通潤橋

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熊本県中部、国道218号と国道445号が交差するあたりにある矢部周辺県立公園の中に、「通潤橋(つうじゅんきょう)」という石造りのアーチ橋があります。

通潤橋は普通の橋ではなく、阿蘇の外輪山の南側の五老ヶ滝川の谷に架けられた石造りアーチ水路橋です。

五老ヶ滝

この橋は、四方を河川に囲まれ水利に恵まれなかった白糸大地に水を送るために建設された、通潤用水と呼ばれる農業用水路の一部です。
北側の取入口から、橋の上に設置されている凝灰岩製の通水菅を通って、白糸大地のある南側へ水が吹き上がる仕組みになっています。

通潤橋規格

この橋では、たびたび中央部から大量の水が吹き上がります。
橋の中央上部両側(川の上流側に2つ、下流側に1つ)に放水口が設置されており、放水された水は橋の下の川へと落ちていきます。
普通の水路橋は自然流下で流すため、水が吹き上がることはありません。
しかし通潤橋は、逆サイフォンの原理で橋まで落とした水を水圧で押し上げるため、栓を抜けば水が噴き出すのです。

通潤橋仕組み

この放水は水管の掃除のために行うもので、水の中に入り込んだ小さなゴミなどが、放水と同時に取り除かれます。
9月の八朔(はっさく)祭の時などには、見事な放水が見られます。

八朔祭

さて、こんな見事な仕組みを持つ巨大な石橋は、いったいいつごろ造られたのでしょうか?

答えは、江戸時代です。
この橋は、1854(嘉永7)年に建設されました。
明治時代ですらないのです。
こんな巨大な石橋を、クレーンなどもない時代に造り上げたのです。
しかも、サイホンの原理などを取り入れた用水路としてです。
では、どうやって造ったのでしょうか。

答えは簡単です。
人の力で石を運び、人の力でくみ上げていったのです。

ここで、この橋を造った代表人物が出てきます。
布田 保之助(ふた やすのすけ、名は惟暉(これてる))という人物です。

布田 保之助は、熊本県上益城郡(現・山都町)の矢部手永の惣庄屋(そうじょうや)であり、事業家でした。
手永とは郡と村の中間的な行政の単位で、惣庄屋とは今でいう村長のことです。

布田 保之助

保之助は1801(享和元)年11月26日、肥後国矢部に誕生しました。
23歳の時に、矢部手永の惣庄屋助役に就任します。
30歳の時には、開墾という功績のために金子を受領し、32歳で惣庄屋に就任します。
34歳の時に起こった全国的な天保の大飢饉では、自分の領域では飢饉がなく褒美を受けました。

天保の大飢饉

布田家は代々惣庄屋の職責にあって、治水や利水などの土木事業や植林などの事業を推進してきました。
保之助も父祖の影響を受けて、矢部郷開発に精魂を傾け、道路や用水路の新設や開拓などに幾多の業績を残しました。

白糸台地は、阿蘇山からの火山灰が降り積もって出来たため、雨水はたちまち地下深くに浸透して貯水が出来ず、人々は長年水不足に悩まされていました。
そこで、保之助が中心となって、水路橋を造る計画を立案します。
矢部手永の資金や細川藩の資金を借り、熊本八代の種山村の著名な石工技術者集団である種山石工に協力をあおぎ、近隣農民もこぞって建設作業に参加しました。
保之助が52歳の時に通潤橋の建設に着手し、54歳の時に完成しました。

惣庄屋を退いた晩年、保之助は白糸台地の西南端にある、山間部にあっても標高が低く比較的温暖な「津留(つる)」という地区に住んで余生を過ごしました。
名も、島一葦(いちい)と改名しています。
津留から矢部手永の会所があった濱町まで、遠く険しい道のりを、度々歩いて通っていたといいます。
隠居後には、周りの世話をする侍女や側近数名を伴い巡回していたと伝えられていますが、地元に残る歴史書では、侍女は保之助の愛人であったという話があります。
保之助は死後、過剰に美化・神格化されてきたので、このような話は公式な記録集には書かれていません。
どちらが本当かはわかりませんが、少なくとも保之助の残した功績はとても大きなものだったことは、いうまでもありません。

保之助は1873(明治6)年4月3日に死亡し、墓地は大正時代に子孫が住む熊本市内の万日山墓地に建立されました。

墓地

島一葦と改名しているように、保之助本人の希望は、個人の売名や権威、神格化、蓄財などではなく、私心を捨て矢部手永住民の協調と幸せを願うものでした。
自らが手がけた笹原磧(野尻用水)と通潤用水の間や他の井手との水利権をめぐる裁判係争、開拓事業との間で水争いが死後に起きたことや、本人だけが神社に祀られ教科書などで神格化されたことは、私心を捨て人々と協力しながら地域に大きな業績を残した本人の遺志に反することであったと考えられています。

また、1916(大正5)年に従五位を追贈され、1952(昭和27)年には熊本県近代功労者となりました。
亡くなったあともこのように官位を贈られるのは、やはり凄い人だっということですね。

さて、通潤橋の話に戻りましょう。

通潤橋は、石造単アーチ橋で、橋長は78メートル、幅員は6.3メートル、高さは20メートル余、アーチ支間は28メートルです。
橋の上部には3本の石管が通っていて、この石菅の中を水が通るようになっています。

外観

江戸時代に造られた石橋としては、アーチの直径ならびに全体の高さでは日本国内最大です。
常時人が渡れますが、あくまで水路のための橋であるため、手摺等は一切ありません。
しかし、これまで転落した人は1人もいないそうです。

橋の上

そもそも、通潤橋は、白糸台地一帯に水を送るために通潤用水の一部として造られた水路橋です。
白糸台地は、川が削り取った深い谷に囲まれていました。
そのため、通潤橋が造られるまでは、湧き水などを利用した農業に限られていました。

通潤橋の工事は1852(嘉永5)年12月に始まり、約1年8ヶ月の長い期間がかかりました。
アーチ型の木枠(支保工)を大工が作った上に、石工が石を置き、石管と木樋(緩衝材の役目)による水路を設置して橋が完成したところで木枠を外す工法により建造されました。

設計図一部

建築中のミニチュア1

この間、大工や石工のほか、白糸台地や矢部地域の大勢の人の力で工事が行われました。
この場所に石橋が建造されたのは、谷が最も狭かったからですが、200メートル程下流に落差50mの五老ヶ滝があって、原料となる石材が上下流の川底に大量に存在していたことも理由の一つです。

建築中のミニチュア2

1854(嘉永7)年7月29日、ついに落成式の日を迎えます。
石橋の木枠を外す最終段階では、橋の中央に白装束を纏った保之助が鎮座し、石工頭も切腹用の短刀を懐にして臨んだという逸話が残っています。
木枠は無事に取り外され、取入口から入った水は、橋を通り抜け、吹上口から勢いよく吹き出しました。
白糸台地の人々の長年の夢が、やっと叶えられたのです。
また、通潤橋より下流の白糸台地内を流れる用水路は、1855(安政2)年頃に完成しました。

通潤橋と用水路の完成により、川から白糸台地に水が送られるようになり、約100ヘクタールの新しい水田が造られました。
用水路は、現在も白糸台地の農業を支えています。

田んぼと通潤橋

通潤橋は2つの地区を水路で結んでいますが、橋の位置は送水先の白糸大地よりも低い位置にあるため、水を通す時には取入口と吹上口の高低差による噴水管(逆サイフォン)の原理を利用している状態になります。
ゴムなどのシーリング材料の無い時代であり、石で作られた導水管の継ぎ目を、特殊な漆喰で繋いで漏水しないように密封して、橋より高台の白糸台地まで用水を押し上げています。

こうした通水管の仕組みは、当時「吹上樋」と呼ばれ、水路橋である通潤橋の最も重要な部分でした。

通水管

通潤橋は日本の独自技術で実現した最初の噴水管の橋と考えられており、NHKの番組「新日本紀行」などで紹介されました。
またこの橋の建設を物語にした『肥後の石工』という児童文学作品があり、国語の教科書への採用例もあります。
戦前にも、文部省の修身教科書に逸話が掲載されていました。

1960(昭和35)年には、肥後の石工の技術レベルの高さを証明する歴史的建造物として、国の重要文化財の指定を受けました。
また、くまもとアートポリス選定既存建造物にも選定され、地域の名物・象徴となっています。
この地域には通潤橋の他にも規模の大きなアーチ石橋が架けられており、石工技術者たちは遠く鹿児島や東京などにも招かれて石橋を作りました。

なお、通潤橋を含む通潤用水は、日本を代表する用水のひとつとして農林水産省の疏水百選に選定され、橋と白糸台地一帯の棚田景観は『通潤用水と白糸台地の棚田景観』の名称で、2010(平成22)年に全域が国の重要文化的景観に選定されています。

重要文化財指定後は、水需要の増大に対応できるよう、上流の川底に送水管(内径0.8メートルのヒューム管)が埋設され、通潤用水ではこれがメインで使われるようになりました。
そのほか、通潤橋近くの河川から取水する下井手や電気揚水施設もあります。

通潤橋は、重要文化財指定による文化財の保護目的と、観光放水による漏水の発生が頻発することで、現役から引退し、その後は主に放水用に通水されています。
ただし、現在も定期的にメンテナンスは行われており、大量の水が必要な時期には通潤地区土地改良区が一時使用しています。

現在、灌漑利用が少ない農閑期には、観光客用に時間を区切って15分程度の放水を行っています。
最近では全国から通潤橋の放水風景を見に来る観光客も多いです。

放水の様子

橋の近くには、保之助を神様とする布田神社があり、今も地元の人びとにより祀られています。

布田神社

近くの美里町には、光の当たり方で下記画像のようにハートが見えることがある「二俣橋」もあります。
ハートのできる石橋」として密かに人気のようです。

ハート

2016(平成28)年4月14日に発生した熊本地震で、通潤橋にも亀裂が入り、水漏れが発生する被害を受けました。
橋の石垣がずれて飛び出したり、通水管のつなぎ目がひび割れたりする被害もありました。
修理中の2018(平成30)年5月には、豪雨により石垣が崩落しました。

2020(令和2)年3月までに修理を終え翌月より放水を再開する予定でしたが、新型コロナウイルス感染症の流行を受けて、当面の間休止されることとなりました。
そして同年7月21日、新型コロナウイルス感染症の流行のため延期していた一般公開を4年3か月ぶりに再開し、記念放水が行われました。

江戸時代という今では考えられないほど工事技術、運搬技術、科学技術が乏しい時代において、マンパワーだけで造りきった今もなお利用できる用水路橋、通潤橋。
熊本に行かれた際は、ぜひ一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

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