ショウナイホテル スイデンテラス

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美しい水の循環に育まれた山形県庄内地方。
この地は、古くから米どころとして栄えてきました。

庄内地方

地元の人が“何もない場所”と言う鶴岡市郊外には、豊かな田園風景があります。
こうした美しい風景が残る一方で、人口減少という地方都市ならではの課題もありました。

そこで、庄内平野の真ん中から国内外に向けて、街づくりのメッセージを発信するベンチャー企業ができました。
その名は「ヤマガタデザイン株式会社」(代表取締役・山中 大介)といいます。

ヤマガタデザイン株式会社 山中 大介

まず、その田園風景の一画に、地方創世モデルの“サイエンスパーク”が誕生し、様々な事業が展開されています。

サイエンスパーク

そしてかたわらには、建築家・坂 茂(ばん しげる)氏デザインの滞在型宿泊施設「SHONAI HOTEL SUIDEN TERRASSE(ショウナイホテル スイデンテラス)」が佇みます。

坂 茂
ショウナイホテル スイデンテラス

このホテルのコンセプトは、「晴耕雨読の時を過ごす、田んぼに浮かぶホテル」。

出羽三山から庄内平野、そして日本海へ。
美しい水の循環に育まれた山形県庄内地方。
田んぼに浮かび、周囲の山並みや田園風景に溶け込むような佇まい。
木のぬくもりを生かしたシンプルで居心地のよい空間。
どこに身を置いても田んぼの気配を感じられるようデザインされたこのホテルで、晴耕雨読の時を過ごす、
というものです。

坂氏による設計でホテルが実現したのは、「ショウナイホテル スイデンテラス」が初めてです。
水田のある景観は、
「これだけ素晴らしい景色があるのなら、更地にするのではなく水田を活かした建築を作りたい」
という坂氏の希望からです。
地上2階建ての低層で、すべて木造で建設されました。

さて、この庄内平野という地は、歴史的にどのような場所だったのでしょうか。

ざっくり説明すると、庄内平野は、山形県日本海側に位置する最上川流域に広がる平野です。
主に米の栽培を中心とした農業がさかんな地域とされています。
本来は、この土地のほとんどが河川下流域特有の低湿地か、用水を得るのが難しい高燥地でした。
平安時代から奈良時代にかけて最上川より北側の地域の開発が始まり、地理的に京都と北海道のちょうど中間地点として、海運の要衝として機能し始めました。

この時、越後や陸奥より土地を引き抜いて前述の地域と併合し、出羽国として現在の山形県に近い形にされています。
近世初頭に入ると、低湿地や高燥地の開発が始まり、現在の様子に近くなったとされています。

ちなみに、現存する最も古いとされている記述には、次のように記されています。

奈良時代の初期、712(和銅4)年に出羽の国が置かれてから、
「柵戸(さくこ)」と呼ばれる開拓者が庄内にやって来て、田んぼづくりに本格的に取り組んだところから、庄内平野の米づくりの歴史が始まりました。
この時、田んぼを長方形にすることにより、農業機械が使いやすくなり、生産力が大きく向上しました。

天候は、夏季には南東の季節風が山を越えフェーンとなるため、好天で乾燥した日が続きます。
冬季は北西の季節風が卓越し、特にシベリア付近に優勢な高気圧、北海道付近に発達した低気圧があり、いわゆる西高東低の冬型の気圧配置が強まった際には、暴風を伴った雪となり地吹雪となって視界が極端に悪化することがしばしばあります。
その時には交通機関に大幅な乱れが生じ、空港は離着陸不能となり、海岸道路は高波が岸壁を越え海水が浸入します。

平安時代には、大泉、遊佐、櫛引の三荘園が置かれ、最も栄えた大泉荘がこの地方の代名詞となりました。
大泉荘内(大泉荘園内の地)から「荘内」(庄内)の呼び名が生まれ、16世紀頃に定着したと考えられています。

戦国時代には、大宝寺氏・東禅寺氏らがこの地方を治めましたが、やがて最上氏と上杉氏の抗争地となりました。
結局は上杉氏の傘下となりますが、関ヶ原の戦い後は、最上氏がこの地を接収しました。

最上義光像

上杉謙信像

江戸時代には庄内藩の領土となり、藩主酒井氏が鶴岡に本拠地を構えて一帯を治め、豪商本間氏が酒田に本拠地を構えました。
また、北前船の就航も多かったとされています。

酒井忠勝

北前船

1868(明治1)年の戊辰戦争では、庄内藩は会津藩と同盟して明治政府と敵対しましたが、明治政府軍に敗れました。
庄内藩と会津藩を擁護するために結成された軍事同盟が、奥羽越列藩同盟です。
しかし、明治政府軍の薩摩藩が戦後処理で庄内藩を寛大に取り扱ったため、会津藩とは対照的に、庄内藩は領土没収を免れました。

1871(明治4)年の廃藩置県では、旧庄内藩の領地を範囲とする酒田県が成立しましたが、「酒田県」→「大泉県」→「酒田県」と幾度も県名が変遷し、1875(明治8)年に鶴岡県に改名されました。
しかし、1876(明治9)年には、盆地県である山形県(1876年以前)や置賜県と合併され、これ以後は山形県となって現在に至っています。

江戸時代の俳人松尾芭蕉が、「五月雨を集めて早し最上川」と詠んだ最上川に落ちる「白糸の滝」は、芭蕉が訪れた1689年の夏と変わらぬ風景を、今も留めています。

松尾芭蕉

現在、最上川を下り「白糸の滝」を過ぎると、300年前にはなかった構造物が目に入ります。
「草薙頭首工」と「最上川取水口」です。
この二つの施設で取り入れられた水は、最上川の左右岸に広がる庄内平野に動脈のように張り巡らされた水路を通じて、約13,000ヘクタールの水田の隅々にまで配られています。

草薙頭首工

この巨大な水路網が、庄内平野の稲作を支え、この地域を日本国内で有数の穀倉地帯としています。
しかし、この水路が長い歴史と人々の努力の積み重ねにより完成されたことを知る人は少ないでしょう。

上述した通り、最上川の河口周辺に広がる庄内平野の開墾は、712(和銅4)年に出羽の国が置かれて以降、本格化しました。
当時は、比較的用水の確保しやすい沢や沼の周辺などが水田として拓かれ、その後農業土木技術の進歩とともに、水路を築き、その周辺の農地が拓かれてきました。
この地域で記録に残る最も古い水路は、1384(永徳3)年に築かれた郷野目堰です。
この水路は、現在も郷野目幹線用水路として水路網の一部として利用されています。

その後、水田の開発は更に大規模なものとなってきます。
現在では、広大な水路ネットワークの一部となる「大町溝」と「北楯大堰」による開発が知られています。

最上川の右岸を流れる「大町溝」は、最上川の支流である相沢川に水源を求める水路で、1591(天正18)年に上杉家の家臣、甘糟備後守景継により開かれた水路です。
また、左岸を流れる「北楯大堰」は、同じく最上川の支流の立谷沢川から取水する水路で、1612(慶長16)年、最上家の家臣、北楯大学助利長によって開かれました。
この北楯大堰の開削により、新たに5,000ヘクタールの水田が開発され、88の新しい村が出来たといわれます。
芭蕉が庄内の地を訪れたころは、北楯大堰の開発による水田開発が盛んに行われた時期にあたり、おそらく芭蕉もこの新田開発を目にしたのでしょう。

このように、1300年以上前から徐々に稲作に必要な技術や設備を徐々に開発し続けた結果、今日の田園風景が広がっているわけです。

人口減少を抑え、地域を発展させ、なおかつ田園風景などを侵害しない。
これら全てをクリアするために、サイエンスパークとショウナイホテルは造られました。

「ショウナイホテル スイデンテラス」を設計した坂 茂は、東京都出身の建築家です。
会社員の父と服飾デザイナーの母の下に生まれました。

成蹊小学校時代からラグビーを始め、高校では花園での全国大会にも出場しています。
成蹊中学校時代に建築家を志し、高校時代には建築雑誌で見たジョン・ヘイダックやヘイダックが教えるニューヨーククーパー・ユニオンに憧れを抱くようになります。

ジョン・ヘイダックのウォールハウス

クーパー・ユニオンを目指して1977(昭和52)年、19歳で渡米しました。
しばらく英語学校に通い、1978(昭和53)年から2年半、南カリフォルニア建築大学(サイアーク、SCI-Arc)で建築を学び、1980(昭和55)年にクーパー・ユニオンに編入します。
1982(昭和57)年から1983(昭和58)年の1年間、磯崎新アトリエに在籍したあと、クーパーユニオンに戻って1984(昭和59)年に同建築学部を卒業しました。

マイノリティ、弱者の住宅問題に鋭い関心を寄せ、ルワンダの難民キャンプのためのシェルターを国連難民高等弁務官事務所 (UNHCR) に提案し開発・試作しました。
1995(平成7)年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)後には、ログハウス(仮設住宅)や教会の集会所を、特殊加工された「紙(紙管)」で制作ました。
トルコ、インドで起きた地震に際しても、仮設住宅の建設を行っています。
2005(平成17)年に津波災害を受けたスリランカキリンダ村で復興住宅、2008(平成20)年に大地震の被害に遭った中国四川省の小学校の仮設校舎、2011(平成23)年の地震で被害を受けたクライストチャーチ大聖堂の仮設教会の建設を提案しました。

東日本大震災では、体育館などの避難所に避難したものの、ひとつの空間で多くの人々が同居している状態で、プライバシーがまったく無くて苦しんでいるが言いだせない人々のために、紙パイプと布を使いプライバシーを確保する提案(間仕切り)をし、各地の役所職員たちを説得してまわり、また仮設住宅の建設、質の向上にもかかわりました。
女川町で坂氏が提案した、海上輸送用のコンテナを使って家具を作り付けにした2-3階建仮設住宅は快適で、期限が来てもそのまま住み続けたいと希望する人々が多いと報じられました。

特に紙を利用した設計は、非常に優れたアイディアでした。

仮設住宅 内装

世田谷の坂氏デザインのカフェ

坂氏は、災害などの問題をグローバルに考えており、建築資材などをあらかじめ確保しておき、どこかの国で大災害が起きた時にそれを供給するしくみ作りも進めているそうです。
それらを行うにあたって、ただ慈善や寄付だけに頼るのではなく、通常の経済の循環の中に組み込み継続性を持たせることも進めています。
坂氏が思いついたアイディアは、まず途上国に仮設住宅の工場をつくり、その工場で作られる住宅を、災害の無い時には各国のスラム街の住環境を改善するのに用い、もし災害が起きたらそれを仮設住宅として供給するという方法です。
これで、途上国で雇用も作りだしつつ、住環境改善も実現し、災害時には苦しむ人々を救うということもできるという非常に無駄のない画期的なアイディアです。

このように坂氏は、建築だけでなく、災害時での創意工夫や今後起きる可能性のある災害に対する事前策などのアイディアを考案してきました。
なによりも日本国内のみだけでなく、世界全体としてグローバルな視点で物事を考え、またそれによって建築活動も行ってきました。

そしてこれまでの功績が認められ、2014(平成26)年には、建築界のノーベル賞と言われる「プリツカー賞」を受賞しています。

そんな建築家が設計した「ショウナイホテル スイデンテラス」とは、どのような建物なのでしょうか。

まず、上述したように、水田のある景観を見て、「これだけ素晴らしい景色があるのなら、更地にするのではなく水田を活かした建築を作りたい」という坂氏の希望から、地上2階建ての低層で、すべて木造で建設されました。

まるでウユニ塩湖のような外観

都会ではあり得ない、横長低層2階建ての贅沢な建物です。
外観は、大空や水田、鏡のようなホテル周囲の水盤(地下水)と相まって、近くで見ても、遠望しても、まるで絵画の中の世界のように見えます。

施設は共用棟、宿泊棟、温泉棟の3つの棟から構成されています。
共用棟はガラス張りで、館内から水田を見渡すことができ、外のテラスも利用可能です。
ホテルのエントランスから2階に上がると、フロントを中央にして、一方はライブラリーとショップ、もう一方には、全面ガラス張りのレストラン&バーがあります。
どこからでもランドスケープを眺めることができる設計になっています。
本当に、テラス、窓、いたるところから水田を眺めることができます

内観1

内観2

さらに天然温泉源泉かけ流しの大浴場もホテルの自慢です。
庄内地方は温泉も多く、このホテルの風呂も全て源泉かけ流しです。

浴場

館内には、坂氏のアイコンである丸い筒の“紙管”が随所に使われ、椅子やベンチ、ベッドボード、家具などが優しげな空間を演出しています。
客室も基礎部分以外は木造です。
シンプルな機能美を追求した、木造ならではの温もりある客室からは、庄内平野の原風景や中庭など、趣ある景色が広がります。

客室

宿泊棟手前には、稲穂を飾ったようなデザインの木製風避けが配置されています。

建物と風よけ

全天候型児童遊戯施設「KIDS DOME SORAI」という、子どもが自由な発想で遊べる充実した施設もあります。

KIDS DOME SORAI

KIDS DOME SORAI内部

レストランでは地産地消にこだわった庄内地方のごちそうが味わえ、施設内であればどこでも自由に閲覧できる1000冊以上の本を所蔵するミニライブラリもあります。

レストラン

このホテルは単なる宿泊施設としてだけでなく、見る、遊ぶ、知るなど多くのことが体験できる施設となっており、また地方創生の役割も担っています。

そもそも、稲作とは農業であり、衣食住のうち最も人間の生活に必要な食を支える重要な産業です。
1300年間で開発されたこの豊かな米どころの未来を支える土台としての役割が、このホテルにはあります。
そういった観点も持ってホテルを訪れてみると、単にホテルに宿泊するだけでは味わえない様々な魅力を発見することができるでしょう。

庄内地方に訪れた際は、一度ホテルやサイエンスパークに立ち寄ってみるのもいいのではないでしょうか。

 

 

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