デ・ラランデ邸

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かつて、東京都新宿区信濃町に、とある西洋式住宅がありました。

スレート葺きのマンサード屋根(腰折れ屋根)と下見板張りの外壁が特徴のこの住宅の名称は「デ・ラランデ邸」です。

2013(平成25)年、江戸東京たてもの園に移築復元され、公開されています。

元は明治時代の気象学者・物理学者の北尾次郎が自邸として設計したと伝わる建物で、その際は木造平屋建て・瓦葺き・寄棟屋根・下見板張りの洋館でした。

北尾次郎

そして北尾の逝去後、1910(明治43)年頃にドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデの住居となります。

デ・ラランデによって木造3階建てに大規模増築され、北尾次郎居住時の1階部分も大改造されたと見られています。

そのため、この住宅はデ・ラランデ邸と呼ばれているのです。

ゲオルグ・デ・ラランデ

1914(大正3)年にデ・ラランデが死去した後、何度か居住者が変わり、1956(昭和31)年からカルピスの発明で有名なカルピス株式会社の創業者三島海雲氏が取得し、住居としました。

三島海雲の死後は、三島食品工業株式会社の事務所として1999(平成11)年まで使用されました。

三島海雲

カルピス

JRの車窓越にもその姿を望むことのできた西洋館として、永く信濃町のランドマークでしたが、同年、移築・復元を前提に東京都に寄贈され、江戸東京たてもの園により解体されました。

その後、江戸東京たてもの園で復元工事が進められ、2013(平成25)年4月20日に一般公開されました。

建物に大規模増築が行われたころ、室内は、残された古い写真を基にデ・ラランデ居住時を想定した復元がなされました。

邸内にはカフェ「武蔵野茶房」が出店しています。

武蔵野茶房

 

この建物は建築史家によって、1910(明治43)年頃にデ・ラランデが自宅兼事務所として建てたと考えられてきました。

しかし、建物を解体した際の調査によって、当初は平屋建の建物であり、後に2・3階部分が増築されたことが判明しました。

ドイツ在住で、デ・ラランデの足跡を調査してきた広瀬毅彦という人物が、土地所有者だった北尾次郎の子孫宅で発見した明治時代の写真等から、北尾次郎が1892(明治25)年に自ら設計して平屋建ての洋館を建てていたことを確認しました。

また、土地台帳等の調査から、土地は北尾次郎の死後も北尾家が所有していたことが判明しました。

広瀬は、デ・ラランデは借家人だった可能性が強いと推定し、デ・ラランデが増築部分を設計した根拠は見当たらないとしました。

広瀬の発表を受けて、江戸東京たてもの園はホームページに載せていた建物の紹介文を一部訂正しましたが、増築部分はデ・ラランデの設計と推定しています。

『デ・ラランデ邸復元工事報告書』(2014(平成26)年)では、1912(明治45)年当時の「建築画報」がデ・ラランデの設計作品として紹介していることや、解体した部材(2階部分)に「ゲーラランデー」という墨書があったことなどを根拠に挙げています。

 

また、この家は三島由紀夫の長編小説『鏡子の家』のモデルだともいわれています。

三島由紀夫

以下、新潮文庫版『鏡子の家』より引用します。

「車は四谷東信濃町にある鏡子の家へ行くのである」

「鏡子の家は高台の崖に懸かっているので、門から入った正面の庭越しの眺めはひろい。眼下には信濃町駅を出入りする国電の動きがみえ、かなたには高い明治記念館の森と、そのむこうの大宮御所の森とが、重複して空を区切っている。」

「門の正面が、前にも言ったいわば借景の洋風の庭、左に洋館があって、これにつづいて更に左に、洋館が接収されているあいだ一家の住んでいた小さな日本館がある。
車はせまい門前の路には停められないので、門内の洋風の玄関の前にパークされるのである」

「露台に通ずる仏蘭西窓があけてあるので、国電の発車の呼笛の音はよくひびいてきこえた。信濃町駅は一連の灯をともした」

藤森照信は『建築探偵の冒険 東京篇』で、まだ信濃町にあったデ・ラランデ邸(三島邸)を実際に訪れた後で『鏡子の家』を読んでみて、その描写が信濃町の三島邸をそっくり写していると記し、おそらく、「西洋かぶれ」の作者は、電車の窓からこの家を見つけ、散歩がてらに建築探偵し、<三島>という表札が気に入って、モデルにしたんだろうと推測しています。

猪瀬直樹は『ペルソナ 三島由紀夫伝』の中で『鏡子の家』について、三島が出入りしていた屋敷とその女主人が素材にされているとし、小説はサロンの所在が信濃町となっていますが、実際は品川区であると記しています。

鏡子の家

 

このデ・ラランデ邸の元の主である北尾次郎は、出雲国松江藩医の村松寛裕の次男として出生しました。

幼名は録次郎です。

北尾は、幼少の頃から『四書五経』の素読に励み、12歳で『文選』・『史記』・『通鑑』等を通読する俊才でした。

1869(明治2)年、松江藩蘭学者・北尾漸一郎の養嗣子となります。

同年開成学校に入学してフランス語を学び、同校が大学南校に改称されると、英語と究理学(物理学)を学びました。

 

1870(明治3)年、16歳で明治新政府派遣のドイツ留学生に選ばれましたが、これは同政府が医学修行のため抜擢した14名のうちの最年少でした。

ドイツ到着後、2年間はギムナジウムで主にドイツ語を学び、1873(明治6)年にベルリン大学に入学し、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ、グスタフ・キルヒホフ、エルンスト・クンマーらの下で物理学と数学を学びました。

同年、政府官費給与制度が廃止となり、以降は養父からの学費や家庭教師などの収入で勉学を続けました。

後にゲッティンゲン大学で学位を得ます。

ベルリン大学では、ヘルムホルツの指導下で色彩感覚を物理学的に扱って光に対する視力を測定するロイコスコープを発明しましたが、発明の優先権の扱いでヘルムホルツと軋轢を生じました。

1878(明治11)年にゲッティンゲン大学に北尾の学位論文として提出して、理学博士号に相当する学位を受けましたが、後にベルリン大学へ戻ってヘルムホルツの下で研究を続けたそうです。

 

1883(明治16)年末に帰国すると、翌1884(明治17)年に文部省御用掛大学理学部勤務となり、同年ドイツ滞在中に婚約したベルリン生まれのドイツ人・ルイゼ(日本戸籍名は留枝子)と結婚しました。

1885(明治18)年、北尾は東京大学教授となります

力学や音響学の講義を行い、その頃は理学部が数学・天文・物理に分かれる直前で、北尾は物理学者であると同時に数学者であるとも見なされていました。

その後、東京農林学校教授兼帝国大学理科大学教授となります。

 

北尾の従兄弟である桑原羊次郎によると、東京大学理科系の総帥・菊池大麓がイギリス留学経験者で、教授陣にもイギリス派が多かったため、北尾のようなドイツ系は傍系扱いをされていました。

あるとき数学の講義で北尾が菊池の板書した数式をより簡明に書き直したところ、学生の間で菊池より北尾の方が偉いという風潮になり、これを知ったイギリス派教授陣の排斥によって、北尾は理科大学を去り東京農林学校教授へ転出することになりました。

1888(明治21)年に海軍大学校教授を兼任し、1890(明治23)年に帝国大学農科大学教授となり、1892(明治25)年より農林物理学気象学講座を担当します。

同年、東京帝国大学評議員に任ぜられ、高等官二等、正五位に叙せられました。

その後、高等官一等に昇り、従四位勲四等に叙せられました。

1902(明治35)年にヨーロッパに派遣された後、1906(明治39)年より病気休職していましたが、翌1907(明治40)年に、脳脊髄神経麻痺のため54歳で死去します。

 

北尾は、ドイツより帰国後、力学・電気学・気象学・農林業物理学などの多方面で研究を発表しています。

特に1887(明治20)年・1889(明治22)年・1895(明治28)年にわたり『東京帝国大学理科大学紀要』にドイツ語で発表された「大気運動と颶風に関する理論」は、ベノー・グーテンベルグの『地球物理学提要』などにも引用され、その学説は後にベルンハルト・ハウルヴィッツによって追跡祖述されています。

その他、アメリカの気象学者クリーブランド・アッベも、1890年の『気象力学の最近の進歩』で北尾の理論を高く評価し、1901(明治34)年の『長期予報の物理的基盤』では、ウィリアム・フェレル以降北尾に至る一連の大循環理論が、当時の日毎の天気予報を時間的に延長する有力な基盤になると述べました。

颶風(ぐふう)とは台風やハリケーンのような熱帯性低気圧に伴う強風を指す古い言葉のことです。

 

次に、ゲオルグ・デ・ラランデは、ドイツ出身の建築家です。

日本で設計事務所を開き、神戸北野異人館街にある旧トーマス邸(風見鶏の家)をはじめとする作品を残しました。

日本にユーゲント・シュティールと呼ばれる建築様式をもたらしたともいわれています。

風見鶏の館

デ・ラランデは、1872(明治5)年9月6日、ドイツ帝国を構成するプロイセン王国ヒルシュベルク(現:ポーランド領イェレニャ・グラ)で、建設工事業を営むオイゲン・デ・ラランデの長男として生まれます。

ユダヤ系とされています。

父親は高等教育を受けてはいなかったものの、建設業で成功した中産階級で、家庭は裕福でした。

1894(明治27)年、シャルロッテンブルク工科大学(後のベルリン工科大学)を卒業し、ブレスラウ(現:ポーランド領ヴロツワフ)、グローガウ(現:ポーランド領グウォグフ)、ウイーン、ベルリンで働いたのち、1901(明治34)年から2年間上海、天津で仕事をしました。

元同僚のドイツ人建築家リヒャルト・ゼールの招きで1903(明治36)年に横浜へ渡り、同年にゼールがドイツへ帰国したため、建築設計事務所をそのまま引き継ぎました。

その後は、横浜だけでなく、東京、京都、大阪、神戸、朝鮮など日本領内の各地を巡り仕事をしました。

ドイツ世紀末の様式であるユーゲント・シュティールの高田商会などでも知られています。

 

デ・ラランデは神戸で17歳のユダヤ系ドイツ人女性エディと出会い、翌1905(明治38)年に結婚します。

1913(大正2)年、母国プロイセンより、ロイヤル・アーキテクトの名誉称号を贈られました。

朝鮮総督府の仕事のため出張していた京城(現:ソウル)で、肺炎を患い、内地に戻って1914(大正3)年8月5日に東京で亡くなりました。
当時のドイツ語週刊新聞に掲載された死亡広告によれば、死因は肺炎です。

なお、死因については、第一次世界大戦が勃発したことで租借地防衛のため青島へ渡るかどうか悩み、酒に溺れたため、あるいは「(日独)両国の対立に悩み、心労が重なって、心臓にショックを起こした」ためともいわれています。

ラランドの子孫によると、アルコールの問題と鬱病を抱えていたといいます。

 

妻エディータは、デ・ラランデの死後5人(一男四女)の子どもを連れてドイツに帰国しましたが、後に外交官・東郷茂徳(後の外務大臣)と再婚しました。

子供たちはドイツに残り、4人の娘たちは末っ子を除いてそれぞれ結婚し、次女のユキは心理学者のKurt Gottschaldtの妻となりました。

生まれつき精神障害があった長男は、父親のように日本で建築家として働く夢を持っていましたが、叶わず大工になりました。

1930年代には精神病により入院し、1943(昭和18)年に若くして亡くなりましたが、その死はナチが行なった精神病者らの安楽死政策によるものではないかといわれています

 

デ・ラランデは来日後、1909(明治42)年にデ・ラランデ邸を自宅兼事務所とし、1914(大正3)年に急逝するまで活動の拠点としていました。

調査により、本建物は理学博士・北尾次郎氏が建築した木造平屋建ての洋館を前身建物とし、これを基に木造3階建てへの改築をデ・ラランデが設計したものと考えられます。

外観1

北尾次郎が自邸として設計したと伝えられる1階部分は、木造平屋建て・瓦葺き・寄棟屋根・下見板張りの洋館でした。

デ・ラランデ邸となった時の大規模な増築により、木造3階建てでスレート葺きのマンサード屋根(腰折れ屋根)と下見板張りの外壁が特徴の、今のような姿になりました。

江戸東京たてもの園に移築した際の復原時期は、デ・ラランデが居住し、建物の特徴が最も現われている明治末期から大正時代初期の頃としました。

赤色に塗られたスレート葺きの腰折れ屋根と、白色に塗られた下見板張りの外壁が特徴的で、ベイウィンドウ、バルコニー、窓先棚などが外観意匠にアクセントを与えています。

バルコニー

屋根はフランス瓦葺き。

外壁は1階を下見板張り(油性ペンキ塗装・白)、2階の白色部分は漆喰ですが、外壁補修で亜鉛鉄板に油性ペンキ塗装を施したものを表面に取り付けています。

赤い部分はスレートの鱗張りに塗装を施したものです。

外観2

外観3

また、バリアフリーへの対応や、活用のために復原棟の北側にトイレ・厨房機能を設けた厨房棟(RC造平屋建て)と昇降設備を設けたEV棟(カーテンウォール鉄骨造3階建て)を新設しました。

これら別棟は、復原棟と差別化できるようなデザイン・材料を採用しました。

外観4

旧玄関の外観はテラス状になっています。

旧外観

室内は、残された古写真を基にデ・ラランデが住んでいた大正初期ころを想定して復元しています。

旧玄関ホールでは石膏製のアモール像が天井の照明飾りとなっていて、アール・ヌーヴォー風の扉の装飾も見事です。

壁と天井の見切り部分の蛇腹も石膏製です。

内観1

照明飾り

玄関ホールの奥の旧食堂と、玄関ホールを入って右側の元々居間だった部屋は、現在はカフェ「武蔵野茶房」として使用されています。

居間は東西2室で構成され、梁型天井やレンガ製マントルピースなど、豪華な作りが見られます。

旧食堂内部は、解体前は事務室として使用していたため、蛍光灯が取り付けられていました。

彫刻格天井は石膏製で、小壁には石膏レリーフが埋め込まれています。

カフェでは、カレーライスやハヤシライスにコーヒーや紅茶、各種デザート、そしてミルクカルピスが楽しめます。

天気のよい日にはテラス席でいただくこともできるようです。

内観2

内観3

元々は日本人の住宅だったものの、その後ドイツ人住宅となり、カルピスで有名な三島氏も本社として利用したこの邸宅。

一度見てみるのはいかがでしょうか?

 

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