高徳院 鎌倉大仏

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江ノ島電鉄「長谷駅」で下車し、歩くこと訳10分。

神奈川県鎌倉市長谷の「高徳院」に、鎌倉といえば大仏!と言われるほど有名な「長谷の大仏」があります。

江ノ電長谷駅

江ノ電

高徳院(こうとくいん)は浄土宗の寺院です。

本尊は、国宝銅造阿弥陀如来坐像の鎌倉大仏です。

正式には「大異山高徳院清浄泉寺(だいいざん こうとくいん しょうじょうせんじ)」と号します。

開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳です。

高徳院全体図

高徳院を訪れて、まず最初に出会う建造物は「仁王門」です。

内部に安置された2体の「仁王像」は、18世紀初頭に他所から移築されたものと伝わります。

大きさは大仏様には敵いませんが、その姿は力強く、見応え十分です。

仁王門

阿形像

吽形像

鎌倉大仏が建立されている場所は、もともと長谷の「おさらぎ」という地名でした。

そのため、鎌倉大仏にかぎっては「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む場合があります。

また、この地に由来のある家系には、「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む姓があります。

北条氏の庶流の中には大仏流北条氏があり、執権を出したこともあります。

 

近世以前に造立された大仏については、東大寺大仏、鎌倉大仏、雲居寺大仏、東福寺大仏、方広寺の京の大仏などが挙げられます。

しかし、雲居寺大仏や東福寺大仏、方広寺の京の大仏など天災や戦乱で失われたものが多く、鎌倉大仏は東大寺大仏と並んで、造立当初の姿をよくとどめている貴重な存在です。

東大寺大仏

江戸時代には鎌倉大仏(像高約11.39メートル)、東大寺大仏(像高約14.7メートル)、方広寺大仏(京の大仏、像高約19メートル)の三尊が、日本三大仏と称されていました。

高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院ですが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多いです。

寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものという説もありますが、定かではありません。

初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていました。

極楽寺

のちに臨済宗に属し建長寺の末寺となりましたが、江戸時代の正徳年間(1711年 - 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっています。

「高徳院」の院号を称するようになるのは、浄土宗に転じてからです。

『吾妻鏡』には、1238(暦仁元)年、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の1243(寛元元)年に開眼供養が行われたという記述があります。

同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、1242(仁治3)年に完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記しています。

一方、『吾妻鏡』には、1252(建長4)年から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もあります。

「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252(建長4)年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説です。

なお、前述の1243(寛元元)年に開眼供養された木造の大仏と、1252(建長4)年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説がありましたが、今では後者の説が定説となっています。

 

『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされていますが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていません。

大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られます。

しかし、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳です。

鎌倉時代末期には、鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いています(寺社造営料唐船)。

しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかは、これも史料がないため、不明です。

北条(金沢)貞顕

大仏は、元来は大仏殿の中に安置されていました。

大仏殿が存在したことは、2000(平成12)年から2001(平成13)年にかけて実施された境内の発掘調査によっても、あらためて確認されています。

『太平記』には、1335(建武2)年に強風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり、『鎌倉大日記』によれば大仏殿は1369(応安2)年にも倒壊しています。

大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきました。

室町時代の禅僧・万里集九の『梅花無尽蔵』によると、1486(文明18)年、彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されています。

前述した境内の発掘調査の結果、1369(応安2)年の倒壊以後、大仏殿が再建された形跡は見出されませんでした。

現在、鎌倉大仏の周囲には、かつて存在した大仏殿の礎石の跡とみられる巨大な石が53個存在しています。

礎石

露坐となった鎌倉大仏は、荒廃が進みました。

しかし、江戸中期に祐天上人が浅草の商人野島新左衛門の喜捨を得て、弟子の養国上人とともに復興を図ります。

そして大仏の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院の再興に成功し、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけました。

1923(大正12)年の関東大震災では、基壇(建物を上に建てるために作られた壇)が壊れ、1メートル沈下しました。

その翌年に、基壇は建築学者内田祥三を顧問として戸田組(現戸田建設)によって、仏身は帝室技芸員新海竹太郎を顧問に安倍胤斎によって、修理が行われました。

1959(昭和34)年から2年間行われた大修理では、基壇を免震にし、大仏本体にも補強を施すなどを行いました。

2017(平成29)年1月から3月まで保存修理と調査が行われました。

 

鎌倉大仏の大きさは、像高約11.39メートル、台座を含めると高さ13.35メートルになります。

面長2.35メートル、眼長1メートル、眉長1.24メートル、口広0.82メートル、耳長1.9メートル、そして重量は約121トンです。

角張った平面的な面相、低い肉髻(にっけい、頭髪部の椀状の盛り上がり)、猫背気味の姿勢、体部に比して頭部が大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しており、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されています。

また、後世の補修が甚大な奈良・東大寺の大仏と比べ、ほぼ造像当初の姿を保っている点も貴重です。

大仏外観1

大仏外観2

大仏外観3

鎌倉大仏は、衣を通肩(両肩を覆う着装法)にまとっています。

浄土教信仰に基づく阿弥陀像が多く来迎印(右手を挙げ、左手を下げる)を結ぶのに対し、鎌倉大仏は膝上で両手を組む定印(じょういん)を結んでおり、真言ないし天台系の信仰に基づく阿弥陀像であることがわかります。

背中

鎌倉大仏の原型の作者は不明です。

鋳造には河内の鋳物師・丹治久友がかかわっていることが、以下の史料から判明しています。

丹治久友は、1264(文永元)年に鋳造した大和吉野山蔵王堂の鐘銘(鐘自体は現存せず)において「新大仏鋳物師丹治久友」と名乗っており、同年鋳造の東大寺真言院鐘の銘にも「鋳物師新大仏寺大工」とあります。

鋳造は体部が7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けて行われていることが、大仏の内外に残る痕跡からわかります。

材質は通常「銅造」とされていますが、正確には青銅(銅、錫、鉛等の合金)です。

1959(昭和34)年から1961(昭和36)年にかけて行われた修理・耐震補強工事の際、頭部内面から試料を採取して、電子線マイクロアナライザーによる材質調査が行われ、大仏の金属組成は銅が少なく、鉛の含有量が多いことが判明しました。

採取部位によって差異がありますが、平均含有比率は銅68.7%、鉛19.6%、錫9.3%となっています。

この成分比率から、鎌倉大仏の鋳造に際しては宋から輸入された中国銭が使用されたと推定されています。

なお、大仏の重量(121トン)は、上述の1959(昭和34)年から1961(昭和36)年にかけての耐震補強工事における基礎データ収集の一環として、ジャッキ23台で大仏を55センチ持ち上げ、その下に秤を入れて実際に2度計量された数値の平均です。

鉛の比率が高いことから、像表面に鍍金(金メッキ)を行うことは困難であったと推定され、造像当初は表面に金箔を貼っていたとされており、現在でも右頬に金箔の跡が確認できます。

 

像内は空洞で、人が入ることができ、一般拝観者も大仏内部を見学することができます。

ただし、一度に30人以上は入場できません。

内部1

内部2

上述したように、鎌倉大仏は、かつては巨大な大仏殿に覆われていました。

しかし、その大仏殿は大風や地震による津波で倒壊し、現在その姿を見ることはできません。

それでも、露座となった大仏の周囲には、大仏殿の「礎石」が今も残されています。

青空の下の大仏を拝むだけでなく、その周囲の大仏殿の礎石にも目を向けると、高徳院をよりいっそう楽しむことができるでしょう。

高徳院の大仏を囲む回廊の内壁には、巨大な「わらぞうり」が飾られています。

わらぞうり

わらぞうりは長さ約1.8メートル、幅約0.9メートル、重さ約45キロと、まさに大仏サイズです。

「大仏様に日本中を行脚していただき、人々を幸せにしてほしい」という思いを込めて、戦後間もない1951(昭和26)年に、常陸太田市の子ども会によって奉納されたのが始まりです。

1956(昭和31)年以降、3年に1回作り替えられています。

 

また、同じ境内には15世紀に朝鮮王宮内に建てられたとされる「観月堂」があります。

世界的に貴重な建物で、1924(大正13)年に高徳院境内に移築されました。

内部には、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠公が所有していたと伝わる、「聖観音像」が安置されています。

観月堂のすぐ側には、「与謝野晶子歌碑」も置かれており、こちらも必見です。

観月堂

鎌倉近辺へお越しの際は、一度立ち寄ってみるのも良いでしょう。

 

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