売だけでなく、その後の修理でも利益を得ることができる」と考えた金太郎は、14歳の時に日本橋の時計店に、2年後には上野の時計店に入り、時計修繕の技術を学びました。

1877(明治10)年、金太郎は采女町の実家に戻り、「服部時計修繕所」を開業します。
自宅で時計修繕をする傍ら、他の時計店で職人としての仕事も続け、時計店開業のための資金を貯めました。

1881(明治14)年、21歳の金太郎は自宅近くに「服部時計店」を開業し、質流れ品や古道具屋の時計を安く買い取り、修繕して販売する手法で利益を得ました。
1883(明治16)年には銀座の裏通りに店を移転します。

この頃から横浜の外国商館との取引きを始め、輸入時計の販売を開始しました。

当時の日本には、期日を守って支払いを行うという商習慣があまり無く、1ヶ月や2ヶ月の遅れは珍しいことではありませんでしたが、金太郎は期日を厳守した商取引で外国商館からの信頼を得ました。
外国商館は安心して多額の商品を融通し、良い物、斬新な物があれば服部時計店に優先して売ってくれることもありました。

このように順調に事業を拡大した金太郎は、1887(明治20)年、銀座4丁目の表通りに店を移転しました。

時計製造を考えた金太郎は、当時懐中時計の修繕・加工を依頼していた職人の吉川鶴彦を技師長に迎え、1892(明治25)年、時計製造工場「精工舎」を設立しました。

この工場名が、現在もセイコーとして受け継がれています。

程なくして柱時計の生産に成功し、1895(明治28)年には懐中時計の生産に成功し、精工舎で製造した時計の販売を服部時計店で開始しました。

吉川鶴彦

一方、1894(明治27)年には銀座4丁目の角地を買収し、巨大な時計塔を備えた時計店を完成させます。

これこそが、銀座のシンボル「服部の時計塔」の誕生です。

1913(大正2)年、国産初の腕時計の製造に成功し、販売を開始します。
1917(大正6)年には店を会社組織に改め、株式会社服部時計店としました。
清国への時計の輸出も開始し、大戦景気にも乗った服部時計店はアジアで欧米メーカーと覇を争うまでに成長し、金太郎は時計業界で確固たる地位を築いていきました。

しかし、1923(大正12)年、関東大震災により銀座の社屋、工場の大半を失います。

一度は落胆した金太郎でしたが、すぐさま精工舎の復興に着手します。
翌年3月には柱時計の、12月には腕時計の出荷を再開しました。

さらに、1925(大正14)年には、難しいとされていた腕時計の量産化にも成功しました。

1927(昭和2)年4月18日には貴族院議員に勅選され、同和会に所属し、死去するまで在任しました。

1932(昭和7)年には新しい時計店本店、現在も残る銀座の時計塔が完成しました。
その2年後の1934(昭和9)年、病に倒れた金太郎は、73歳で亡くなりました。

その後も服部時計店は、世界初のクオーツ腕時計(1969(昭和44)年)、世界初の6桁表示デジタル腕時計(1973(昭和48)年)、世界初のスプリングドライブ腕時計(1999(平成11)年)等を世に送り出し、「世界の服部セイコー」として一大企業へと成長していきます。

世界初のクォーツウォッチ

世界初の6桁デジタルウォッチ

世界初のスプリングドライブウォッチ

金太郎の残した言葉の1つに、「世間より一歩先に」という言葉があります。

「すべて商人は、世間より一歩先に進む必要がある。ただし、ただ一歩だけでよい。何歩も先に進みすぎると、世間とあまり離れて予言者に近くなってしまう。商人が予言者になってしまってはいけない」

これは金太郎の言葉であり経営の理念ともいえるものでした。

ある時、
「自分は、他の人が仲間同志で商売をしているときに、外国商館から仕入れを始め、他人が商館取引を始めたときには、外国から直接輸入をしていた。
他人が直輸入を始めたときには、こちらはもう自分の手で製造を始めていた。
そうしてまた他人が製造を始めたときには、他より一歩進めた製品を出すことに努めていた」
と振り返っています。

服部の時計塔についてですが、上述したように、大正期の好況と建築の技術革新を背景に時計塔の建て替えが計画されました。
しかし、旧建物を解体して基礎工事にかかった直後、大震災が東京周辺を襲いました。

建物にも「運」があるとすれば、誕生以前からこの建物は恐るべき強運の持ち主だったのかもしれません。

数年を経て工事が再開された際、構造は鉄骨鉄筋コンクリート、外壁は設計段階で予定されていたテラコッタから、より強靭な天然の御影石へと変更されました。
落成後十数年を経て、再び銀座の地が空襲で焦土と化したことを思えば、工事延期がこの建物の運命にもたらした意味はあまりにも大きいです。

戦後の進駐軍による接収の時期が過ぎ、この建物は、服部時計店の小売部が独立した「和光」の店舗・社屋として再スタートし現在に至りますが、外観はもちろん、建物の主要部がほぼ創建当時のまま残る稀有な事例となりました。

設計にあたったのは、旧日劇・第一生命ビルなどの建築作品で知られる渡辺仁のチームで、施工は清水組(現・清水建設)です。
「日本一の目抜き通り」に構える建物の様式がネオ・ルネサンスと決定されたのは、当時の服部時計店図案部長・八木豊次郎らの提案であるといいます。

地上7階・地下2階、構造は鉄骨鉄筋コンクリート、外壁は設計段階で予定されていたテラコッタからより強靭な天然の御影石へと変更され、当時最高の技術がこの建物に注ぎ込まれました。

時計の文字盤下部や窓の周囲には、ブロンズ製のアラベスク模様などがあしらわれ、内部の壁面にはイタリアから輸入した大理石が使用されました。

外観

時計

外観はネオ・ルネサンス調のクラシカルなデザインをベースにしていますが、細部装飾にアールデコの影響、エレベーターホールや階段室周辺にモダニズムの要素などが見られ、この作品にモダンな味を加えています。

内観1

内観2

内観3

1992(平成4)年、時計塔60周年を迎えるにあたって、高精度のムーブメントに付け替えられました。
地下2階に設置されている親時計から信号が塔内のモーターに送られ、時を刻んでいるそうです。

建物外観にある、特長的な6つの装飾レリーフは、時計塔が完成した1932(昭和7)年当時に、服部時計店が取り扱っていた商品をシンボライズしているものが多いです。

装飾レリーフ

渡辺らは伝統的な様式を踏襲しながらも、新時代の感覚を反映させた様々な試みをディティールに配しました。
服部時計店の当時の商号である“H”を刻んだレリーフなどは、その典型といえるでしょう。

Hのレリーフ

また、それ故にこそ、いわゆる“モボ”、“モガ”が闊歩する昭和の銀座と、石造りのクラシカルな建物が、見事に共存する景観が立ち現われたわけです。

建物の象徴である時計塔のデザインを担当した設計者の一人・渡辺光雄は、「時計塔という優れたモダンな要素を、外観の様式と調和させるため非常に苦心した」と後に回想しています。

ともあれ、交差点に面した大胆な曲面と、愛らしくもある時計塔は、いささかの違和感もなく美しい建築作品として現在も成立し、銀座のシンボルとして立っています。

銀座にお越しの際は、一度、4丁目交差点で足を止めて、この建物を見てみるのもよいのではないでしょうか?

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