光の教会
大阪府茨木市。
ここに、「光の教会」と呼ばれる、キリスト教プロテスタント系の教会があります。
教会といえば、十字架やマリア像といった彫像などが飾られることが多いのですが、この教会では”太陽の光”が十字架として利用されています。
建築家・安藤忠雄が設計を手がけたこの「光の教会」は、安藤の強いこだわりが詰まっています。
2017(平成29)年には国立新美術館にて安藤忠雄展が開催され、原寸大の光の教会が再現されるほど、思いの強いものとなっています。
安藤忠雄
国立新美術館 光の教会
安藤忠雄といえば、表参道ヒルズや渋谷駅、上野毛駅などを手がけ、プリツカー賞を受賞するなど、世界で活躍する建築家です。
表参道ヒルズ
上野毛駅
安藤忠雄は1941(昭和16)年9月13日に大阪府大阪市港区の貿易商の家に双子の兄として生まれました。
三人兄弟で、弟が2人います。
双子の弟は北山創造研究所(都市コンサルタント業/商品デザイン業)を主宰する北山孝雄です。
また下の弟も建築家で、ピーター・アイゼンマンとのコラボレーションで名を馳せた北山孝二郎です。
北山孝雄
北山孝二郎
安藤だけが名字が異なるのは、一人娘だった母親の実家・安藤家を継ぐために、生前からの約束に従って祖父母の安藤彦一・キクエの養子となったためです。
母方の祖父母の家に養子として預けられ、幼少期を大阪市旭区にある間口2間、奥行き8間の長屋で育ちました。
大阪府立城東工業高等学校在学中の17歳の時に、プロボクサーのライセンスを取得しています。
その理由は、月給1万円の時代に4回戦のファイトマネーが4千円という報酬に魅せられたためでした。
フェザー級でデビューし、リングネームは「グレート安藤」で、10試合ほど行い6回戦まで進みました。
しかし、所属ジムに来ていた元WBA世界フライ級王者ファイティング原田の練習を見て、身体能力の桁が違うとその才能に圧倒され、1年半ほどでボクシングからは引退しました。
グレート安藤
もともと安藤は、中学生の頃に自宅の建て替えを担当した大工や、中学時代の数学教師からの影響で、建築に興味を持っていました。
このため卒業後、前衛美術を志向する具体美術協会に興味を持つようになります。
経済上の理由で大学には通えなかったため、建築学の専門教育は受けていませんでした。
しかし、毎日15時間以上独学し、建築科の学生が通常4年かけて学ぶ内容を1年で習得して、建築士試験に一発で合格しました。
また、神戸六甲アイランドやポートアイランドの都市計画に携わった水谷頴介の建築設計事務所でアルバイトもしていました。
1965(昭和40)年、24歳の安藤は、木工家具の製作で得た資金を手に、欧米やアフリカ、アジアへ7ヶ月間の放浪の旅に出ました。
ヨーロッパでは、まずパルテノン神殿から始まり、ローマのパンテオンなど、さまざまな名建築を見て回りました。
パンテオン
ヨーロッパからの帰路、南仏マルセイユで数週間待たされた後、帰国の船に乗り、アフリカの象牙海岸、ケープタウン、マダガスカルに立ち寄り、インドのボンベイ(現・ムンバイ)で下船しました。
安藤は“何かに導かれるように”汽車に乗り、ベナレス(ヒンドゥー教の聖地、現・ヴァーラーナシー)に向かいました。
強烈な太陽の下、異様な臭気に包まれた果てしなく続く大地。
牛が泳ぎ、死者が火葬に付される傍らで多くの人々が沐浴するガンジス川。
生と死が渾然一体となり人間の生がむき出しにされた混沌世界に強烈な印象を受け、逃げ出したい気持ちを必死にこらえながら、「生きることはどういうことか」を自問し続けたそうです。
「人生というものは所詮どちらに転んでも大した違いはない。ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいいのだ。闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。その時は、自然に淘汰されるに任せよう」と考え、ゲリラとしての生き方を決心しました。
この放浪中に安藤が撮影した写真は、ルイス・I・カーンの作品集などで使われています。
ルイス・I・カーン
1969(昭和44)年、安藤は生まれ育った大阪で、自身の設計事務所「安藤忠雄建築研究所」を設立します。
当初はそれほど大きな仕事がなく、小さな個人住宅などを多く手がけました。
1976(昭和51)年、実質的なデビュー作となる「住吉の長屋」(大阪市住吉区)が完成します。
三軒長屋の中央を切りぬいてコンクリートの箱を挿入したシンプルな構成でしたが、狭い住空間の中にひとつの宇宙をつくりだそうという試みは、利便性の追求が大前提だった住宅建築の流れに反するもので、当時の建築界を震撼させました。
この「住吉の長屋」が高く評価され、1979(昭和54)年に日本建築学会賞を受賞します。
以降、コンクリート打ち放しと幾何学的なフォルムによる独自の表現を確立し、世界的な評価を得ます。
また、1977(昭和52)年のローズガーデン(兵庫県神戸市生田区)など、初期の作品のいくつかは、弟の孝雄の所属していた、セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める浜野商品研究所(1992(平成4)年に浜野総合研究所と改名)と共に実現しました。
ローズガーデン
1980年代には、商業施設や仏教寺院、キリスト教会などの中小規模の建築の設計が多かったようですが、1990年代以降は、公共建築、美術館建築、海外の仕事も増えています。
手掛ける建築にコンクリートを多用する理由について、安藤は2021(令和3)年に、「コンクリートは20世紀を代表する材料で、なおかつ誰にでも手に入る材料だ。私は誰にでも手に入る材料をもって、誰にでもない世界を創りたいと思う」と語っています。
そんな安藤が建築した教会建築で代表的なものは3つあります。
兵庫県神戸市灘区の「風の教会(六甲の教会)」、北海道占冠村の「水の教会」、そして今回ご紹介する「光の教会」です。
いずれも素晴らしい建築なのですが、今回は「光の教会」を紹介します。
「風の教会」と「水の教会」は結婚式などに利用されるチャペルですが、「光の教会」は信者の礼拝などを執り行う純粋な宗教施設です。
風の教会
水の教会
光の教会は、茨木市の閑静な住宅街の中に位置します。
この教会の正式名称は日本基督教団 茨木春日丘教会です。
大阪府茨木市北春日丘にあるプロテスタント系の日本基督教団に所属する教会で、設立は1972(昭和47)年です。
そして、現在の礼拝堂(教会堂)の別名が「光の教会」です。
一般にはこちらの名前で呼ばれることが多いといえます。
竣工は、礼拝堂が1989(昭和64)年、併設の教会ホールが1999(平成11)年です。
設立当初から2012(平成24)年までが軽込昇氏、同年4月から大石健一氏が牧師をされています。
外観
建物は、安藤忠雄の建築によく見られる打放しコンクリートです。
礼拝堂の祭壇の後ろには、光の教会を特徴づける十字架状のスリット窓が壁面いっぱいに設置されており、この「光の十字架」以外に室内に十字架はありません。
スリット窓には元々ガラスを付ける予定がなく、風が入って寒さに耐えつつ身を寄せ合いながら祈ることを意図していましたが、最終的にガラスを嵌めることにしたそうです。
カトリック教会などでは、信者が聖書の世界をイメージするのを助けるために聖画像(聖母子像・天使像など)を装飾として多用します。
しかし、こちらの教会はプロテスタントの教会堂建築らしく、像や絵画はなく簡素な堂内です。
太陽の光自体を十字架にするという発送は前例がなく、国内外で非常に大きく評価されています。
内観1
光の教会の総工費は3500万円。
後に安藤忠雄の代表作となるその建物は、実は一般的な住宅と大差ないコストで実現されたそうです。
建物は、18×6×6メートルのコンクリートの直方体を基本としています。
正面に十字架が切られ、斜めの壁が立てられているだけの、単純明快な形をしています。
しかし、十字架から漏れる光が室内を満たす様子は、実に幻想的です。
十字架を物ではなく光で表すという発明は、教会建築の概念を変えました。
構造
厳しい予算の下、安藤は光の十字架の演出にこだわり抜きました。
建物の形はシンプルですが、ならば工事も簡単かというと、それは大きな間違いです。
壁に切られた十字架の上半分、計10トンに及ぶ壁は、天井から吊り下げなくてはいけません。
そのためにはコンクリートに比べて高額な鉄筋を大量に必要とします。
工事費を下げるため、建設会社は、壁の一部に柱の役割をもたせて鉄筋量を減らすべく、光の十字架の腕を短くする提案をしたといいます。
しかし安藤は譲らず、コストダウンは他の部分で行ったそうです。
この建築の核は光の十字架にあり、十字架は壁の両端部まで切れ込んでいるべきだと考えたからだそうです。
床や椅子は木造ですが、工事用の足場板を流用したそうです。
足場板にオイルステインで黒く塗装しているので「光」を強調するのに役立ち、入ってきた光によって、より荘厳な雰囲気を出しています。
冬場は、防寒のために足元に明るい色の電熱シートが敷かれ、印象が変わります。
なぜ足場板を用いられたかというと、予算削減のためでもありますが、実は、荒々しい素材を使うことによって光をにじませることで、より荘厳さが増すからです。
床
通常、教会堂建築では祭壇が最も高いところにある例が多いですが、光の教会の礼拝堂は音楽ホールや大学の教室のように信者席が階段状になっており、一番下に祭壇があります。
この構成によって、光の十字架への求心性が強調された空間がつくられています。
また、正面の壁いっぱいに設置された十字型の開口部から、朝日が差し込むように建物を配置し、さらに、その光を強調するために、十字型開口以外の開口部を減らし内部への光を絞っています。
こうすることで、光の十字架をより強調しています。
内観2
ちなみに、この礼拝堂への入り方にも工夫がされており、入り口から光が入り込まないよう、入り口は側面にあります。
さらに中で壁で遮られ、少し進むと礼拝堂の一番奥に出て、ようやく光の十字架が見えるようになります。
こういった工夫を凝らすことで、十字架以外のほかの部分から取り入れる光を最低限にし、訪れる人への演出にもなっています。
15度の角度で斜めに室内に貫入する壁は、同時期の安藤忠雄設計の兵庫県立こどもの館や姫路文学館等にも似た特徴が見られます。
入口
なお資金の問題により、当初は屋根を後から作る青空教会の案もありましたが、関係者や施工会社の寄付により、竣工当初から屋根が取り付けられています。
光の十字架はその位置を背面壁から天井に移して、2000(平成12)年に開業した淡路夢舞台にある「ウェスティンホテル淡路」内の「海の教会」にも引き継がれました。
1972(昭和47)年当初に建設された、最初の木造モルタル塗りの一般住宅風の簡素な教会堂は、現在教会ホール(愛称・日曜学校)が建てられている場所にあり、現在の礼拝堂竣工後も「教会学校」等の用途のため保存されていました。
1995(平成7)年に発生した阪神・淡路大震災の影響により、木造の旧教会堂は南側に少し傾き、保存が困難になったため改築されることになりました。
そして1999(平成11)年に、やはり安藤の設計によって、現在の教会ホールが完成しました。
光の教会と一体となるように設計が考慮されていますが、信者席はフラットになっています。
また、こちらも床や椅子は木造ですが、木材の明るい地色がそのまま生かされ、礼拝堂とは全く印象が異なります。
子供向けの「教会学校」などが主に開かれていて、トイレや台所が併設されており、2階もあります。
この建物の1階には、1988(昭和63)年に安藤忠雄建築研究所が製作した、光の教会の建築模型が保存・展示されています。
日曜学校
2005(平成17)年には、礼拝堂の後ろの壁面ほぼいっぱいに、ドイツ、ボッシュ社製のパイプオルガンが設置されました。
従来設置されていたパイプオルガン(辻オルガン製)は移動式の小型のものであり、後ろの壁面はコンクリートの壁がすべて見えていたそうです。
パイプオルガン
さらに、2010(平成22)年には、安藤の設計により牧師館が改築されました。
それまでの牧師館は、最初の教会堂よりもさらに一般住宅然とした木造モルタル塗りの建物でした。
礼拝堂と牧師館
安藤忠雄の代表作ともいえる光の教会ですが、諸事情により、現在は建物の見学はできません。
日曜日の聖日礼拝については、事前に問い合わせを行い、人数調整をした上で受け入れられているそうです。
そういった事情も踏まえて、必ずホームページ等で確認してみてください。