俳聖殿

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三重県伊賀市。

伊賀忍者屋敷などでも知られるこの地の伊賀上野城敷地内に、笠をかぶった木造建築があります。

忍者屋敷

この建物の名称は「俳聖殿」。

「俳聖」とは、伊賀市が生んだ江戸時代の俳人・松尾芭蕉のことです。

そしてこの建物の外観は、松尾芭蕉の旅姿を模したものとされています。

つまり「俳聖殿」は芭蕉の業績を讃えるために建立された建築なのです。

松尾芭蕉

松尾芭蕉は、江戸時代前期の俳諧師です。

伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身で、幼名は金作といいます。

通称は甚七郎、甚四郎といい、名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)となりました。

俳号としては、初めに宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めました。

芭蕉は、和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人です。

但し、芭蕉自身は発句(俳句)よりも俳諧(連句)を好みました。

1689年5月16日(元禄2年3月27日)に、弟子の河合曾良を伴って江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』が特に有名です。

おくのほそ道

芭蕉に関しては、詳しい出生の月日が伝わっておらず、出生地についても、阿拝郡のうち上野城下の赤坂町(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、上柘植村(現在の伊賀市柘植町)説の2説があります。

これは、芭蕉の出生前後に松尾家が上柘植村から上野城下の赤坂町へ移っており、転居と芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからです。

松尾家は平氏の末流を名乗る一族でしたが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたものの、身分は武士ではなく農民でした。

兄弟は、兄・命清の他に姉1人と妹3人がいました。

1656(明暦2)年、13歳の時に父が死去し、兄の半左衛門が家督を継ぎましたが、その生活は苦しかったと考えられています。

そのためか、異説も多いですが、1662(寛文2)年に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、その厨房役か料理人を務めていたようです。

2歳年上の良忠とともに、京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り、同年の年末に詠んだ句が以下です。

春や来し年や行けん小晦日 (はるやこし としやゆきけん こつごもり)

北村季吟

作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春の日に詠んだといわれています。

1664(寛文4)年には、松江重頼撰『佐夜中山集』に貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集しました。

1666(寛文6)年には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられました。

この百韻は発句こそ蝉吟ですが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられています。

しかし同年、良忠が亡くなります。

宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって菩提を弔い、仕官を退きました。

後の動向にはよく分からない部分もありますが、1667(寛文7)年刊の『続山井』(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行くことがあっても、上野に止まっていたと考えられています。

その後、萩野安静撰『如意宝珠』(1669(寛永9)年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(1670(寛永10)年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(1671(寛永11)年)に1句が、それぞれ入集しました。

1672(寛文12)年、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ』を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納しました。

これは30番の発句合で、談林派の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄や六方詞など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となりました。

また1674(延宝2)年、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われました。

そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かいました。

 

江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主・内藤義概のサロンにも出入りするようになりました。

同年5月には江戸へ下った西山宗因を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いました。

ここで触れた宗因の談林派俳諧に、桃青は大きな影響をうけました。

1677(延宝5)年、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わったことが知られています。

卜尺の紹介によるものと思われますが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事でした。

これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していたことや、当局から無職だと眼をつけられることを嫌ったものと考えられます。

この期間、桃青は現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されています。

この年もしくは翌年の1678(延宝6)年に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となりました。

ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧が行なわれた確かな証拠はありません。

例えば『玉手箱』(神田蝶々子編、1679(延宝7)年9月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、『富士石』(調和編、同年4月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、万句俳諧は何らかの形で行われたと考えられます。

『桃青伝』(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていたことを示す文も残っています。

関口芭蕉庵1

関口芭蕉庵2

関口芭蕉庵3

宗匠となった桃青は、江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表しました。

京の信徳が江戸に来た際に山口素堂らと会し、『桃青三百韻』が刊行されました。

この時期には談林派の影響が強く現れていました。

また批評を依頼されることもあり、『俳諧関相撲』(未達編、1683(天和2)年刊)の評価を依頼された、18人の傑出した俳人の1人に選ばれました。

ただし、桃青の評は散逸し伝わっていません。

 

深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがあります。

また、『むさしぶり』(望月千春編、1683(天和3)年刊)に収められた、

侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥 (わびてすめ つきわびさいが ならちゃうた)

は、侘びへの共感が詠まれています。

この『むさしぶり』では、新たな号「芭蕉」が初めて使われました。

『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、漢詩調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれます。

その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもありました。

芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられます。

芭蕉といえば笠というのはこのあたりの事柄から見えてきます。

 

1684(貞享元)年8月、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出ます。

東海道を西へ向かい、伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張・甲斐を廻りました。

再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻ったのは1685(貞享2)年4月になりました。

これは元々美濃国大垣の木因に招かれて出発したものですが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かいました。

この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行しています。

紀行の名は、出発の際に詠まれた、

野ざらしを心に風のしむ身哉

に由来します。

これ程悲壮ともいえる覚悟で臨んだ旅でしたが、後半には穏やかな心情になり、これは句に反映しています。

前半では漢詩文調のものが多いのですが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化します。

途中の名古屋で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ、『冬の日』として刊行されました。

これは「芭蕉七部集」の第一とされています。

この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠みました。

そのため、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれます。

野ざらし紀行から戻った芭蕉は、1686(貞享3)年の春に、芭蕉庵で催した蛙の発句会で有名な、

古池や蛙飛びこむ水の音 (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと) 『蛙合』

を詠みました。

和歌や連歌の世界では「鳴く」ところに注意が及ぶ蛙の「飛ぶ」点に着目し、それを「動き」ではなく「静寂」を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となりました。

 

芭蕉は西行500回忌に当たる1689(元禄2)年の3月27日、弟子の曾良を伴い、『おくのほそ道』の旅に出ました。

下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれました。

夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと):岩手県平泉町

閑さや岩にしみ入る蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県・立石寺

五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町

荒海や佐渡によこたふ天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ):新潟県出雲崎町

この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得しました。

特に金沢で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となりました。

また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感することから「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物としました。

芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600里(約2,400キロメートル)の旅を終えました。

その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し、参拝を済ませると伊賀上野へ向かいました。

12月には京都に入り、年末は近江義仲寺の無名庵で過ごしました。

1692(元禄5)年5月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住みました。

しかし1693(元禄6)年夏には暑さで体調を崩し、盆を過ぎたあたりから約1ヶ月の間、庵に篭りました。

同年冬には三井越後屋の手代である志太野坡、小泉孤屋、池田利牛らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集しました。

これは1694(元禄7)年6月に刊行されましたが、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた『おくのほそ道』を仕上げて清書へ廻しました。

完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵しました。

同年5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かいました。

途中大井川の増水で島田に足止めを食らいましたが、5月28日には到着しました。

その後、湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻りました。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

この句が、事実上最後の俳諧となりますが、病の床で芭蕉は推敲し、「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案しました。

そしてその後まもなく、芭蕉は息を引き取りました。

遺骸は去来、其角、正秀ら門人が舟に乗せて淀川を上り、近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれました。

深夜、遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られました。

焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たといいます。

其角の「芭蕉翁終焉期」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままです。

なお、墓石の「芭蕉翁」の字は、丈艸(じょうそう)の筆といわれています。

義仲寺

 

この松尾芭蕉の生誕から300年経て、その偉業を称えるために建てられたのが今回ご紹介する「俳聖殿」です。

こちらは、1942(昭和17年)に、建築家・伊東忠太の設計で建設された建物です。

建築の原案を出したのは、地元出身の政治家・川崎克です。

外観は、川崎克の着想を元に伊東忠太が仕上げたものであり、松尾芭蕉の旅姿を模したものとされています。

伊東忠太

川崎克

川崎は伊賀上野城の天守再建にも携わるなど、故郷のために力を尽くした人物です。

伊賀市のシンボルを造った人物といえるでしょう。

俳聖殿の外観は、松尾芭蕉の旅姿を模したものとされ、上層の屋根が笠、下部が顔、下層のひさしは蓑と衣姿、堂は脚部、回廊の柱は杖と脚を表しています。

下層八角形平面、上層円形平面の木造建築であり、屋根は桧皮葺です。

内部には、芭蕉祭当日に表彰される顕詠俳句特選句が飾られています。

外観1

外観2

芭蕉の命日である10月12日には、伊賀市により芭蕉祭が行われ、安置されている大伊賀焼の等身大の『芭蕉坐像』(川崎克の作)が公開されるほか、俳句の優秀作品等が表彰されます。

2008(平成20)年3月19日に三重県の有形文化財(建造物)に指定され、2010(平成22)年には国の重要文化財に指定されました。

実際見てみると、かなり奇妙奇天烈なデザインの奇想建築です。

緩やかな曲線を描いた独特の形の屋根が特徴で、すぐ近くにある忍者屋敷を訪れた人々も“ぎょっ”としてしまうでしょう。

伊東忠太はイラストや漫画を描くことを好んだ方で、見事な“擬建築化”のデザインだといえます。

堂内には伊賀焼で製作された芭蕉の像が安置されています。

芭蕉像

内観1

内観2

竣工した1942(昭和17)年は、芭蕉の生誕300年に当たる年でした。

とはいえ、時代は第二次世界大戦真っ只中です。

物資が困窮しているような状況であったはずですが、質の高い仕事がなされています。

先人を偲ぶ伊賀の人々の情熱の結晶といえるでしょう。

堂内には、伊賀焼で仕上げられた等身大芭蕉座像が安置されています。

形が形なだけに寺院の多宝塔と比較してしまいがちですが、黄土色の壁という茶室らしい色合いや、装飾を排したモダニズムな意匠が実に見事です。

柱や梁、垂木に丸材が使われるのもポイントで、素材にも軟かい感じがでているのが面白いです。

多宝塔という伝統的で神聖なイメージと、茶室のような穏やかな意匠がミックスした意欲的な木造建築といえます。

伊賀市内には「俳聖殿」を象った電話ボックスもあります。

俳聖殿電話ボックス

 

俳聖殿は寺院の多宝塔のような木造建築ですが、相輪はなく、美しい反りと湾曲が連続した桧皮葺の屋根が、建物の印象をとても気さくでユニークなものにしています。

周辺からは凛とした佇まいを見せながらも、建物としてはとても可愛らしい、そんな面白い二面性をもった建物です。

三重県を訪れた際は、忍者屋敷などもいいですが、松尾芭蕉のために建てられた俳聖殿を訪れてみるのもいいかもしれません。

芭蕉像は命日の10月12日に公開されているので、その日を狙っていくのもいいでしょう。

 

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