浦添市美術館
沖縄県浦添市には、日本初の漆芸専門美術館・沖縄初の公立美術館として1990(平成2)年に設立され、琉球漆器をコレクションとしている美術館があります。
それが、今回ご紹介する「浦添市美術館」です。
八角形のドーム屋根と高い塔の建物外観が特徴です。
常設展示室と企画展示室などを備えており、漆芸品を中心に、絵画や焼物、染織、金工など延べ2000件の美術品を収蔵しています。
また、こちらでは16世紀ごろ~現代までの琉球・沖縄の文化を紹介しています。
琉球王国 首里城祭
琉球の歴史について少しふれておきましょう。
まず、琉球王国(琉球國)は、1429(正長2・永享元)年から1879(明治12)年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国です。
今でもそうですが、日本本土からは海を隔ててかなり離れており、日本、中国大陸、東南アジア諸国との関係を持っていたため独自の文化形成がなされています。
沖縄本島中南部に勃興した勢力が支配権を確立して版図を広げ、最盛期には奄美群島と沖縄諸島、及び先島諸島までを勢力下においています。
当初はムラ社会(シマ)の豪族でしたが、三山時代を経て沖縄本島を統一する頃には王国の体裁を整えました。
明の冊封体制に入り、一方で日本列島の中央政権にも外交使節を送るなど独立した国でした。
しかし、1609(慶長14)年の薩摩藩による琉球侵攻によって、外交及び貿易権に制限を加えられる保護国となりました。
その一方、国交上は明国や清国と朝貢冊封関係を続けるなど一定の独自性を持ち、内政は薩摩藩による介入をさほど受けず、1879(明治12)年の琉球処分により日本の沖縄県とされるまでは、統治機構を備えた国家の体裁を保ち続けました。
同国に属した事がある範囲の島々の総称として、琉球諸島ともいいます。
王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、沖縄方言:フィジャイグムン)」と呼ばれました。
世界中で見られる巴文様ですが、紋としての使用は日本文化圏のみのようです。
王家の紋章
勢力圏は、奄美大島、沖縄本島、宮古島および石垣島の他、多数の小さな離島の集合で、最盛期の総人口17万人ほどの小さな王国でした。
しかし、日本の鎖国政策や隣接する大国明・清の海禁の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たしています。
その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国(現在のマレーシアあたり)との深い結び付きが知られています。
琉球王国は、明及びその領土を継承した清の冊封下に組み込まれていました。
しかし上述した通り、1609年(慶長14)年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩と清への両属という体制を取りながらも、独立した王国として存在し、日本や中国の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げました。
マラッカ王国
「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國」が初出です。
同書によると、607(推古天皇15)年、隋の煬帝が流求国に使者を送りましたが、言語が通じなかったため1名を拉致して戻りました。
翌608(推古天皇16)年、再び使者を送り慰問しましたが流求国は従わなかったため、『布甲(甲冑の一種)』を奪って戻ります。
この時、遣隋使として長安に滞在していた小野妹子らが、その『布甲』を見て『此夷邪久國人所用也(此れはイヤク国の人が用いるものなり)』と言ったそうです。
煬帝は遂に、陳稜という軍人に命じて兵1万人あまりを流求国に送り、言語の通じる崑崙人に慰諭させましたが、流求国はなお従わず逆らいました。
そのため、煬帝は流求国を攻め、宮室を焼き払って男女数千名を捕虜として戻った、と記されています。
要は、隋には従わず、戦争になったということです。
小野妹子
同書は「流求國」の習俗を子細に記していますが、その比定先として挙げられる台湾や周囲の先島諸島、沖縄諸島やルソン島(フィリピンあたり)などは、この時点ではいわゆる先史時代に当たり同定は難しいそうです。
なお、「夷邪久(イヤク)」は屋久島を指すとする説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指すとする説とがありますが定かではありません。
ルソン島
「琉球」に落ち着いたのは明代以降で、最も使用の多かった「流求」に冊封国の証として王偏を加えて「琉球」とされました。
14世紀頃の琉球王国は、北山、中山、南山という3つの小国に分かれ、沖縄島をめぐる抗争をくり広げていました。
このうち最も有力だった勢力は、現在の浦添市に拠点を置く中山で、舜天・英祖・察度の三王統が栄えました。
中山の王城である浦添グスク(城)は、13世紀頃の英祖王の時代に整備されました。
浦添グスク
後の察度王の時代には、高麗系瓦葺きの正殿を中心に、石積み城壁で囲まれた大規模な城になり、周辺には王陵・寺院・大きな池・屋敷・集落などがありました。
また、その頃から、牧港を中心に中国との朝貢貿易を始めるなど、海外交易の扉を開きました。
琉球王国初期の王都・浦添(現浦添市で、今回の美術館のある都市)は、後に大交易時代を迎え東南アジアの中継貿易拠点として繁栄した琉球王国の礎を築いた都といえます。
今も浦添市には、中山の王城であった「浦添グスク」や、初期琉球国中山の王陵である「浦添ようどれ」、首里城と浦添グスクを繋ぐ石畳道の古道など、多くの史跡が残されています。
そして、中山が1429(正長2・永享元)年までに北山、南山を滅ぼして、琉球を統一しています。
それ以降、統一王国としての琉球王国(琉球國)が興ることになるのですが、国号と王号は琉球國中山王を承継し、これは幕末の琉球処分まで続きました。
15世紀初期、中山の察度王統を倒し中山王となった尚巴志は、北山・南山を倒して三山を統一した後、王都を浦添グスクから首里城に遷都し、併せて貿易拠点を那覇に移し、琉球王国を発展させていきました。
王都の遷都に伴い交易の拠点となった那覇港は、日本や中国、東南アジアとの交易拠点となって琉球王国の発展を支えていました。
それは、首里城正殿前に掛けられていた「万国津梁の鐘」に刻まれている文言からもわかります。
「琉球国は南海の恵まれた地域に立地し、船を操って万国の架け橋となり、外国の珍しい品物や宝物が国中に満ち溢れている」
この文言からも分かるように、海外との交易を通じて発展し、礼節をもって中国の冊封使などを迎え入れました。
また、那覇港近くの那覇市久米は、14世紀頃に中国福建地方の中国人集団が居住しており、当時は久米村(くにんだ)という中国人の集落でした。
彼らは中国などとの外交を担ったほか、琉球王国の政治や経済、文化にも様々な影響を与え、食文化にも多くの影響を与えています。
今も昔も琉球料理には欠かせない豚の飼育や豆腐の製法のほか、清明祭やそこに供されるウサンミ(豚や鳥、魚のお供え物)は、久米村から王府に伝わり、それが一般家庭にも伝わったといわれています。
今も清明の時期になると、県内のスーパー等には多くのウサンミが売られているようです。
ウサンミ
那覇港周辺には、当時の航海安全を祈願した天妃宮跡や、久米村600年記念碑などの史跡や石碑が多く残されており、当時の痕跡をたどることができます。
琉球王国の時代、琉球国王の冊封(新国王を任命するための儀礼)のための使節団である冊封使が琉球を訪れていました。
使節団は、総勢400人あまりが約半年の間沖縄に滞在したといわれています。
荘厳な冊封儀式のほか、冊封使滞在中には、首里城北殿や、天使館など各地で「七宴」と呼ばれる国王の主催する七つの大宴が開かれ、そこでは30品あまりにも及ぶ中国風の料理が振る舞われていました。
国賓の歓待には欠かせない食については、料理人を中国に派遣し学ばせるほど力を入れており、琉球版「満漢全席」とでも呼ぶべきこの料理は、国王の王冠を携えた冊封使の乗る船の名を由来として、「御冠船料理」と呼ばれました。
沖縄は様々な周辺国家、地域との交流があり、それらを取り入れつつ独自の食文化を形成しています。
現在でも様々な独自の伝統料理が残っています。
こうして、琉球王国時代に中国の冊封使をもてなすための料理が生まれ、調理技術や作法等を洗練させて「宮廷料理」として確立されました。
また、「七宴」では、色彩豊かで華やかな紅型衣装を身にまとった琉球舞踊が演じられたほか、のちにユネスコ無形文化遺産にも登録される組踊が誕生し、演じられました。
一方、「七宴」以外では、冊封使をもてなすために造られた琉球王家最大の別邸識名園や御茶屋御殿において、朱色の鮮やかな琉球漆器に盛りつけられた料理や芸能で冊封使を歓待していました。
このように、琉球王国の食文化と芸能は、中国の客人に向けた「守礼の心」により、育まれてきました。
沖縄の建物が日本風というよりも、どこか東南アジアや中国寄りなのは、やはり大陸や東南アジア諸国とより密接な関係があったからに他ならないのでしょう。
琉球漆器
沖縄の酒と言えば泡盛ですね。
しかし、このお酒のルーツはどこなのでしょうか?
そもそも日本では日本酒(火入れした清酒ではなく、当時は濁ったどぶろくのような生原酒でした)=お酒となっています。
泡盛
15世紀頃、琉球王国は東南アジア、特にシャム(現在のタイ王国)との交易が盛んでした。
その頃、蒸留酒とその製造技術を琉球に持ち帰ったとされており、15世紀後半には泡盛が造り始められました。
17世紀、泡盛の製造は首里王府の管理の元にありました。
王府の中には、泡盛の製造を管理する役所があり、泡盛は厳しい管理の下、銭蔵に保管され、冊封使などの接待用として振る舞われるなど、御用酒として取り扱われていました。
また、泡盛の大きな魅力は、年月をかけることで、熟成されたすばらしい古酒になることです。
これが、いわゆる醸造酒の日本酒とは異なる蒸留酒の良さでもあります。
年代物の古酒に若い酒を注ぎ足すことで、香りや芳香さを保つことができる「仕次」の文化が今でも各家庭に定着しており、祭礼や祝い事等において来客に振る舞われます。
つまり、泡盛のルーツはタイ王国です。
ラオカオというお酒が基になったといわれています。
ラオカオはタイ米で造る蒸留酒なので、日本の米焼酎に似ているといえます。
泡盛もタイ米が原料なので、ほとんどラオカオと同じといっても過言ではないでしょう。
ラオカオ
ちなみに、タイから伝わったこの蒸留技術がさらに九州に伝わっていき、16世紀中ごろに焼酎となっていくのです。
従って、南九州に焼酎の蒸留所が多くあるということです。
蒸留技術は基本的に同じで、芋や麦、サトウキビ、米、タイ米と、原料が違うというだけの話で、全てはタイのラオカオから派生したお酒ということです。
時代が移り変わり、明治政府が行った廃藩置県により、約450年の歴史を持つ琉球王国は幕を閉じました。
琉球王国が沖縄県になってからは、琉球王国に従事していた料理人たちは、その職を失いました。
しかしその技術は、御冠船料理や薩摩支配の影響を受けた日本式の料理を源流とした琉球料理を、首里地域から那覇地域の社交場へと広げました。
琉球王国時代から食されている「中身のお汁」や「豆腐よう」など数多くの品々は、今も沖縄県民に愛されています。
また、県民の代表食である「ゴーヤーチャンプルー」やサギグスイ(下げ薬)といわれている「イカスミ汁」などは、医食同源の理念にかなっています。
これらは今でも、「ヌチグスイ=命の薬」や「クスイムン=薬になるもの」として生活に根付いており、食堂などの定番メニューになっています。
ゴーヤーチャンプルー
また、今では沖縄土産の定番となっている「ちんすこう」や御冠船料理でも供されていた「橘餅」などの琉球菓子は、琉球王国時代から代々継承されています。
首里の限られた地域でしか製造が認められていなかった琉球泡盛については、現在では離島を含む県内各地域の酒造所で製造されるとともに、酒蔵見学や試飲体験が行われています。
一方、沖縄県は「芸能の島」と称されるほど歌や踊りが盛んな地域で、披露宴などの催しの際には必ず芸能が披露されるなど、県民にとっては身近なものであり、日常的に親しまれています。
国立劇場おきなわ(浦添市)では、琉球舞踊や組踊の定期公演も行われており、気軽に沖縄の芸能に触れることができます。
那覇市内には今も、かつての冊封使節団の歓待と同様に、琉球舞踊などの芸能を鑑賞しながら琉球料理や泡盛を楽しめる老舗の料亭などもあり、沖縄の食と芸能を堪能することができます。
このように琉球王国時代に育まれた国際色豊かな食と芸能文化は脈々と受け継がれ、今も県民や国内外からの観光客を魅了しています。
こういった日本とは違う独自の文化形成を成した琉球王国の漆器を主に取り扱うのが、「浦添市美術館」です。
設計は内井昭蔵です。
内井昭蔵は1933(昭和8)年、東京市神田区に生まれました。
祖父の河村伊蔵と父の内井進は建築家で、進は金成ハリストス正教会と小田原ハリストス正教会の両聖堂、およびニコライ堂のイコノスタスの設計に関わっています。
内井昭蔵
幼少期から教会で過ごすことが多く、「ロシア正教会の持つ空間と祈りと形の関係が、幼少期にすでに強く印象づけられていたように思う」と述べています。
こうした経験は、モダニズム全盛期の学生時代を経た後に手がけた日蓮宗の寺院や、YMCA野辺山高原センターなどにおける合理性のみの形態とは異なるアプローチ、さらには親しみやすさを旨とした公共建築への設計思想へとつながっていったとも述べています。
内井は1956(昭和31)年に早稲田大学第一理工学部建築学科卒業、1958(昭和33)年に早稲田大学大学院修士課程修了、菊竹清訓建築設計事務所へ入所します。
1967(昭和42)年に内井昭蔵建築設計事務所を設立し、1993(平成5)年までこれを主宰しました。
またこの間に、東京YMCAデザイン研究所、東京大学工学部建築学科、早稲田大学理工学部建築学科でそれぞれ講師を務めました。
様々な建物を設計しており、例えば、滋賀県立大学や世田谷美術館などが挙げられます。
世田谷美術館
浦添美術館は県内初の公立美術館として1990(平成2)年に開業しました。
那覇市から浦添市へと国道330号線が通っていますが、その大通りに面して浦添市美術館があります。
敷地内に植えられた樹木の中に、塔状の建物群が見えます。
外観
屋根
文化ホールなどもある大きな敷地内に、レベル差を伴って建物が配置されていて、外から見ると分棟が風景を作り出しています。
ブラスト処理の施された茶色の正方形タイルが外壁に貼られ、展望塔があったりして全体の印象を上手くコントロールしています。
タイル
建物は正四角形と正八角形の平面が組み合わさっていて、屋根部分と柱が正八角形になります。
経済合理性のため、或いは無思考のために作られた四角形の柱に対するアンチテーゼ的な八角形の柱は、内井の細部のパーツへのこだわりを垣間見ることができます。
ピロティ
建物群の中にひとつだけ高い塔があり、その展望塔には登ることができます。
この塔も正八角形平面で、その外形に沿って螺旋階段が回され、頂上に近くなると柱が中心に落ちた幅員の狭い鉄骨階段となります。
頂上に展望用の回覧スペースを取る必要があるために、そのように設計されているそうです。
螺旋階段
塔
頂上では建物群の屋根と周囲に広がる風景を一望することができます。
上から屋根を見てみると、軒樋の詳細が分かります。
外観としての屋根を軒樋も含めたデザインとして等価に扱っています。
軒樋にありがちなチープな軽さはなく、屋根の一帯として納まっています。
内井の建築デザインの考え方には「装飾は人間を健康にする」というものがありました。
浦添市美術館にも、その考えの元に生まれた装飾がちゃんとあります。
まず先述の八角形の柱です。
地上のピロティでは、その柱の林立を見られます。
そのピロティの天井も正八角形に掘られています。
またキャノピーの柱にも、世田谷美術館と同じような三角の構造的装飾が施されています。
片持ちのキャノピーで柱が現れないところは、上部の吊材として三角が設けられています。
そして沖縄のエントランスに必須のシーサーも庇の上にいました。
美術館内に取り込まれている光は、大きく分けて2通りあります。
中庭からの光と、塔状の屋根のハイサイドライトです。
通路となるところは、中庭からの光が大開口を通して入ってきて、展示室にはハイサイドライトが入ってきます。
ハイサイドライトといっても、屋根上部は塔状にすぼまっているため、集中したハイサイドライトは一体化してトップライトのようになっています。
頂部からの光は展示室を淡く包み込んでいて、その美しさがわかります。
内部1
内部2
日本とは少し違う、独自の文化を形成した琉球・沖縄の文化。
これらの文化を学ぶとともに、建築自体にも見る価値のある浦添市美術館に訪れてみるのも良いかもしれませんね。