旧イタリア大使館別荘

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栃木県の『日光』といえば、北関東エリアを代表する観光地というイメージがあると思います。
しかし実は、軽井沢(長野県)・野尻湖(長野県)・高山(宮城県)などと並ぶ「国際避暑地」として外国人文化と共に地域発展を遂げてきた歴史があることをご存知でしょうか?

今回紹介する「旧イタリア大使館別荘」も、その地域発展とともに建てられた建築物の1つです。

日光

国際避暑地としての日光の歩みが始まったのは1872(明治5)年です。
幕末から明治にかけての激動の時代に、すでにこの地域は外国人文化が流入し始めていました。

明治維新に大きな影響を与えたとされるイギリスの外交官、アーネスト・サトウが初めてこの地を訪れ、その後、横浜外国人居留地の英字新聞に4回にわたって「日光の魅力」を寄稿しました。

1875(明治8)年には、サトウの旅日記をまとめた日光ガイドブック『A GUIDE BOOK TO NIKKO』が出版されたことによって日光の地名が駐日外国人のあいだで広く知れ渡るようになりました。
この働きにより、中禅寺湖畔に別荘を構える大使館関係者が増えたといいます。

アーネスト・サトウ

日光は、古くは鎌倉時代以降、日光権現を祀る山々が知られるようになった宗教地域です。
そのため、江戸時代に徳川家康および徳川家光などの江戸幕府の初期の将軍によって徳川家の廟地となりました。

徳川時代以降は、日光東照宮の鳥居前町として参拝客で賑わいました。
これ以降、「日光を見ずして結構と言うこと莫れ」という言葉で、日本中に観光地・景勝地として知られるようになりました。
徳川埋蔵金云々といった伝説もあるほどです。

日光東照宮

徳川家康

上述したように、明治時代に入ると海外でも景勝地として知られていた日光東照宮や中禅寺湖、日光湯元温泉などを外国人が訪れるようになり、外国人に対応した宿泊・滞在施設が整備され、国際観光都市としての体裁が整えられていきました。

明治中期から昭和初期にかけて、中禅寺湖畔に建ち並んだ外国人別荘は40棟以上あります。
「夏は外務省が日光に移る」とまでいわれていたそうです。

そういった話からも、当時の華やかであった国際避暑地の様子が窺えます。

山と湖がある奥日光の風景は、イタリアのコモ湖やフランス・スイスにまたがるレマン湖など、ヨーロッパの避暑地とどこか似ているところがあるようです。
日本に駐在している外国人の方にとっては故郷を想わせる風景だったことから、この場所が好まれたといわれています。

コモ湖

当時は『内地旅行規制』という問題があり、外国人が日本国内で自由に旅行できる場所は限られていました。
そしてその限られた場所の一つが日光だったということもあって、大使館関係者が東京と日光を行き来するようになったそうです。

「旧イタリア大使館別荘」は、1928(昭和3)年、アントニン・レーモンドの設計により中禅寺湖畔に建設されました。

アントニン・レーモンド

アントニン・レーモンドは、父アロイと母ルジーナの子で、アントニーン・ライマンとしてオーストリア=ハンガリー帝国(現在のチェコ)クラドノで生まれました。
プラハ工科大学で建築を学び、卒業後の1910(明治43)年にアメリカへ移住します。
カス・ギルバートの下で働き、1914(大正3)年には仕事仲間であったノエミ・ベルネッサンと結婚し、1916(大正5)年にアメリカの市民権を得るとともに姓をレーモンドに改姓しました。

つまり、生まれは現在のチェコでしたが、1916年以降はアメリカ人国籍となっています。

そして妻ノエミの友人の紹介で、フランク・ロイド・ライトの事務所に入所します。
1918(大正7)年に第一次世界大戦が勃発すると、アメリカ軍から徴兵され、一旦はライトの下を離れます。
その後、大戦終了後にライトから帝国ホテル設計のための日本行きを打診され、再びライトの下で働くことになりました。
ライトの弟子の1人ということになります。

フランク・ロイド・ライト

1919(大正8)年、帝国ホテル設計施工の助手としてライトと共に来日します。
そして1922(大正11)年に独立し、レーモンド事務所を開設しました。

ライトの影響が余りに強烈であったため、そこから抜け出すのに苦労したそうです。

聖路加国際病院などの設計をベドジフ・フォイエルシュタインと共同で行ったほか、ル・ランシーの教会堂をコピーした東京女子大学礼拝堂を建設しました。
その後、モダニズム建築の最先端の作品を生み出すようになりました。
その頃の作品に「旧イタリア大使館別荘」があります。

レーモンドの弟子には、前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなどの建築家がいます。

前川國男

さて、今回の「旧イタリア大使館別荘」ですが、現在はイタリア大使館別荘記念公園となっています。
1997(平成9)年まではイタリア大使館別荘として使用されましたが、建物を修築・復元した上で公園として整備し、一般公開しています。

イタリア大使館別荘プロジェクトを引き受けたレーモンドは、ともに帝国ホテル設計にも携わっていた内山隈三、そして伝統的工法だけでなく新しい技術を取り入れることにも抵抗のなかった日光大工の名棟梁・赤坂藤吉と協働して作業を進めていきました。
赤坂は、オープンプランの間取りにも伝統的な尺貫法による間(けん)を用い、建材選びを助けたほか、天然の木材の扱いにおいて驚くべき能力を発揮しました。

モダンでありながら日本建築の伝統を反映したレーモンドのデザインは、用いた自然素材と絶妙に一体化していて、建物が見事に周囲の環境に溶け込んでいます。

外観1

外観2

南東にある玄関から中に入るとすぐに、大きな部屋があり、中央が居間になっています。
北側の書斎には、造りつけの本棚と大使の大きなデスクがあります。

居間

南側にはダイニングルームがあり、その奥には小さな休憩室があります。

ダイニング

書斎とダイニングには、玉石を動きのあるデザインにあしらった見事な暖炉があり、杉皮と美しく対比しています。
この対比がこの別荘に特徴的なラスティックな雰囲気を醸し出しているといえます。

暖炉

1階の4つの部屋では、大きな窓とベランダから湖の素晴らしい眺めが望めます。
ベランダは引き戸と雨戸で覆われていますが、暖かい日にはこれらを開け放ち、風景を直接楽しむことができます。
室内からの眺めが生み出す効果は絶大で、日本の伝統的な「借景」の考え方が生きています。

ベランダ

日中は、ここから外を眺めると、段になったテラス越しに、岩壁から傾斜する小さな砂浜と、透き通った水をたたえた穏やかな湖、その向こうの山々が見えます。
そして夕暮れ時の夕日を眺めるのも、暗くなってからの月の眺めも劣らず美しいです。

建物南東の角、ダイニングルームの裏側に、キッチン、パントリー、バスルーム、ユーティリティエリアがあります。
使用人たちのためには別に動線が設けられていて、家の裏手から2階の寝室エリアに上がる階段もあります。

寝室は4部屋あり、全ての部屋にたっぷりと造りつけ収納が用意されています。
それぞれの寝室の内装とカーテンにはテーマカラーがあり、色で部屋を呼び分けていたそうです。

寝室

この別荘の最もユニークな点は、外壁と内壁の両方で広範にわたって地元の木材・日光杉が使用されていることです。
杉は日本の住宅や別荘では一般的に用いられる木材ですが、こちらでは屋根のこけら板や壁材にもふんだんに使われ、寄せ棟屋根や軒も杉皮で覆われています。

塗装仕上げは一切なく、杉の柱は砂で磨かれています。
内部の壁と天井は、いろいろな模様で覆われています。
杉皮を割り竹で固定し、市松、網代、亀甲、矢羽など多彩な柄のパッチワークで建物全体が仕上げられています。

天井

内壁

外壁

大使館スタッフや使用人は、本邸裏手の東側にある、同じくレーモンドが設計した別館に滞在しました。
こちらの小さい建物には、リビング・ダイニング、寝室、バスルーム、キッチンがあり、小さなベランダからは敷地の三方を囲む美しい森の眺めが見渡せます。

この建物の所有権は1997(平成9)年に栃木県に移り、県が2年間かけて建物の修復を行ったのち、記念公園の一部として一般公開されています。

日光に訪れた際は、東照宮だけでなく、この自然と調和した建物である旧イタリア大使館別荘を訪れてみるのも良いのではないでしょうか。

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