文化のみち二葉館

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愛知県名古屋市に、市が建築遺産の保存・活用を進める「文化のみち」というエリアがあります。
名古屋の近代化の歩みを伝える貴重な建造物などが残され、それらの活用やイベントの実施が進められています。

そのエリアには様々な建物があるのですが、そのうちの1つで代表的な建物をご紹介します。
それが、今回ご紹介する『文化のみち二葉館(ぶんかのみちふたばかん)』です。

もともと二葉館の建物は現在地から北西へ約850mのところにありました。
約2,000坪もの敷地に立つ豪奢な家で、当時の所在地が東二葉町であったことから「二葉御殿」と呼ばれていました。
当時は、その建物の斬新さと豪華さから、政財界人や文化人の集まるサロンとなったそうです。

創建時の所有者は川上貞奴(さだやっこ)という人です。
川上貞奴の本名は貞で、1871(明治4)年に東京・日本橋で生まれ。
父の死により7歳の時に芳町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となりました。

貞奴

伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名し、芸妓としてお座敷にあがります。
芸妓になるとすぐに売れっ子となって“奴”と呼ばれるようになり、伊藤博文や井上馨ら政財界の大物たちに贔屓にされたといわれています。

伊藤博文

井上馨

貞奴はその後、オッペケペー節で知られる俳優で興行師の川上音二郎と結婚しました。

川上音二郎

また、1899(明治32)年に川上一座として渡ったアメリカで初めて舞台にたちます。
アメリカでの巡演中は、日舞を披露していました。
また、サンフランシスコ公演では、公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生します。
一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされましたが、在留邦人の支援などで苦境を乗り越えました。

シアトル公演で後々有名になった『芸者と武士』を川上が生み出し、エキゾチックな貞奴の美貌と写実的な演技が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得ました。
貞奴は日本の女優第一号といわれています。
ヨーロッパ各国でも成功を収めて、“マダム貞奴”と称されました。

1900(明治33)年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年にパリで行われていた万国博覧会に招かれ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演を行いました。
7月4日の初日の公演には、彫刻家ロダンも招待されていたそうです。

ロダン

ロダンの考える人

ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出ましたが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話もあるほどです。
貞奴の影響で、キモノ風の「ヤッコドレス」が流行しました。
ドビュッシーやジッド、ピカソは彼女の演技を絶賛し、フランス政府のオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与しています。

ドビュッシー

ピカソ

1911(明治44)年に音二郎が亡くなり、7回忌を終えてから女優を引退した貞奴は、昔からの知り合いだった福澤桃介に請われて名古屋へと移ります。
当時の桃介は名古屋電燈株式会社の取締役で、木曽川水系を利用した発電所開発に着手していた時期でした。

福沢桃介

桃介との馴れ初めは1885(明治18)年頃にさかのぼります。
馬術をしていた貞が野犬に襲われたところを、学生だった桃介が制したことで、2人は恋に落ちました。
しかし、1年後、桃介は福澤諭吉の二女・房と結婚します。

この後、貞奴と桃介は長い別離を挟みます。
貞奴も音二郎と結婚しました。
しかし、女優を引退した後の貞奴は、悲恋の相手だった桃介と再び結ばれることになります。
貞奴は名古屋の二葉御殿で共に暮らしながら、建前上は事業パートナーとして支えることとなりました。

事業面でも実生活でも桃介を支え、仲睦まじく一生を添い遂げました。
2人並んで公の場に姿を現し、桃介が手掛けた水力発電用の大井ダム(木曽川)工事の際も貞奴は赤いバイクを乗り回して現場を訪れ、他の社員が尻込みする中を1人桃介について谷底まで向かったといいます。
ただ、このように福澤桃介が離婚もせず貞奴を連れ歩いて、妻を放置し、福澤家をないがしろにしていることを、慶応関係者は良く思っていなかったようではあります。

ちなみに桃介は、石炭、紡績、ビール会社など電気以外の事業も様々行っていました。
電気事業では愛知県のみならず、日本各地の電気事業に関係しています。
これが電力王と呼ばれた所以でもあります。

二葉御殿は1918(大正7)年に着工し、1920(大正9)年に完成します。
貞奴は、名古屋市内に川上絹布株式会社という絹織物の事業を興したこともあり、着工年に敷地内に完成した使用人用の住まいで暮らしていました。

そして、貞奴と桃介が二葉御殿で一緒に暮らしたのは、完成から1924(大正13)年までのわずか5年でした。
上述したように、桃介は日本初のダム式発電である大井発電所など7ヶ所もの発電所を木曽川に建設して街に電気をもたらし、電力王と呼ばれるまでになります。
その事業を進めるため、また名古屋の財界人をもてなす場として、二葉御殿は大いに活用されたと考えられています。

2人のロマンスは、1985(昭和60)年にNHK大河ドラマ『春の波涛』でドラマ化されました。

『春の波涛』より

桃介、次いで貞奴が東京に拠点を移すと、二葉御殿は貞奴の養子であった広三夫婦の住まいになりました。
その後、土地を分割して売却し、建物の大部分は名古屋の企業の常務が買い取りました。
所有者がその企業に移されたあとは、社員の保養施設として1996(平成8)年まで使われていたそうです。

老朽化から取り壊しの話も持ち上がりましたが、所有企業と名古屋市の間で何度かの話し合いを経て、2000(平成12)年に建物が名古屋市に寄付され、場所を移しての保存が決定しました。
二葉御殿の敷地が分割売却された際、一部が取り壊されるなどし、増改築も行われていましたが、移築・復元に当たっては、貞奴と桃介ゆかりの家として創建当時の姿にすることになりました。

創建時の設計図はありませんでしたが、当時としては珍しく、家の中や外で撮影された写真が多数残されていたことが功を奏しました。
それに加え近隣住民や、ご存命だった、広三夫婦の子どもで貞奴の孫にあたる初さんへの聞き取りも行われました。
さらに、新聞や雑誌の文献や、二葉御殿の設計を担当した「あめりか屋」が他に手がけた住宅などのデータを統合し、完全ではないものの復元にこぎつけたのだそうです。


『文化のみち二葉館』の建物は、和室もある2階建ての洋館部分と、平屋建ての和館部分がつながった、和洋折衷の建物からなります。

外観

東京で1909(明治42)年に創業したあめりか屋は、その名の通り、アメリカ風の住宅の設計で人気を博した住宅メーカーです。
その作風を知ることができる、赤い瓦の屋根や凝った意匠の外壁は、ひと際目立ちます。

洋館部分はバンガロー様式で、和風部分の外観の壁は伝統的な簓子(ささらこ)下見板張りです。
左側を回ったところに、家族が出入りした内玄関があります。

和風部分

洋館部分の1階の大広間では、いきなり大きなステンドグラスが目に入ります。
この部屋の象徴とも言うべき、入り口ドア正面にあるこのステンドグラスは、一部流出していたもののほぼ残っていました。
初夏の草花が描かれ、「初夏」と名付けられたそのステンドグラスは、桃介の義理の弟である、日本のグラフィックデザインの先駆者であった杉浦非水によるデザインです。
また、日本初のステンドグラス工場であった「宇野澤ステインド硝子工場」がつくったといわれています。
ステンドグラスは、大広間のほか1階の旧食堂、2階の旧書斎にもあり、どの部屋でも美しく部屋を彩ってます。

大広間西側のステンドグラス 「初夏」

大広間南側のステンドグラス 「踊り子」

旧食堂のステンドグラス「アルプス」

移築にあたって、土地の関係から建物は南向きから西向きへと90度変えられたため、日の光の当たり方は当時とは違うそうです。
大広間から2階へと上がる木製の螺旋階段には赤い絨毯が敷かれ、ひときわ目をひきます。

大広間

大広間より2階に上がる螺旋階段

2階

まだガス灯が主流であった時代に、地下室に自家発電装置を完備し、家の一角には配電盤が備わって、家中に電気が張り巡らされていました。
螺旋階段の登り口には、街灯のようなデザインの電気照明があります。
女中を呼ぶブザーも、電気で動く仕掛けでした。
そのほか、電気釜や電気ストーブといった電化製品も使っていたといいます。

自家発電装置

街灯のような電灯

さすがは電力王の暮らした家といえますね。
電力開発の社交の場でもあっただけに、招いた財界人や技術者などに電気の魅力を印象付けたことでしょう。

フレアー状にふき下したオレンジ色の洋風屋根、ステンドグラスの光がこぼれる大広間、そして落ち着いた伝統的な和室のある和洋折衷の建物。
モダンでシックで、驚くような仕掛けもあります。

電力王と日本の女優第一号が暮らしていた『文化のみち二葉館』。
美しい内装に触れながら、女優として実業家として功績を残した貞奴の生き方に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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