武雄温泉楼門

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佐賀県武雄市には、「武雄温泉」という古くから続く温泉があります。
開湯は約1200年前であるとされています。
平安時代初期ごろでしょうか。

伝説によると、神功皇后が凱旋の途、太刀の柄(つか)で岩を一突きしたところ、たちどころに湯が湧き出たといわれており、よって昔は柄崎温泉と呼ばれていました。
蓬莱山の麓に湧くことから、蓬莱泉とも呼ばれていたといいます。
また、嬉野と同じく、この武雄も肥前国風土記にその名が登場します。

蓬莱山

嬉野

そんな「武雄温泉」の象徴ともいうべき建築物が『武雄温泉楼門』です。

武雄温泉楼門

「武雄温泉」は戦国時代、肥前佐賀を中心に勢力を有した豪族である龍造寺氏が西肥前へ進攻する際、龍造寺長信が利用に関与していたことが知られています。

竜造寺長信

龍造寺長信は、1538(天文7)年、龍造寺周家の三男として誕生しました。

1558(永禄元)年、龍造寺氏が調略により小田政光を滅ぼした際に、小田氏の居城であった蓮池城を接収しましたが、後に政光の遺児・鎮光を赦免し城主としました。
龍造寺氏は1559(永禄2)年に少弐冬尚を滅ぼし、少弐氏を滅亡に追い込みましたが、冬尚の弟・政興は再興を目指し反乱を起こします。
1563(永禄6)年には、龍造寺氏は政興に協調した多久宗利を下し、多久氏(前多久氏)の居城であった梶峰城を奪い、長信が城主となりました。
どのあたりの年代かというと、1560(永禄3)年に桶狭間で織田信長が今川義元を討っているので、ちょうどそのころです。

桶狭間の戦い

1568(永禄11)年、長信は梶峰城を小田鎮光に譲り、小田氏の居城であった蓮池城を自らの居城としました。
小田氏との友好を深めるため鎮光の妹を娶っていましたが、豊後国大友氏の圧力が強まると鎮光は大友氏に寝返ったため、梶峰城を追放され、再び長信が城主となりました。

肥前(武雄)後藤氏の後藤貴明が梶峰城を攻め取ろうとしましたが、長信はこれを退けます。
大江神大神宮の再興、聖光寺や岩松軒寺の建立など、伝統的な宗教勢力との関係を良好にし、統治の安定を図りました。
また、近年に梶峰城跡で発掘された遺構は、長信が城主の時代のものと推測されています。

龍造寺領国においては、長信が軍事物資の調達に関わる任務に当たっていて、特に軍事活動の中で木材調達に関わっていました。
この背景には、長信の本拠地の多久が材木供給地と近接しており、材木の調達や普請に関わる職人集団を長信が有していたことがあり、龍造寺周家の長男である隆信は肥前西部を進行する上で長信を用いました。
これにより龍造寺氏は軍事活動において、城郭などの普請を盛んに行うことができ、肥前国内における勢力基盤をある程度構築することに成功しています。

このころに、龍造寺氏が西肥前へ進攻する際、長信は「武雄温泉」の利用に関与し、かつ境目の防備に従事していたそうです。

さらには、豊臣秀吉が朝鮮出兵する際に、負傷兵士の湯治場として利用したともいわれています。
朝鮮へは佐賀や長崎のあたりから出兵していたので、ちょうど良い場所にあったのでしょう。

豊臣秀吉

朝鮮出兵

「武雄温泉」は、江戸時代には街道の宿場町としても栄え、幕末には長崎を往来した勤皇志士や文人らが盛んにこの湯を訪れたそうです。
著名な人物を挙げると、佐賀藩城主の鍋島氏、江戸時代初期には伊達政宗、宮本武蔵が、また幕末にはシーボルト、吉田松陰らが入湯したといわれます。

このように、「武雄温泉」は様々な歴史上の有名人が利用した温泉であるといえます。

宮本武蔵

伊達政宗

シーボルト

吉田松陰

戦後は、嬉野温泉と共に歓楽温泉としての道を進んだこともありましたが、今日ではその傾向は薄いといえます。
その落ち着いた静かな佇まいから、お忍びで訪れる芸能人などの著名人も多いそうです。
最近は観光地としての開発が盛んで、様々な観光施設やモニュメントが設けられています。

「武雄温泉」の共同浴場は3軒存在します。
・元湯
・蓬莱湯
・鷺乃湯

また、江戸時代の佐賀藩主である鍋島氏専用の浴場であった施設が存在し、現在では貸切風呂として入浴できます。
・殿様湯
・家老湯
の2つです。
ちなみに、貸切風呂は他にも柄崎亭が存在します。

旅館は17軒あります。
温泉街では春と夏に祭があり、周辺には窯元も多く、毎月陶器市が開催されます。

佐賀県は陶磁器でとても有名です。
というよりも、日本の陶磁器発祥の地は佐賀県です。

佐賀県は九州の北西部に位置し、北はリアス式海岸と砂浜の玄海灘、南は干潟と干拓地の有明海に接しています。
大阪までは約500㎞の距離があるのに対し、朝鮮半島までは約200㎞しか離れておらず、大陸文化の入り口としての役割を果たしてきました。

弥生時代の環壕集落である吉野ヶ里遺跡や、佐賀を代表する陶磁器「唐津焼」・「有田焼(伊万里焼)」など、大陸の影響を大きく受けています。
こういったことから、武雄温泉の周辺にも窯元が多く存在し、毎月陶器市が開かれているということです。

唐津焼

有田焼

明治以降、観光温泉街として発展した武雄温泉の拠点として、『武雄温泉楼門』の建設が計画されました。
設計者は辰野金吾で、1914(大正3)年11月20日に上棟、翌1915(大正4)年4月12日に落成しています。
今から100年以上前です。

辰野金吾

辰野金吾は、日本の建築家、工学博士で、位階勲等は従三位勲三等です。
工部大学校(現・東京大学工学部)卒業、帝国大学工科大学学長、建築学会会長でもありました。
辰野の建物の設計の頑丈さから「辰野堅固」とも呼ばれていました。
帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太、長野宇平治、矢橋賢吉、武田五一、中條精一郎、塚本靖、野口孫市、大沢三之助、関野貞、岡田時太郎らの人材を輩出しました。

帝国大学総長渡辺洪基の意向を受け、工手学校(現・工学院大学)の創立(1887(明治20)年)を推進し、運営にも尽力しました。
また、大隈重信の要請を受け、早稲田大学建築学科創設(1912(明治45)年創設顧問に就任)にも尽力しています。
東大仏文科で小林秀雄、三好達治らを育てた仏文学者の辰野隆は辰野金吾の息子で、薬学者の辰野高司は孫にあたります。

さて、辰野金吾は旧中央停車場、つまり、東京駅丸の内駅舎の設計もしています。

東京駅


東京駅には様々な隠し要素があるのですが、そのうちの1つに、八種しか描かれていない干支の天井画があります。
八種は、「丑(うし)、寅(とら)、辰(たつ)、巳(へび)、未(ひつじ)、申(さる)、戌(いぬ)、猪(いのしし)」の八種です。
規則的に、干支を1つ飛ばして2つ描き、また1つ飛ばして2つ描かれているようなのです。

東京駅干支の彫絵

東京駅は2012(平成24)年に復元工事が行われましたが、復興してみたら干支がそのように描かれていたのです。
この飛ばし飛ばしの干支に関して様々な憶測が飛び交いましたが、それから1年後の2013(平成25)年、唐突に東京とは全く別の場所で謎が解明されました。

この年に何が行われたのかというと、今回紹介している、『武雄温泉楼門』の保存修理工事が着工されました。

そこで2階天井部から、4つの干支の彫絵が発見されたのです。
東京駅では飛ばされていた4つの干支である「子(ねずみ)、卯(うさぎ)、午(うま)、酉(とり)」です。

武雄温泉楼門干支の彫絵

東京駅が落成したのは1914年。
武雄温泉楼門が落成したのも1914年。
どちらも設計者は辰野金吾です。

東京駅のドーム天井にある8つの干支の彫絵と武雄温泉楼門のものを合わせると、12支が揃うようになっています。

なんてことはない、辰野金吾の遊び心だったわけです。

そんな遊び心が、まさか100年後に大きな謎として1年間様々議論されるとは、本人も思ってもみなかったでしょう。
もしかしたらそれも狙いだったのかもしれませんが。

とはいえ、東京駅とこの楼門は兄弟のようなものだったということです。

『武雄温泉楼門』の建物についても触れておきましょう。
両側面翼屋付で、本瓦葺のいわゆる竜宮門とよばれる形式の門に、桟瓦葺の翼屋を張り出しています。
伝統的な和風意匠を基調としながら、細部の意匠や架構等に、当時としては新しい試みが見られています。

外観

なんと、釘を一本も使用していないのです。

また、当時の建築界をリードしていた辰野金吾が関与した数少ない和風建築でもあります。
当時は洋風建築が盛んになっていたころで、どの建築家も洋風建築を設計していました。

保存修理工事が行われた理由は、2005(平成17)年にこの楼門が国の重要文化財に指定されたためです。

従前の塗装をかき落とし、再度塗装したり、袴腰を塗り替えるためモルタル・しっくいを全て落として再度塗り直し、雨やシロアリ被害を受けている木材の入れ替えなど、かなり多くの作業を行っています。
耐震補強工事などもされています。

『武雄温泉楼門』の門をくぐると、朱塗りの柱に格天井があります。
木造2階建ての楼門に、北翼屋(土産屋)と南翼屋(食堂)を増築されています。

格天井

干支の絵を見るための楼門干支見学会は朝9時半までの受付なので、宿泊してからのほうが良さそうです。
楼門をくぐった先の新館も、辰野金吾の設計です。

佐賀県方面に行く際には、武雄温泉にふらっと立ち寄ってみるのもいいかもしれませんね。
東京駅では見られない4つの干支が見られます。

 

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