楽々荘

Pocket

京都といえば、日本古来の建物や明治大正期の有名建築がずらりといったイメージです。
しかし、それはあくまでも「京都市」という土地のことです。
京都の他の街には、あまりそういったイメージはないのではないでしょうか。

THE京都の清水寺

例えば「京都府亀岡市」。
この街は、京都市から電車ですぐ行ける距離にありながらも、「観光」とかそういった感じが全くありません。
今でこそ、京セラスタジアムがあるので京都サンガのサッカーの試合が観られるという利点はありますが、それでもやはり有名建築なんて・・・といったイメージです。

京都サンガスタジアム

ですが、実は亀岡市にもいくつか有名な建築があります。
今回ご紹介するのは、亀岡市にある『楽々荘』という建物です。
この建物は、明治~大正時代に関西政財界で活躍した田中源太郎が生家を改築・拡張した邸宅です。
現在は、「がんこ」という関西では有名な和食懐石チェーンが、邸宅を利用して出店しています。

がんこ

さて、この建物について説明する前に、まずはこの「亀岡市」という土地と「田中源太郎」という人物について解説します。

まずは亀岡市。
亀岡は、日本史(特に戦国史)が好きな方はすぐにわかると思いますが、旧名があります。
それは「亀山」です。

昨年大河ドラマでやっていた、あの明智光秀が城主を務めた亀山城があった場所です。
そしてこのあたりは、明智光秀が作り上げた城下町があった場所ということになります。

明智光秀

亀山城は、織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に1578(天正6)年に築城し、その年に完成したと考えられています。
ただ、1577(天正5)年の1月晦日付の光秀の書状に、亀山に惣堀の普請を国衆の長沢又五郎らに命じたと記されていることから、1576(天正4)年には築城計画が存在していたとする見方もあります。
なんにせよ、この城は、織田信長の命で明智光秀が作った城ということになります。

亀山城には、丹波の他の城と異なり、総構えが掘られています。
このことから、一国の拠点になる城として、それにふさわしい威容を誇っていたといえるでしょう。
丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点となりましたが、光秀は1582(天正10)年に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れ、逃走中に討死にします。
その後は、天下を統一した秀吉の重要拠点として、一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫 )・豊臣秀俊(小早川秀秋)や、豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などが入っています。

秀吉の死後に天下を手中にした徳川家康もこの城を重要視し、1609(慶長14)年に、譜代大名である岡部長盛を入封させ、丹波亀山藩主に任じました。
さらに「天下普請」により、幕府が西国大名に命じ、近世城郭として亀山城を大修築しました。
藤堂高虎が縄張りを勤め、1610(慶長15)年夏ごろに完成し、本丸には五重の層塔型天守が上がりました。
1748(寛延元)年以降は、形原松平氏が居城し、1869(明治2)年に亀岡藩へ改称し、1871(明治4)年に亀岡県が置県され、廃藩となりました。

ほどよく京の都に近い立地から、要所としてかなり重要に扱われてきた城だといえます。
有名武将たちがずらりと列挙されていたのが、その証拠ですね。

このように、亀岡という土地は、実は戦国時代~江戸時代にかけて非常に重要な土地だったことがわかります。
そして次は、そんな土地で生まれた田中源太郎という人物について解説します。

田中源太郎

田中源太郎は、1853年2月10日(嘉永6年1月3日)に、丹波国桑田郡亀山北町(現在の京都府亀岡市)で田中蔵一の次男として生まれました。
兄が早くに亡くなったため、田中家の家督を継ぐべく英才教育を受けて育ちました。
江戸末期の話です。

北村龍象の私塾学半堂や、横井忠直、山本覚馬らにも師事し、儒学、政治経済など幅広い分野で優秀な成績を修めたとされています。
田中家は、代々亀山藩の御用商人として取り立てられた商家として栄え、父・蔵一は櫓奉行格に取り立てられ、会計方として亀山藩に仕えていた人物でした。
そのため、源太郎も経済界で活躍することを期待されて育てられました。

激動の明治期に、源太郎は、様々な事業の設立に関わっています。
源太郎が実際に設立に関わったとされる事業は、30を超えます。
中でも著名なのは、
・現在の京都銀行の前身「亀岡銀行」の設立
・のちに京都証券取引所となる「京都株式取引所」
・「京都電燈株式会社」
・「京都鉄道株式会社」
などです。

また政界においては、1874(明治7)年に桑田郡追分村戸長を務めたのを皮切りに、京都府議会議員、衆議院議員、貴族院多額納税者議員なども務めました。
文字通り、関西政財界のトップとして君臨し続けたのです。

その他、現在の立命館大学の前身「京都法政学校」の設立にも、浜岡光哲らとともに賛助員として加わっています。

立命館大学

親の英才教育の甲斐あってか、政財界ともに凄まじい功績を立て続け、当時の関西を支えた人物の一人といえます。

しかし、1922(大正11)年4月3日、源太郎自身がかつて社長をつとめた京都鉄道の国有化後の後身である山陰本線の園部発京都行き列車に乗車中、清滝付近(現在の嵯峨嵐山・保津峡間付近、現在はトロッコ列車(嵯峨野観光鉄道・嵯峨野観光線)の線路となっている)の保津川橋梁上で起きた脱線事故に巻き込まれ、列車もろとも保津川へ転落して亡くなったと言われています。

・・・しかし、亀岡駅周辺の土地所有に絡む利益誘導に怒った地元民によって暗殺されたという説もあります。
一方、大金持ちの事故死ということで、様々な憶測が生まれた可能性もあり、遺体が発見されなかったことについては、否定する証言もあります。

政経リポート2004(平成16)年4月5日号掲載「保津峡秘話」には、以下のような遺体発見者の証言があります。

——————————————————————————
附近の水面を探したが、水死体は見付からなかった。
そこは長年のカンで直ぐ川に飛び込み側崖の下へ潜った。
そこにはいくつもの洞穴があるんです。
果して、その洞穴の一つの水面に水死体が浮かんでいた。

嵐山の建設会社・大島組社長談
——————————————————————————

と、このように源太郎の死についてはいろいろと謎が残っています。

さてそんな人物が残した邸宅ですが、そこは元々彼の生家で、江戸時代から続く建物でした。
それを源太郎が改築したのが、現在の楽々荘となります。

煉瓦造りの洋館は、1898(明治31)年頃に本邸として、書院造りの和館は、同年頃に迎賓館として建設されました。
洋館と和館の前に広がる650坪の枯池泉回遊式庭園は、七代目小川治兵衛の作庭で、安土桃山時代の石燈籠や鉄製井筒などが亀山城から移設されています。

この七代目小川治兵衛についても少し解説しておきます。
その道では非常に有名人です。

小川治兵衛

「植治」の屋号でも知られる七代目小川治兵衞は、本名を源之助といい、山城国乙訓郡神足村(現在の京都府長岡京市)に生まれました。
1877(明治10)年に宝暦年間より続く植木屋治兵衛である小川植治の養子になり、1879(明治12)年に七代目小川治兵衛を襲名しました。

植治は、明治初期、京都東山・南禅寺界隈に新たに形成された別荘地において、東山の借景と琵琶湖疏水の引き込みを活かした近代的日本庭園群(南禅寺界隈疏水園池群)を手掛けたことで有名です。
琵琶湖疏水は、計画段階では工業動力としての水車に用いることが期待されていたものの、その後、工業動力としては水力発電が採用され、1890(明治23)年に疏水が完成した時には、水車用水としての用途はなくなっていました。そこで植治は、1894(明治27)年、並河靖之邸の七宝焼き工房に研磨用として引きこんだ疏水を庭園に引きます。

次いで山縣有朋の求めに応じて、庭園用を主目的として疏水を引きこんだ無鄰菴の作庭を行いました。
これを草分けとして、植治は自然の景観と躍動的な水の流れをくみこんだ自然主義的な近代日本庭園を数多く手がけ、それらを設計段階から資材調達、施工、維持管理まで総合的に引き受けていくことになります。

無鄰菴

植治の作庭には、無鄰菴を始め、平安神宮、円山公園、清風荘(西園寺公望別邸)、対龍山荘(市田弥一郎邸)など、国の名勝に指定されたものが多くあります。
また、旧古河庭園、京都博物館前庭、野村碧雲荘、住友家(有芳園・茶臼山邸・鰻谷邸・住吉・東京市兵町邸)・三井家・岩崎家・細川家の各庭園など、数多くの名庭を残しています。

そのほか、京都御苑と京都御所、修学院離宮、桂離宮、二条城、清水寺、南禅寺、妙心寺、法然院、青蓮院、仁和寺等の作庭および修景、大正元年御大典挙行のための京都御所御苑改造や桂離宮、修学院離宮、二条離宮庭園らの改造、大正三年と昭和二年の各大嘗祭悠紀・主基両殿柴垣や周囲築堤も拝命し手がけています。

平安神宮

植治は、1933(昭和8)年12月2日、74歳で亡くなりました。
墓は仏光寺本廟の境内の西南隅、小川家一族の墓域内にあります。

これでおわかりいただけたと思いますが、この人物は京都の様々な有名観光名所の庭園を造り上げた人物です。
この人がいなかったら、今の京都の観光名所はまた違ったものになっていたのではないでしょうか。

と、まぁそういう人物が、今回の楽々荘の庭園を造り上げています。
そういった背景からも、楽々荘という建物の価値は非常に高いといえます。
戦後はホテルとして利用されてきましたが、現在は和食懐石のがんこがレストラン経営をしています。

では、楽々荘について見ていきましょう。

山陰本線亀岡駅から市街地を西へ進んで程なくすると、屋根塀で囲まれた大きな邸宅が見えてきます。
雑水川に面しカーブするように立派な板塀と石垣が続き、やがて左手に曲がると、楽々荘の玄関が現れます。
玄関には「がんこ」の看板や旗、メニューが飾られているので、間違えることはまずないでしょう。

玄関

楽々荘は、レンガ造りの洋館と、書院造の日本館からなっています。
洋館は外周にベランダを廻らせたコロニアル様式で、このスタイルは明治初期の洋館に多く用いられました。

洋館外観

和館の正面の植え込みの木が育ちが良すぎて、建物が隠れてしまっていますが、立派な式台つきの玄関があります。

式台前の木

式台

その背後にレンガ造の洋館があり、洋館の方が住まいだったそうです。
玄関、洋館、和館は、有形登録文化財となっています。
レストランとなっているので、各部屋が客席となっています。

洋館の階段の手すりは、直線と曲線を活かしたデザイン的な造りで、豪華な彫刻や透かし彫りまで入った豪華なものです。

階段

2階に上がると、窓にそって細い廻廊がめぐらされています。

2階には部屋あります。
部屋の外側にはベランダがめぐらされていて、部屋から出ることができます。

楽々荘といえば、このベランダですね。
エメラルドグリーンに塗られた木の窓枠、照明、所々に配された藤椅子やゴブラン織りの生地が張られた椅子など、まさに洋館のイメージです。

ベランダ

1階にはもう一部屋あり、奥の日本庭園に面した広い部屋となっています。
もちろん、この部屋でも食事を楽しむことができます。

1階部屋

2階のマントルピースは木彫で、黄色地に花柄のタイルがあしわれていますが、こちらは白いマントルピースに、小花があしらわれた白地タイルが貼られています。

マントルピース

和館のほうも書院造の部屋がいろいろとあり、それらを少し改装してレストランの客室として利用されています。

和館外観

この和館は、中で見たほうが、そのスケールの大きさを感じられます。

外観は普通の書院造の屋敷です。
部屋の外側には縁座敷がめぐらされていて、ガラス張りになっています。
襖を取り払い、座敷からお酒を飲みながら庭園を見るなんて最高ですね。

内観で特に目を引くのは、奥座敷にある違い棚です。
“天下の三棚”『修学院離宮』の霞棚のような雰囲気が出ています。

また、座敷の床の間も三角形だったり四角だったり、曲線も交わっていたりと、非常に意匠的です。

部屋1

部屋2

部屋3

外に出て、庭を歩くこともできます。
広い芝生が続く向こう側や離れの前は日本庭園になっていて、欧米の庭園の影響を受けた明治時代の庭づくり特色が伺えます。

この庭園は、上述したように七代目小川治兵衛が作り上げたものです。
近代庭園の先駆者であり明治の名作庭家で、明るく開放的な庭となっています。

当初は、砂利部分に雑水川から引いた水が流れていたそうです。
ところが川が洪水し、改修したことで池に水を落とせなくなったため、小石を敷き詰めて池泉回遊式定款から枯山水庭園にしたそうです。

庭園で興味深いのは、やはり、大きな石や灯籠が多いことです。
これだけの石を持ってくることができた田中源太郎の勢力が伺えます。

亀山城から移設した秀吉の紋入りの春日灯籠に、離れの前にある秀吉の紋入りの鉄製の井筒(井戸)などもあります。

このように、京都から少し離れた場所ですが、一見の価値ありな建物なので、一度足を運んでみるのも良いのではないでしょうか。
ちなみに、予約の際に見学したい旨を伝えておくと、案内してくださる可能性もありますよ。

 

関連記事一覧

ニュースレターテンプレート

オンライン相談

フェイスブック

ウェブサイト制作

お問合せ