根津美術館

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東京都港区、表参道駅近く、都心のど真ん中に位置する「根津美術館」。
東武鉄道の初代社長を務め、さまざまな鉄道会社の経営に携わったことから「鉄道王」と呼ばれた根津嘉一郎(ねづかいちろう)。
彼の日本と東洋の古美術コレクションをもとにつくられた、日本では数少ない戦前から続く美術館です。

東武鉄道

根津嘉一郎

地下鉄銀座線、半蔵門線、千代田線の表参道駅A5出口から、みゆき通りにそって歩くこと8分ほど。
最初に訪れた際は少しびっくりするかもしれません。

表参道

交差点の向こう側に、豊かに生い繁った竹の生垣(いけがき)が見えます。
「え、都心に生垣?」と驚きながらも信号を渡り、美術館の正門へ入っていきます。

生垣

「根津美術館」は、日本・東洋の古美術品コレクションを中心に、7,400点以上のコレクションを持つ美術館です。
また、「和」をイメージしたモダンな現代建築と日本庭園の融合も見どころの一つです。


根津美術館の現在の英称は「Nezu Museum」。
以前の英称は「Nezu Institute of Fine Arts」でした。
もともとは、1941(昭和16)年11月、東武財閥の創設者で、現在の武蔵大学・武蔵高等学校・武蔵中学校の創立者である初代根津嘉一郎の古美術コレクションを引き継いだ財団法人根津美術館が、邸宅を改装して開館しました。
藤井斉成会有鄰館、大倉集古館、白鶴美術館、大原美術館などと共に、第二次世界大戦以前からの歴史をもつ、日本では数少ない美術館のひとつです。

武蔵大学

当初は収蔵品は4,643点だったのですが、その後収蔵品が増え、2009(平成21)年時点で 6,874件。
2016(平成28)年3月末の時点で 7,420件(国宝7件、重要文化財87件、重要美術品94件を含む)を数えるほどになりました。

江戸時代、現在の根津美術館がある敷地には、江戸定府を務めた河内国丹南藩藩主・高木家(美濃衆の一家)の江戸下屋敷がありました。
江戸幕府が滅びた後、高木家は1869(明治2)年に定府の任の免除を朝廷に願い出るべく京都に赴き、これを認められます。
その後、二度と東京に戻ることがなかったため、主に打ち捨てられた江戸下屋敷はすっかり荒れ果ててしまうことになります。

初代根津嘉一郎は、故郷から東京へ本拠を移し、ちょうど10年後の1906(明治39)年になって、この荒れ果てた土地を取得ました。
そして邸宅の建設を始めると共に、数年がかりでの造園にも着手しました。
初代の没後、家督を継いだ2代目がこの邸宅を美術館に改装することになりますが、その際、母屋を本館としました。

収集品は、主に日本・東洋の古美術で、その高い質と幅の広さに特色があります。

第2次世界大戦前の実業家の美術コレクションは、茶道具主体のものが多いものでした。
根津コレクションは、茶道具もさることながら、仏教絵画、写経、水墨画、近世絵画、中国絵画、漆工、陶磁器、日本刀とその刀装具、中国古代青銅器など、日本美術・東洋美術のあらゆる分野の一級品が揃っています。

刀装具においては、光村利藻が収集した光村コレクション3,000点のうち約1,200点を収蔵しています。
嘉一郎の豪快な収集ぶりは、「根津の鰐口(ねづのわにぐち)」と称されたといいます。

収蔵品1

収蔵品2

収蔵品3

さて、そんな初代根津嘉一郎は、どのような人物だったのでしょうか。

根津嘉一郎は、甲斐国山梨郡正徳寺村(現山梨県山梨市)に生まれました。
根津家は雑穀商や質屋業も営む豪商で、「油屋」の屋号を有していました。

『根津翁伝』によれば、1877(明治10)年に山梨郡役所の書記として働いていましたが、民権運動にも携わっています。
嘉一郎は長兄の死により家督を相続し、1889(明治22)年に村会議員となった後、東京へ進出しています。
若尾逸平や雨宮敬次郎と知り合い、甲州財閥を形成し、1891(明治24)年には渡辺信、小田切謙明、佐竹作太郎ら名望家とともに鉄道期成同盟会を結成し、中央本線の敷設運動を行いました。
第一徴兵保険会社や帝国火災保険、富国徴兵保険など保険会社の資金を運用し、東京電燈の買収などにも関わっています。
1905(明治38)年には東武鉄道の社長に就任し、経営再建に取り組みました。

その他にも経営に行き詰まった企業を多く買収し再建を図ったことから、「火中の栗を拾う男」「ボロ買い一郎」との異名や揶揄を与えられることもあったそうです。
資本関係を持った鉄道会社は25社に及び、多くの会社において名誉社長などに就任しています。
その中の数社には同じ甲州出身の早川徳次を送り込み、経営を任せて再建しています。

根津翁伝

早川徳次

1904(明治37)年以降、衆議院議員を連続4期務め、1926(大正15)年12月より勅選貴族院議員に就任しています。
「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと教育事業も手がけ、1922(大正11)年に旧制武蔵高等学校(現在の武蔵大学、武蔵高等学校・中学校)を創立しました。

また茶人としても知られ、「青山」と号して茶道を嗜み、多くの茶道具や古美術を収集しました。
甲州財閥をはじめとする実業家は茶道を嗜む人物が多く、彼らは茶会を、古美術の鑑賞目的以外に、情報交換の場として利用したそうです。

生前から宮島清次郎(日清紡績会長)の紹介で吉田茂とも面識を得ていましたが、死後、遺族に課税されるはずだった莫大な相続税を、東京財務局長の池田勇人が美術館への寄贈名目として特例で免除したことから、根津の遺族と池田勇人の関係が深まり、これが後に池田内閣成立に繋がっていくことにもなります。

池田勇人

このように、当時の日本の様々な事業や鉄道会社、内閣にまで影響を及ぼすほどの人物だったということがわかります。

彼の没後は、長男・藤太郎が2代目嘉一郎を名乗り、東武鉄道の経営を引き継ぎました。
2代目嘉一郎の退任後は、社外出身社長の時代を経て、現在は孫に当たる2代目嘉一郎の次男・根津嘉澄が社長を務めています。

さて、根津美術館に話を戻しましょう。
実は、現在の展示棟は2009(平成21)年にリニューアルされたものです。
開館時の建物は、根津邸の母屋を改装して造られましたが、空襲で大部分を焼失しました。
幸いにも美術品は疎開により無事だったため、焼け残った洋館を利用し、バラックで展覧会を再開したのが1946(昭和21)年のことです。
1954(昭和29)年には本格的な展示棟が再建され、1990(平成2)年には新館も開館しました。
その後、2006(平成18)年からリニューアル工事を行い、2009(平成21)年に現在の展示棟が完成しました。

設計を担当したのは、日本を代表する建築家・隈研吾氏です。
現在残っているのは、このリニューアルされた本館と、現在は事務棟となっている1990(平成2)年開館の新館のみです。

外観

隈 研吾は、このブログでも度々登場していますが、日本の建築家(一級建築士)で、デザイナーです。
超有名人ですね。
株式会社隈研吾建築都市設計事務所主宰で、東京大学特別教授、高知県立林業大学校長、岐阜県立森林文化アカデミー特別招聘教授です。
神奈川県横浜市出身で、1990年代半ば以降(ゆすはら座関連設計以降)、木材を使うなど、「和(日本)」をイメージしたデザインを旨としています。
「和の大家」とも称される人物です。

※ゆすはらに関しては以前にも一度紹介しておりますので、そちらの記事を参考にしてください。

隈研吾

根津美術館は、近代的なセンスと「和」の雰囲気を巧みに融合した建築作品として、国内外から高い評価を受けています。
建物外観は、日本家屋を思わせる大きな屋根と、モダンな外装が印象的です。

美術館入口から正門を振り返ると、竹の廊下の美しさがよく分かります。
建物にそって回り込むように竹の廊下をくぐり抜けると、目の前がぱっと開けて、左手に根津美術館展示棟の入口が現れます。
地上2階、地下1階の大きな建物ですが、一部はガラス張りになっており、どこかゆったりとした開放感があります。

竹の廊下

エントランスホールは、大きなガラス張りの窓から自然光が差し込み、明るく広々とした印象です。
窓と壁に沿うように10体の仏像が展示されています。

エントランス

1階にはホールと展示室1・2・3、ミュージアムショップがあり、2階には展示室4・5・6があります。
1階のホールには、白大理石製の如来立像(北斉時代、総高291cm)をはじめ、中国の石仏が常設展示されています。
展示室1は企画展示室で、定期的に展示物が変わります。
展示室2には絵画・書跡、展示室3には仏像、展示室4には中国青銅器、展示室5には工芸品、展示室6には茶道具が、それぞれ展示されています。
展示物だけを見ても、非常に古い時代の珍しいものが多いです。

展示室

外に出てみると、かつては根津嘉一郎邸の庭園であった場所があります。
自然の傾斜を生かし、池を中心とした日本庭園で、庭内には4棟の茶室や薬師堂などの建物のほか、石仏・石塔・石灯籠などが点在します。
都心とは思えない本格的な日本庭園で、一歩足を踏み入れただけで、目の前に四季折々の自然ゆたかな景色が広がります。
森の中にいるようにさわやかな空気は、ここが東京だということを忘れさせてくれるほどです。

庭園

庭園を整えている庭師さんは、戦後から親子3代にわたって根津美術館の庭づくりに携わっているそうです。
庭園にはこのほかにも、来園者を楽しませるための技とこだわりが随所に光っています。

例えば「吹上の井筒」。
美術館1階に「庭園口」という出口があるので、そこから庭園に出て、ゆっくりと遊歩道を下りてみましょう。
大きな池の中央に置かれた、四角い石造りの「井筒」が見えます。
この井筒からは池の水が湧きだしており、「吹上」の名の由来となっています。
周囲には木々が繁り、古都の山奥を訪ねたかのような、幻想的な風景です。

吹上の井筒

そして、「薬師堂」という、薬師如来の像を安置するための仏堂もあります。
孟宗竹が周囲を囲うように生い繁っており、「薬師堂の竹林」と呼ばれています。
屋根の四面がすべて三角形になる「宝形造(ほうぎょうづくり)」という様式で造られています。
さやさやと竹の葉擦れが聞こえる静かな空間で、古都の趣を感じさせる薬師堂を目の前に、本当にここは東京なのかと疑いたくなります。

薬師堂

ほかにも、初夏の青葉も晩秋の紅葉も美しい「披錦斎(ひきんさい)の紅葉」や、ゴールデンウィークの頃に満開を迎える「弘仁亭の燕子花」などもあり、季節によって異なる風景が楽しめます。

また、この美術館は尾形光琳の燕子花図屏風を所蔵することで知られていますが、庭園の一角にはカキツバタが群生の形で植えられていて、花の季節には作品と実物を共に鑑賞することができるようになっています。

燕子花図屏風

館内にはカフェやショップも併設されていて、のんびり過ごすこともできるのでおすすめです。

根津美術館は、都会にありながら、東洋の美術品や四季の移ろいを感じられる特別な場所です。
ぜひ一度、訪れてみてはいかがでしょうか。

 

 

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