會津壹番館

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福島県会津若松市中町に『會津壹番館』という喫茶店があります。

この喫茶店は、若き日の野口英世が左手の手術を受けた後、書生として住み込みで働いた「会陽医院(かいよういいん)」の建物を改修し、往時の外観を復元した店舗です。

2階には喫茶店と同じ経営者が運営する「野口英世青春館」があります。

野口英世

元々は1884(明治17)年に、第六十国立銀行若松支店として建築されましたが、同支店は5年で閉店しました。

代わって、1891(明治24)年に河沼郡野沢村(現・西会津町)の渡部鼎(わたなべ かなえ)が第六十国立銀行から1,600円で購入し、会陽医院を開院しました。

渡部はアメリカで医学を修めた医師で、福島県全体を見てもまだ西洋医が少なかった時代にあって、会津若松近在で評判になりました。

渡部鼎

1892(明治25)年、左手の手術を受けるために野口清作(後の野口英世)が来院します。

翌1893(明治26)年に高等小学校を卒業した野口は、医師になるべく会陽医院に入門しました。

書生となった野口は、医術開業試験を受験するために上京するまでの3年間を会陽医院で過ごしました。

野口を送り出した後も、会陽医院は書生の受け入れを続け、後輩書生は「俺は第二の野口英世になる!」という決意表明を雨戸に書き残しました。

会陽医院 看板

野口清作は、1876(明治9)年11月9日に、婿養子の父・佐代助と野口家の一人娘だった母・シカの間に長男として生まれました。

1歳5か月だった1878(明治11)4月の末、両親の留守中に囲炉裏へ転落してやけどを負い、左手が不自由になりました。

1892(明治25)年、猪苗代高等小学校(現・猪苗代町立猪苗代小学校)4年生だった野口は、不自由な左手に対する恨みを作文に書き、担任の小林栄や級友らの同情を誘い、彼らの募金で渡部鼎の会陽医院に行って手術を受けることになりました。

猪苗代町立猪苗代小学校

手術は、局所麻酔の上で癒着した指を1本ずつメスで切り離すというもので、無事成功しました。

一般的な伝記では、「この手術によって医学の素晴らしさに触れ、医師を志した」と書かれています。

しかし、実際にはその要素を含みつつも、上級学校に進学する金銭的余裕や入学前の身体検査に合格する見込みがなかったため、働きながら医術開業試験を経て開業医になれる医師を目指すよりほかはなかったとされています。

1893(明治26)年6月、渡部を頼って会陽医院に入門した野口は、玄関番として医師見習いの生活を始めます。

教会の牧師や宣教師、会津中学校(現・福島県立会津高等学校)の教師から英語・ドイツ語・フランス語を学び、寝る間を惜しんで勉強に励みました。

渡部は野口と、野口同様熱心に勉強に励んでいた吉田喜一郎に目をかけ、夜間でも勉学ができるように、他の書生とは別室の、会陽医院2階の20畳の表座敷を2人にあてがいました。

熱心に励んだ野口は、玄関番から薬局生に格上げされ、医師有志による医学講習会に出席しては鋭い質問をし、渡部の顕微鏡で回帰熱を引き起こすスピロヘータを観察しました。

左から野口英世、吉田喜一郎、秋山義次(猪苗代高等小学校の友人)

ちなみに、吉田喜一郎はその後、彼の故郷である喜多方に戻り、吉田医院を開業します。

そしてそのひ孫にあたる吉田満という人物が、喜多方ラーメン「喜一」を開業します。

この店名は曾祖父の喜一郎からとったものです。

 曽祖父「喜一郎」は、医者を目指し会津若松の「会陽医院」に書生として住み込んでおり、同室が後に医聖と呼ばれた野口英世でした。

 優秀さにおいて一目置かれた喜一郎と英世は、大部屋ではなく二人で一室を与えられました。

 寝る間も惜しんで勉学にいそしんだことは、伝説ともなっています。

 やがて二人はそれぞれの道を歩む。内務省医術開業試験に合格後、喜一郎は留学を経て軍医となり、海軍軍医大尉として日露戦争にも出征しました。

 退官後は東京の病院に勤務し、やがて故郷の喜多方に戻り、吉田医院を開業しました。

 こうと決めたら一心に努力を惜しまなかった「喜一郎」にあやかり、店名を「喜一」といたしました。

とのことです。

喜多方ラーメン 喜一

1894(明治27)年、渡部は日清戦争に際して第2師団の野戦病院医官として応召することになり、野口に留守中の医院の用務と家計を任せました。

野口は非協力的な先輩書生に苦しめられながらも留守中の用務をこなし、帰還した渡部に会計明細表を提出しました。

ただし、渡部不在中は休診していたため、野口は試験勉強の時間を取ることができました。

書生時代の野口は、会陽医院の隣にあった福西本店の主人の弟と仲が良く、福西へ遊びに行ったり、新聞を読みに行ったりしていました。

福西本店は、明治時代から大正時代にかけて繁栄した会津若松の大商人福西家が建てた、蔵造りの商家です。

また、1895(明治28)年4月には、日本基督教若松教会で洗礼を受けキリスト教徒になりました。

初恋の人、山内ヨネ子と出会ったのも、この教会でした。

こうして3年間を会津若松で過ごした野口は、医術開業試験を受けるため、1896(明治29)年に東京へ旅立ちました。

上京した時点で、野口は19歳でした。

 

会陽医院は後に移転しますが、建物は街の中心部にあったことから、3代にわたって医院として利用され、ここで開業した医師は富を築いて別の地に医院を建てました。

例えば、1912(明治45)年にこの地で開業した前田眼科は、1917(大正6年)に大町へ移転し、1995(平成7)年に中町へ戻って開業者の孫が医業を続けています。

第二次世界大戦後は、新聞販売店、電器店、オートバイ販売店などとして利用され、それぞれの必要に応じて内外装ともに改造されました。

また、ガソリンスタンドを設置するため、接続していた蔵が切り離され、移動しました。

その後、近くの百貨店の倉庫となりました。

 

1976(昭和51)年、縁あって会津壱番館を訪れた照島敏明は、ここが野口英世がやけどの手術を受けた会陽医院の跡だと知りました。

先に訪れた野口の故郷・猪苗代町では、野口英世記念館を設けて野口の遺品や生家を大切に保存しているのに対し、会津若松市では野口のことは忘却され、旧会陽医院が薄汚れた倉庫になっていたことに衝撃を受け、倉庫の所有者を探し出し、自らに貸してほしいと直談判しました。

照島が東京の出身で、長髪にジーパンという格好をした若者だったこともあり、所有者の説得に半年を要しました。

そして同年に建物の1階に喫茶店「會津壹番館」を開店、さらに1982(昭和57)年に、2階に「野口英世青春館」を開館しました。

照島敏明

隣接していたガソリンスタンドが1982(昭和57)年に撤去されたのを契機として、ファサードを覆い隠していた部分を取り払い、古写真を基に黒漆喰の外観を復元しました。

外観

内部は面積を確保するために間仕切りを除去したり、デコラ(化粧合板)を取り払って天井の梁を見せるようにしたりしました。

内観

これらの改修には10年を費やし、照島自らの私財を投じています。

照島の活動を受けて、当初は「建築基準法の枠内で改修すればいい」、「再生・活用しても得をするのは所有者だけ」と考えていた周辺の人の意識が変わり、1992(平成4)年には周辺一帯を野口英世青春通りと命名し、野口英世の再評価と、大正ロマン調のまちづくりを進めました。

1995(平成7)年度に美しい会津若松景観賞まもる賞(受賞名称「福西伊兵衛商店と會津壹番館の棟続き」)を受賞し、1997(平成9)年度には会津若松市歴史的景観指定建造物(指定名称「會津壹番館」)の指定を受けました。

2004(平成16)年1月、NTTドコモ東北のテレビCMに登場し、2005(平成17)年3月7日には「野口英世読書感想文コンクール」の受賞者がエクアドルから野口英世青春館に来館し、照島が解説を行いました。

照島は、會津壹番館・野口英世青春館を営むだけでなく、「Dr.ノグチを語り継ぐ会」を主宰し、講演活動などを通して野口英世を知ってもらう活動を行っています。

 

會津壹番館は、会津若松の街の中心である「大町四ツ角」から南へ1ブロック下ったところに位置します。

付近には、まちなか周遊バス「ハイカラさん」のバス停「野口英世青春館前」があります。

まちなか周遊バス「ハイカラさん」

建物は2階建てで、正面の土蔵と後方の木造建築物を組み合わせた寄棟造です。

後方部分は鉄骨で補強しています。

元医院であるのに蔵造りなのは、上述した通り、本来は銀行として建築されたからです。

外観2

外観3

外観は黒壁に瓦葺きの落ち着いた雰囲気の建物です。

入り口部分は鉄筋コンクリート造に改変されていましたが、撤去して黒漆喰のファサードを復元しました。

復元に当たっては、博物館明治村にある黒漆喰の建物を参考にし、一部に喜多方レンガを採用しました。

腰壁は北側がなまこ壁、正面側がタイル張りです。

2階には防火用の鉄扉があります。

 

会陽医院だった頃は、1階に待合室と診察室、手術室、2階に書生部屋がありました。

土蔵造りではありますが、窓にはガラスを入れ、ドアを取り付けるなど、洋風に改造していたそうです。

古い建物であるため、階段はやや急で、昇降するときしみます。

 

現在、1階は年代物の調度品をしつらえた喫茶店「會津壹番館」、2階は野口英世の資料館「野口英世青春館」となっています。

どちらも照島敏明が管理運営しています。

観光客の憩いの場となっているほか、修学旅行生が多く訪れるそうです。

内観2

内観3

1階は、喫茶店とするために電気・ガス・水道を新たに引き込み、カウンターやトイレも設置しました。

店で出すコーヒーは、野口にゆかりのある国の豆を使い、1粒ずつ厳選してから焙煎しています。

2階は、照島が10年をかけて集めた野口に関する資料約100点を展示しています。

小学生の頃の成績表や記念写真、野口が書生時代に使った座卓やアメリカ時代に愛用した椅子など、日本で暮らしていた頃だけでなく、アメリカやガーナなどに滞在していた時期の写真や資料も多いです。

2階 野口英世青春館

古い建物を残し、街の中で活かしていく、という想いによって生まれ変わった建物「會津壹番館」。

福島に訪れた際は立ち寄ってみるのもいいかもしれません。

 

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