大阪広域環境施設組合 舞洲工場
大阪に浮かぶ人工島「舞洲(まいしま)」。
この場所は、新都心の開発を目指して、1988(昭和63)年に策定された「テクノポート大阪」計画の対象となった人工島3地区の一つです。
大阪北港の一画を占め、レジャー施設や物流拠点などが誘致されています。
舞洲
そんな島に、実は、世界一美しいゴミ処理場があります。
それが『大阪広域環境施設組合 舞洲工場』です。
なぜゴミ処理場がそんなに美しいのでしょうか。
それは、実は世界的な建築デザイナーであるフンデルトヴァッサーがデザインしたユニークな建物だからです。
フンデルトヴァッサー
舞洲は、大阪市西部の大阪港北港に位置する人工島です。
行政上は此花区に属し、「北港緑地」と「北港白津」の2つの町名が設定されています。
島は3つの道路橋で島外と接続していて、「常吉」とは北側にある常吉大橋で、「北港」とは東側にある此花大橋で、「夢洲」とは南側にある夢舞大橋で、それぞれ結ばれています。
また、東側が物流・環境ゾーン、西側がスポーツ・レクリエーションゾーンと位置づけられています。
1972(昭和47)年7月、廃棄物処理・埋立場として此花区地先水面を埋め立て、埠頭用地、公園緑地、護岸等公共用地の造成を行う事業が認可決定されました。
舞洲の愛称で呼ばれている埋立地の名称は「北港北地区」です。
1987(昭和62)年、「北港北地区」では廃棄物の受け入れを完了しました。
1989(平成元)年が市制100周年に当たることから、臨海部開発構想の検討が1983(昭和58)年に大阪市制100年記念事業として始まり、「テクノポート大阪」構想として策定されました。
この構想において、北港北地区には文化リクリエーション施設などを開発し、2010年度には従業人口1万人、昼間人口2万2千人の規模を達成する計画でした。
1991(平成3)年、「舞洲」という愛称が一般公募により定められ、咲洲・夢洲も同時に命名されました。
ちなみに、舞洲の南西にある夢洲は2025年の大阪万博のメイン会場となっていて、現在開発が進められています。
咲洲
舞洲をスポーツ施設を集積した「スポーツアイランド」とする構想は1990(平成2)年よりあり、人工スキー場やゴルフ場を設ける案もあったといいます。
1997(平成9)年の第52回国民体育大会に向けての施設整備が進められ、舞洲ベースボールスタジアム(軟式野球)、舞洲アリーナ(バスケットボール)、舞洲球技場(ホッケー)が試合会場となりました。
1990年代末より進められた、2008(平成20)年の夏季オリンピック招致構想(大阪オリンピック構想)では、舞洲がメイン会場とされました。
しかし2001(平成13)年のIOC総会で開催地は北京と決定し、落選してしまいました。
オリンピック誘致失敗後は、未開発地の活用が課題とされていました。
その後、プロサッカークラブのセレッソ大阪が練習場を設けたのを皮切りとして、プロ野球球団オリックス・バファローズが練習拠点・2軍本拠地を設置、プロバスケットボールチームの大阪エヴェッサが本拠地としました。
しかしながら、「鉄道が存在しない」という致命的なアクセスの悪さが相まって、市民から絶大な人気を得るには至っていません。
舞洲の入り口に大きく建てられているのが、今回ご紹介する『舞洲工場』です。
ゴミ処理場がどこにあるかなんて、迷うことはきっとないでしょう。
なぜなら、この奇抜な外見の巨大な建物は、島内のどこからでも目立って見えるからです。
こちらのゴミ処理場ですが、2008(平成20)年のオリンピック誘致の際、島を魅力的にする一貫として建てられました。
総工費は609億円です。
しかし残念ながら、2008年に大阪が選ばれることはなく、市民から無駄使いだと非難を浴びることになってしまいました。
上述した通り、電車もないのでアクセスが悪すぎ、現在もそこまで人気があるとはいえないからです。
ただ、日本全国のゴミ処理場見学という点において見ると、2001(平成13)年から2007(平成19)年までの7年間の年平均見学者数は約1万7,000人です。
この数は、他の清掃工場と比べて3倍以上となっています。
また、2017(平成29)年になると、観光名所として年間約1万2千人が見学に訪れ、そのうち3割が外国人だそうです。
この建物を設計したのは、フリーデンスライヒ・レーゲンターク・ドゥンケルブント・フンデルトヴァッサーという、オーストリアの芸術家、画家、建築家です。
ウィーンで1928(昭和3)年、エルンスト(Ernst Stowasser)とユダヤ系チェコ人の母エルゼ(Else)のもとに生まれました。
実家のシュトーヴァッサー家はシレジア地方(オーストリアン・シレジア)の家系で、オパヴァの古典文献学者ヨーゼフ・マーリア・シュトーヴァッサーは親戚です。
ウィーン
幼い頃、森で花を摘み、押し花にするのが好きだったフンデルトヴァッサーは、花の色をきれいなまま残したいと絵を描き始めます。
しかし、彼が10歳になった1938(昭和13)年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合し、支配下に置かれました。
父は既に死亡しており、母はユダヤ系であったため親子はユダヤ人街へ追いやられ、その地下室で暮らし始めました。
フンデルトヴァッサーは当時について「午前2時になると恐ろしい親衛隊の男たちが警報を鳴らし、何度もドアのところにやって来た」と語っています。
第二次世界大戦後、フンデルトヴァッサーは画家を志し、スケッチブックを手に旅に出ます。
訪れたのは北アフリカの広大な台地。
彼を惹きつけたのは、床も壁も赤い土で出来た伝統的な土の家でした。
自然と共に暮らす、そんな生き方に共感し、夢中になって自らの思いをキャンバスにぶつけます。
しかし、ひとたび都市に戻ると、戦後の建設ラッシュが始まっていました。
新しい建物はみな角ばっていて、灰色、無機質で画一的。
それは人を閉じ込める刑務所のように見えたそうです。
そうした建築に違和感を覚えたフンデルトヴァッサーは、「血を流す建物」(1952(昭和27)年)で、四角い高層建築の壁が赤く傷つき血を流しているような独特の建物を造り、創作活動を始めます。
そしてある時、フンデルトヴァッサーの作品に渦巻きが登場します。
「円に流れる血 私は自転車を持っている」(1953(昭和28)年)ではどこまでも果てしなく続く曲線で、一方で断固拒否したのは定規で引いたような直線でした。
フンデルトヴァッサーの残した言葉に、「自然の中に唯一存在しないものが直線である。社会や文化が存在しないこの直線に基づいているとすれば、やがてすべては崩壊するだろう」というものがあります。
彼にとって、無機質な直線に比べ、渦巻きは植物のように成長する命の象徴でした。
自然への畏敬の念をこめた作品「わたしはまだわからない」(1968(昭和43)年)は、次第に世界で高い評価を受けるようになりました。
ウィーン美術アカデミーで学んだフンデルトヴァッサーは、1981(昭和56)年から母校の教授を務めました。
自然を愛した彼は、建築でも自然への回帰を唱え、曲線を多用した独自の様式を編み出します。
日本での作例には、
・TBSの「21世紀カウントダウン時計」(東京都赤坂、1992(平成4)年)、
・キッズプラザ大阪の「こどもの街」(大阪市北区、1997(平成9)年)、
・大阪市環境局舞洲工場(現「大阪広域環境施設組合舞洲工場」、大阪市此花区、ゴミ処理場、2001(平成13)年)
・大阪市舞洲スラッジセンター(大阪市此花区、下水汚泥処理施設、2004(平成16)年)
があります。
21世紀カウントダウン時計
こどもの街
舞洲スラッジセンター
また、日本の風呂敷を「美しくて、無駄がない」として賞賛し、1997(平成9)年に12種類の風呂敷絵を描き、商品化もしています。
フンデルトヴァッサーは、2000(平成12)年に、晩年を過ごしたニュージーランドに向かう客船の上で亡くなりました。
舞洲工場やスラッジセンターの完成を見ることはありませんでした。
舞洲工場に行くとわかりますが、本当に、ゴミ処理場感がありません。
遠くから見ると、まるで遊園地です。
外観1
外観2
舞洲工場の門の周りは森に囲まれています。
門
建物には窓が異様に多いように見えますが、ほとんどは装飾の窓で、本物ではありません。
建物の窓
上述したように、自然界に直線や同一物が存在しないことから、舞洲工場のデザインには曲線や、サイズや形の違う窓が使用されているようです。
壁面のオレンジや赤のストライプ模様は、ゴミを焼却する炎をイメージしたそうです。
巨大な塔の正体は、ゴミを焼却したときに発生する煙のための煙突です。
なんとなくですが、太陽の塔に似ているような気もしますよね。
煙突
柱までもがカラフルなデザインです。
フンデルトヴァッサーの意向により、柱一つ一つが違うデザインになっているそうです。
まるで絵本の中の世界のような感じです。
建物の中は、モザイク模様の装飾が施されています。
ゴミ処理場とは全く思えないほどおしゃれな内装です。
廊下の床やスロープもやはり曲線的に造られています。
ちなみに、会議室っぽい部屋は、割と普通の会議室です。
さすがにここで毎日働く方のことを考えると、そういう部屋も必要です。
しかし、部屋から一歩外に出ると、またゴミ処理場らしからぬ内装が広がります。
3階には見学者用に作られたのであろう洞窟っぽい装飾もあります。
内観1
内観2
内観3
内観4
ゴミ処理場の機能としてはどうなのかというと、実は超最先端です。
ゴミ処理で出た蒸気を利用して発電し、この電力をこのゴミ処理場の電力として利用しています。
さらには、余った電力を電力会社に供給もしています。
また、ごみの燃焼時に出た有害ガスは、ろ過して煙突から排出するなど、かなり高度な技術を使っています。
SDGSが叫ばれる昨今ですが、大阪のこのゴミ処理場は2000(平成12)年頃からすでにそういう取り組みを行っているのです。
ゴミ処理風景
舞洲工場は、デザインだけでなく、機能面や環境面においても、世界一美しいゴミ処理場ということです。
余談ですが、このゴミ処理場の各地に設置してある金の玉ですが、1つ100万円とよくニュースでやっていました。
その玉が100個以上設置してあるので、、まぁそういうことです。
金の玉
舞洲工場は、外観見学はいつでも可能です。
しかし、内部を見学するには事前予約が必要になります。
また、オープンデーという、年に何回かしかない日であれば、予約がなくても自由に見学できるようです。
見学をしたいのであれば、まずはホームページでオープンデーや予約可能な日をチェックしましょう!
ちなみに、2025(令和7)年の大阪・関西万博では夢洲がメイン会場になるため、3つの島でいろいろと工事が進められているようです。