姫路城
「姫路城」は、兵庫県姫路市にある、おそらく日本で最も有名な城です。
姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構です。
江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されています。
主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されています。
現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されています。
また、ユネスコの世界遺産(文化遺産)リストにも登録され、日本100名城などに選定されています。
別名は白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)です。
姫山
姫路城の始まりは、1346(南朝:正平元、北朝:貞和2)年の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採用しています。
一方で、赤松氏時代の城は砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もあります。
戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張されます。
そして、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって、今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張されました。
池田輝政
江戸時代には姫路藩の藩庁となり、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置されました。
城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので、大名が頻繁に交替して城主に成っています。
池田氏に始まり、譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や、親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還時の酒井忠邦まで約270年間、城主は6氏31人が務めました。
酒井忠邦
明治時代初期に陸軍省の管理下に入りましたが、まもなく民間に払い下げとなり、競売で市内で金物商を営んでいた神戸清一郎によって、わずか23円50銭で落札されました。
しかし、その後に権利が放棄されたらしく、国有に戻っています。
その後は陸軍兵営地となって歩兵第10連隊の駐屯地として使用され、兵舎増築のため本城、向屋敷、東屋敷等が撤去されました。
姫路城は年を経るごとに腐朽が進んでいましたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などを名古屋城とともに保存する処置が取られました。
その後また腐朽が進むと、市民の間から衆貴両院に修復工事の陳情が行われ、議会の決議により国費9万円をもっての「明治の大修理」が行われました。
この大修理を機に、市民の間からは陸軍省から姫路市への払い下げと城を公開することを求める声が強まり、姫路市会の決議を経て、1914(大正3)年に軍用地を除き姫路市への無償払い下げが決定し、公開されることなりました。
史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき、1927(昭和2)年には姫路城が史跡に指定され、1931(昭和6)年に姫路城天守閣が国宝指定を受けました。
太平洋戦争中には姫路も二度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残しています。
太平洋戦争をはさんで1934(昭和9)年から1964(昭和39)年まで行われた「昭和の大修理」を経て、姫路公園を中心として周辺一帯も含めた整備が進められました。
さらに、2009(平成22年)年から2015(平成27)年にかけては、「平成の大修理」として、大天守保存修理工事が行われ、鮮やかな白壁が復元されました。
現在では、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代や江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品のロケーション撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっています。
姫路市は2021(令和3)年12月、ふるさと納税で3000万円以上を寄付した人への返礼として49人目の「城主」として迎えるプランを発表し、2022(令和4)年3月19日に専用ヘリコプターで入城して「永久入城権」を受け取るなどするイベントが開催されました。
明治時代に焼失、解体された、三の丸御殿、櫓、門、土塀の木造復元計画がありますが、予算の関係で進んでいないようです。
戦国時代の変遷としては、1576(天正4)年、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国路の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立します。
その頃、姫路城は黒田職隆の子である孝高(官兵衛・如水)が城代になっていました。
最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落しました。
ただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉に誼を通じていた孝高は、そのまま秀吉に仕えることとなりました。
1577(天正5)年、孝高は二の丸に居を移し、本丸を秀吉に譲りました。
織田信長
1580(天正8)年、秀吉は三木合戦で三木城を、続いて英賀城などを落城させ、播磨を平定します。
孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言して姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)に移りました。
秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により、姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名します。
あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備しました。
この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めています。
1582(天正10)年6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、天下人の地位へ駆け上っていきます。
このため1583(天正11)年には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移り、姫路城には弟・豊臣秀長が入りましたが、1585(天正13)年には大和郡山へと転封されます。
替わって木下家定が入りました。
豊臣秀吉
明智光秀
1600(慶長5)年、三河吉田城(15万石)の城主だった池田輝政が、関ヶ原の戦いの戦功により姫路城(52万石)を与えられて入城しました。
輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601(慶長6)年から8年掛けた大改修で、姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築きました。
中堀は八町毎に門を置き、外堀からは城下と飾磨津を運河で結ぶ計画でしたが、輝政の死去と地形の高低差の問題を解決できず未完に終わりました。
運河計画は、後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現することになります。
普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛です。
作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人~5千万人であろうと推定されています。
また、姫路城の支城として播磨国内の明石城(船上城)、赤穂城、三木城、利神城、龍野城、高砂城も整備されました。
姫路城は、築城から400年間一度も戦災にあわず、天守群や櫓、門などが往時のままの姿で残っています。
巨大な木造建築群として世界でも類を見ず、整った構造や均整の取れた美しさから最も完成された城といわれています。
外観1
外観2
外観3
大天守に代表される設計技術の高さと、白漆喰を施した装飾美において木造建造物の最高傑作であること。
17世紀初頭の城郭建築の最盛期に建造された天守群、櫓、門、土塀等の建造物や石垣、堀などの土木建築物が良好に保存されていること。
以上のようなことが評価され、1993(平成5)年に文化遺産に登録されました。
石垣
堀
櫓
城についてもう少し見ていきましょう。
姫路城は標高45.6mの姫山を利用して構築された平山城です。
前述のように、鎌倉時代の末期に築かれた城を、1580(天正8)年に羽柴秀吉が三層の天守をもつ城郭に改修し、1601(慶長6)年からは池田輝政が8年の歳月をかけて五層六階の大天守をもつ現在の城を築きました。
天守群は大天守と渡櫓(わたりやぐら)で結ばれた3つの小天守からなる、日本で唯一の連立式天守になっています。
白壁が美しく、華やかな構成美が羽を広げて舞う白鷺に例えられ、白鷺城とも呼ばれています。
渡櫓
城跡(中濠の内側)は国の特別史跡に指定されています。
建造物の8棟(大天守、東小天守、西小天守、乾小天守、イの渡櫓、ロの渡櫓、ハの渡櫓、ニの渡櫓)は国宝に、建造物の74棟(櫓16棟、渡櫓11棟、門15棟、塀32棟)は国の重要文化財に指定されています。
世界遺産に登録されている世界各地の城の多くは石造りや煉瓦造なのに対し、姫路城は、濠や石垣をのぞき主要な建造物は木造です。
建築様式や意匠は世界で他に類をみない貴重なものといえるでしょう。
現在では、様々なイベントが行われているほか、夜間にはライトアップも実施されています。
兵庫県に行かれた際には、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
ライトアップ