余市蒸留所
北海道余市郡に、とあるウィスキーの蒸留所があります。
名称は『余市蒸留所』。
現在、日本の国産ウィスキーは数多く存在しますが、その国産ウィスキーを日本で初めて製造した人物が造った蒸留所が、この『余市蒸留所』なのです。
2014(平成26)年にNHKの朝ドラでドラマ化されたほど有名です。
余市蒸溜所は、現在は北海道余市郡余市町にあるアサヒグループホールディングスの機能子会社であるニッカウヰスキーの工場(蒸溜所)となっています。
正式名称は、「ニッカウヰスキー北海道工場余市蒸溜所」です。
そのうち10棟は、国の重要文化財に指定されています。
ニッカウィスキー
この地はニッカウヰスキーの創業地であり、ウィスキー造りのために単身スコットランドにも留学した竹鶴政孝という人物が蒸溜所を建設した場所です。
竹鶴政孝は帰国後、ウイスキー造りの理想の地を求めて、スコットランドに似た気候風土を備えていたこの余市に蒸溜所を建設しました。
この竹鶴政孝こそ、日本で初めて国産ウィスキーを造った人物です。
この人物がいなければ、日本での国産ウィスキー製造はもっと遅くなっていたか、もしくは現在も存在しなかったかもしれません。
有名なサントリーの山崎や白州なども存在しなかったのでしょう。
竹鶴政孝
現在余市蒸溜所では、世界で唯一とされる、昔ながらの「石炭直火蒸溜」を行って「品質第一主義」を貫いています。
そして、日本国内で初となるザ・スコッチ・モルト・ウイスキー・ソサエティ(SMWS)認定のモルトウイスキー蒸溜所になりました。
また、2004(平成16)年に「ニッカウヰスキー余市蒸溜所」として「北海道遺産」に、2007(平成19)年に「余市町のウイスキー醸造関連遺産(ニッカウヰスキー(株)北海道工場)」として経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されてもいます。
観光地としても人気があり、トリップアドバイザーから「エクセレンス認証」を授与されています。
申し込みをすれば見学もできます。
竹鶴政孝はニッカウィスキーの始祖であり、また、サントリーウィスキーの始祖、マルスウイスキーの間接的始祖でもあります。
これらの業績から「日本のウイスキーの父」と呼ばれています。
現在のサントリーの山崎蒸留所も、この人物が最初の所長です。
竹鶴政孝は、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)で、酒造業・製塩業を営む竹鶴敬次郎の四男五女の三男として生まれました。
竹鶴家は頼家、吉井家と並ぶ竹原の三大塩田地主のひとつで、1733(享保18)年から酒造業も手がけていました。
竹原市
政孝の家は祖母の代に分家し製塩業を営んでいましたが、本家の主人夫妻が長男誕生直後に相次いで亡くなったため、政孝の父・敬次郎が後見として本家に入って酒造業を継ぎました。
このため政孝は、分家ながら三男として竹鶴の本家で生まれました。
当時、広島の酒造業界では三浦仙三郎をリーダーに、抜群のブランドを誇った兵庫の灘酒に負けぬ酒を造ろうと、蔵元たちが酒造りの改良に意欲的に取り組んでいました。
敬次郎もそのグループの主要メンバーでした。
後に三浦は、醪(もろみ)をゆっくりと低温で発酵させる「吟醸造り」の技術を確立し、酒には不向きとされていた広島の軟水から、灘酒に負けない高品質の酒を造ることに成功します。
これが今日、灘・伏見と並び、日本の三大銘醸地と称されている広島の酒(西条酒)の始まりです。
竹鶴酒造の酒
1907(明治40)年、全国の酒を一堂に集め、その品質だけを純粋に競う「第1回清酒品評会」で優等1位、2位を広島酒が独占したのを始め、1911(明治44)年に始まった全国新酒鑑評会など、鑑評会や品評会で広島酒が上位入賞しました。
この結果は非常なニュース性をもって全国に知れ渡り、これを契機に各地で精力的な酒造りが始まりました。
敬次郎の酒造りは厳しく、政孝も大きな影響を受けました。
厳しい信念を貫いた政孝の品質主義は、広島の環境と父を通じて育まれたのでしょう。
2014(平成26)年現在、政孝の生家の造り酒屋は「竹鶴酒造株式会社」という名称で今も続いています。
こちらは竹鶴家の本家であり、前述のように政孝は分家の分家筋にあたります。
竹鶴酒造株式会社
忠海中学(現・広島県立忠海高等学校)に進んだ政孝は、通学に時間がかかりすぎるため、三年生に進級した際に寮生活を始めます。
一学年下には、後に熊本の第五高等学校(現熊本大学)から京都帝国大学へと進学し総理大臣となる池田勇人がいました。
池田が亡くなるまで交流が続いたそうです。
政孝の影響もあり、池田は国際的なパーティーでは国産ウイスキーを使うように指示していたといいます。
池田勇人
その後政孝は、大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造科にて学びます。
この進学は、兄二人が家業の酒造りを敬遠した故でもあったといいます。
大阪高等工業学校の卒業を春に控えた1916(大正5)年3月、新しい酒である洋酒に興味をもっていた政孝は、大阪高工の先輩・岩井喜一郎(摂津酒造常務)を頼り、当時洋酒業界の雄であった大阪府東成郡住吉村(現・大阪市住吉区帝塚山東5丁目)の摂津酒造(摂津酒精醸造所、1964(昭和39)年10月宝酒造と合併) を訪ね、卒業を待たずに入社します。
その年の12月には徴兵検査があったため、それまでの期間限定の予定でした。
入社後は、政孝の希望どおりに洋酒の製造部門に配属されます。
ある時はロンドンの出版社が刊行していた『処方書』を手に試験室に篭もり、またある時は現場に張り付いていた政孝は、入社間もなく主任技師に抜擢されます。
その年の夏、アルコール殺菌が徹底して行われていなかったぶどう酒の瓶が店先で破裂する事故が多発しました。
しかし、政孝が製造した赤玉ポートワインは、徹底して殺菌されていたため酵母が発生増殖することがなく、割れるものが一つもなかったそうです。
このことで、政孝の酒造職人としての評判が世間に広がることになります。
赤玉ポートワイン
12月、政孝は徴兵検査を受けました。
幼い頃から柔道などをたしなんでいたため体力に自信のあった政孝は、甲種合格を確信していました。
しかし、検査官が政孝の履歴書を見た際、「アルコール製造は火薬製造に必要な技術であるので入隊させずに今後も製造に従事させたほうが軍需産業を活性化させる」と判断して乙種合格としたため、軍隊に入隊せずにすんでいます。
政孝が、乙種合格と、郷里には来年冬に帰る予定、そして勤務を1年延長する希望を当時の阿部社長に伝えたところ、快諾され、摂津酒造での勤務を継続することとなります。
19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで、純国産のウイスキーは作られていませんでした。
そもそも、ウィスキーを一から造るには、費用と時間がかかりすぎるのです。
出来上がっても、最低でも数年、長くは50年寝かせるものもあり、その間のコストや時間はもちろん、それで失敗した場合の損失等を考えると、人生をかけるギャンブルといわざるを得ないものなのです。
しかしそれでも、摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画しました。
1918(大正7)年、政孝は社長の阿部喜兵衛、常務の岩井喜一郎の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学びます。
スコットランド
彼は現地で積極的にウイスキー蒸留場を見学し、頼みこんでエルギンのロングモーン蒸留所で実習を行わせてもらうこともありました。
最終的にはキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所で実習を行いました。
ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出たという逸話も残っています。
ちなみに上述もしましたが、政孝のこの現地修行が成功していなければ、現在の日本のウイスキーは実現していなかったといわれています。
ポットスチル
この間、2人の兄は酒造とは無関係の別々の道に進んでいました。
そのため、両親は政孝に会社の跡を継がせるつもりでいたのですが、政孝も日本酒ではなく洋酒の道へ進んでしまい、両親はひどく悲しんだといいわれています。
政孝はスコットランドに滞在中、グラスゴー大学で知り合った医学部唯一の女子学生イザベラ・リリアン・カウン(通称エラ)に頼まれて、末弟のラムゼイ・カウンに柔道を教えていました。
その姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め、1920(大正9)年1月8日に結婚します。
しかし、ラムゼイを含むリタの家族のほとんどに反対されたため、教会ではなく登記所で2名の証人と登記官の前で宣誓するだけの寂しい結婚式だったそうです。
リタ
当時では珍しい国際結婚でした。
2人は音楽が共通の趣味で、リタがピアノ、政孝が持参していった鼓を一緒に奏でるなどして親睦を深めたそうです。
政孝はリタに「スコットランドに残ってもかまわない」と気持ちを打ち明けますが、リタは「私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と伝えたそうです。
二人の写真
同年11月、政孝はリタを連れて日本に帰国します。
結婚については実家の家族にも反対されますが、最終的にいったん政孝が分家するという形で一応の決着をみました。
結婚後、摂津酒造に程近い帝塚山に新居を構えました。
政孝はウイスキー造りの研修結果を「実習報告」(通称:竹鶴ノート)にまとめて岩井に提出し、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画します。
しかし不運にも、第一次世界大戦後の戦後恐慌によって資金調達ができなかったため、計画は頓挫してしまいます。
竹鶴ノート
その後1922(大正11)年、政孝は摂津酒造を退職し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えました。
そんな中、1923(大正12)年に大阪市東区住吉町(現・中央区松屋町住吉)の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)が、本格ウイスキーの国内製造を企画します。
社長の鳥井信治郎が、スコットランドに適任者がいないか問い合わせたところ、「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得たそうです。
鳥井信治郎
鳥井は以前摂津酒造に模造ワイン製造を委託していたことがあり、政孝とも数度面会したことがありました。
そういった経緯もあり、鳥井は政孝を年俸四千円という、当時では破格の給料で採用しました。
この年俸は、スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じといわれています。
同年6月、政孝は寿屋に正式入社します。
政孝は、製造工場はスコットランドに似た風土の北海道に作るべきだと考えていました。
しかし鳥井は、消費地から遠く輸送コストがかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示しました。
政孝は大阪近郊の約5箇所の候補地の中から、良質の水が使え、スコットランドの著名なウイスキーの産地ローゼスの風土に近く、霧が多いという条件から、三島郡島本村大字山崎(現・島本町山崎5丁目)を候補地に推しました。
工場および製造設備は政孝が設計しました。
特にポットスチルは、同種のものを製造したことのある業者が国内になく、政孝は何度も製造業者を訪れて細かい指示を与えました。
1924(大正13)年11月11日、山崎蒸溜所が竣工し、政孝はその初代所長となります。
ただしこの蒸溜所は、社員は政孝のほかに事務員1名がいるのみの、小さい工場でした。
政孝は酒造りに勘のある者が製造に欠かせないと考え、醸造を行う冬季には、故郷の広島から杜氏を集めて製造を行いました。
山崎蒸留所
また、当時の酒は製造時の量に応じて課税されていましたが、貯蔵中に分量が減るウイスキーに対してこの方式は不利でした。
このため政孝は当局に掛け合い、樽に封印をすることで出荷時の分量で課税するよう認めさせます。
鳥井は最大限、政孝の好きなように製造をさせました。
しかし、金ばかりがかかって全く製品を出荷しない山崎蒸溜所は出資者らから問題にされ、鳥井はやむなく、それとなく発売を急ぐよう指示します。
出荷ができるほどに熟成した原酒は最初の年に仕込んだ1年分のみで、ブレンドで複雑な味の調整をすることができないため難色を示した政孝ですが、それ以上出資者を待たせるわけにもいかないということも承知していたので、出荷に同意します。
ここで、ウィスキーのことをあまりご存じない方のために少し説明しますと、市販されているウィスキーのほとんどは、30~40種類ほどの原酒を混ぜて、複雑な味と香りを作りだしています。
もちろん原酒だけで十分美味しいものもありますが、ブレンドされたものがほとんどです。
1929(昭和4)年4月1日、政孝が製造した最初のウイスキー『サントリー白札』(現在のサントリーホワイト)が発売されます。
しかし、模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人にはあまり受け入れられず、販売は低迷しました。
同年、寿屋は神奈川県横浜市鶴見区市場町(現・元宮2丁目)の日英醸造のビール工場を買収しましたが、政孝はその工場長も兼任するよう命じられました。
山崎と鶴見の距離が離れすぎていることや、異なる種類の酒であることから、政孝は当初あまり乗り気ではありませんでした。
そして1933(昭和8)年11月、寿屋は突然、鶴見工場の売却を発表します。
購入額よりはるかに高値であったことから、寿屋にとってはよい商談ではありました。
しかし工場長である政孝に事前に何の連絡もなかったことから、政孝は寿屋に対し不信感を持つようになります。
1934(昭和9)年3月1日、後続の技師が育ってきたこと、政孝が帝王教育を任されていた鳥井の長男・吉太郎に一通りの事を教え終わったこと、最初の約束である10年が経過したことなどから、政孝は寿屋を退職します。
同年4月、北海道余市郡余市町でウイスキー製造を開始することを決意し(現在の余市蒸溜所)、資本を集め、7月に大日本果汁株式会社を設立して代表取締役専務に就任しました。
筆頭株主は、加賀証券社長加賀正太郎です。
加賀の妻は1924(大正13)年以来、政孝の妻のリタから英会話を学んでおり、政孝が事業を始めることを聞いた加賀は、他の2人の出資者と共に政孝を支援することにしたといいます。
加賀正太郎
ウイスキーは製造開始から出荷までに数年かかるため、出荷までは当然ウイスキー製造による収益は一切ありません。
そこで政孝は、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画をたてました。
1935(昭和10)年5月、日果林檎ジュースの出荷を開始します。
しかし政孝の品質へのこだわりはジュースにも及び、他社が6銭の果汁入り清涼飲料を作っていたのに対して30銭もする果汁100%ジュースしか販売しなかったため、あまり売れなかったといいます。
混ぜ物をしていないため製品が濁ることがあり、誤解した消費者や小売店からの返品も相次ぎました。
日果林檎汁
1940(昭和15)年、余市で製造した最初のウイスキーを発売します。
社名の「日」「果」をとり、『ニッカウヰスキー』と命名しました。
しかしその直後、ウイスキーは戦時下での統制品となり、日果の工場は海軍監督工場となります。
この後終戦までは、配給用のウイスキーを製造しました。
そして戦後はウィスキー造りに専念し、ニッカウィスキーとして様々なウィスキーを造っていきました。
さて、そんな竹鶴政孝が造った『余市蒸留所』とは、どんな場所なのでしょうか。
国内の蒸留所の構内は、どれも近代的な工場のような印象を受けます。
しかし余市蒸留所は、どこにでもあるようなごく普通の市街地の中、突如として、水と木に囲まれた倉庫群が姿を現します。
木々の隙間から見える古めかしい木造の倉庫は浮世離れしています。
倉庫
周囲の町並みとは明らかに異質な雰囲気です。
この蒸留所だけヨーロッパから空間を切り出してきたかのような、そんな印象です。
いかに政孝がスコットランドにこだわったかがわかります。
おそらくは、リタのためというのもあったのでしょう。
敷地の周囲をぐるっと回って北側の正門へと向かうと、蒸留所沿いの路地には石壁や石造の建物が連なっていて、やはり周囲の住宅街とは一線を画している感じがします。
外壁
そもそも、石壁が連続する路地というのは、日本らしからぬ光景なのです。
まるで中世のヨーロッパです。
正門が建てられたのは1940(昭和15)年頃です。
現在では普通ですが、戦後に至るまで、日本語の横書きは右から左へ書くのが一般的でした。
しかし、ここでは現在と同じように左から右へ書いています。
超先進的です。
あえてカタカナにしたのは、確実に左から右へ読んでもらう目的もあったといいます。
その正門をくぐって敷地内に進んでいきます。
正門
まず目に入る、白壁に赤い三角屋根のどこかメルヘンチックな建物は、乾燥塔です。
ウイスキーの原料である発芽した大麦をピート(泥炭)の煙であぶるための施設です。
このピートの匂いが、ウイスキー固有の香りとなります。
こちらは正門と同じく1940(昭和15)年頃に建てられたもので、第一乾燥塔と第二乾燥塔の二棟が仲良く並んでいます。
ピートは植物が堆積してできる燃料で、いわば泥状の石炭といえます。
日本では北海道で採れるので、その点でも余市はウイスキーの蒸留所に最適な土地なのでしょう。
乾燥棟
次に出てくるのは、また赤い屋根の蒸留棟です。
中には巨大なスライムのような形をしたポットスチル(蒸留器)があります。
蒸留棟
内部ポットスチル
余市蒸留所の工場施設は、白石壁に赤い鉄板屋根で統一されていて、群としてまとまりある工場景観を作り出しています。
一方で、それら工場施設の傍らにたたずむ事務所や住居建築は、鼠色と緑色を基調としています。
落ち着いた色彩ながらもキュートなデザインで、蒸留所のアクセント的な存在です。
指定文化財にも認定されている旧事務所は、1934(昭和9)年に建設されました。
外観は小さいおうちという印象ですが、内部は思った以上に広く、明るいです。
旧事務所外観
1935(昭和10)年頃の旧竹鶴邸もあります。
ロビーは天井が高く、洋風でモダンな感じと思いきや、振り返ってみると、繊細な格子を多用した扉と床があります。
不思議な感じの和洋折衷です。
竹鶴邸
内観
工場施設が並ぶエリアと、貯蔵庫が並ぶエリア。
余市蒸留所は、その全てが昔のまま、昭和初期の景色がそのまま残っています。
どこを切っても絵になる美しさがあります。
蒸留所の全体がまるで一つの作品のような、実に完成された工場だといえるでしょう。
工場を築いた創業者の美意識、そして当初からの風情を維持してきた、現在もなお続くこの会社のポリシーが、なによりも素晴らしいと思えます。
蒸留所内
ちなみに余市蒸留所の敷地内には「ニッカミュージアム」という博物館があり、昔の器具やボトルなどが展示されています。
ボトルのデザインや形状は実に様々で、眺めているだけでも楽しくなります。
余市蒸留所へのアクセスは、小樽から電車やバス、自家用車などを使って西方面に向かえば行くことができます。
そのあたりにお越しの際はぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。
ただし、必ず見学予約をインターネット上で行ってください。
予約をしておかないと入れないのでご注意を。