奈良ホテル本館
奈良公園の外れ、名勝大乗院庭園と荒池に挟まれる小高い飛鳥山の頂きに、公園と奈良町を見守るように建つ、重厚な木造2階建ての建造物があります。
奈良公園
この建物は、110年の歴史を誇る名門ホテル「奈良ホテル」です。
奈良を代表する格調高い近代和風建築として、観光客はもちろん、県民からも憧れられる存在となり、今も利用されています。
奈良ホテルは1909(明治42)年、日本観光の黎明期に、日本旅館とは異なる西洋文化を採り入れたホテルという新たなる経済・文化活動の拠点として誕生しました。
迎賓館としての役割を果たすべく、華麗な意匠を施されています。
春日大社一の鳥居前から天理方面へ向かう国道169号(天理街道)沿いにある、農業用灌漑池の畔、かつては興福寺の塔頭である大乗院が所在した跡地の小高い丘に、奈良ホテルは建っています。
天理街道から本館玄関に至るアプローチ道路南方に旧大乗院庭園があります。
興福寺、春日大社、奈良公園などの観光地にも近く、今日でも著名人が多く宿泊し、皇族の奈良宿泊の際にはこのホテルが利用されることが専らだそうです。
春日大社
第二次世界大戦前には国営(鉄道院→鉄道省直営)の時代が長く、近畿において国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる施設としての役割を担っていました。
このため「関西の迎賓館」とも呼ばれます。
現在、このホテルは株式会社奈良ホテルが経営しています。
宿泊設備としては、木造2階建て瓦葺き建築で創業以来の本館と、1984(昭和59)年に営業を開始した鉄筋コンクリート造4階建ての新館よりなっており、小高い丘の上に建つ本館1階とその丘の南側斜面を削って建設された新館の屋上が同一平面となっています。
日露戦争後、日本を訪れる外国人観光客が急増しました。
これに対して日本政府は、外国人宿泊施設整備を支援する政策をとりました。
これを契機として、古都である奈良でも、都ホテルの創始者である西村仁兵衛(ホテル運営)、奈良市(用地提供)、そして当時奈良を勢力圏としていた関西鉄道(ホテル建設)の思惑が一致して、本格的な洋風ホテルの建設計画が立てられました。
ところが、その直後に関西鉄道が国有化され、さらに奈良市の意欲も薄れたため、以後の建設計画は奈良市に代わって奈良県と西村、そして関西鉄道を買収した鉄道院の三者の手によって推進されました。
当初、東大寺南大門前参道東側の用地が奈良県によって提示されましたが、運営に当たる西村はこれを拒否し、1906(明治39)年7月に高畑町飛鳥山の現在地を独自に選出して坪1円で購入、併せて「奈良ホテル」の商号を登録しました。
本館の建築にあたっては、鉄道院によって鹿鳴館の建設費のおよそ2倍に当たる35万円という巨費が投じられ、東京駅駅舎を手がけた辰野金吾と片岡安のコンビが設計しました。
そして近畿の建築界において指導的立場にあった河合浩蔵が工事監理をそれぞれ担当するという、建築当時の日本を代表する建築家たちによる万全の体制が敷かれました。
辰野金吾
片岡安
河合浩蔵
以上のような紆余曲折を経て、1909(明治42)年10月に現在地に本館が竣工、西村が経営する大日本ホテル株式会社によって営業が開始されました。
営業開始以来、大日本ホテル株式会社によって運営が続けられた奈良ホテルですが、経営難から1913(大正2)年5月に同社は撤退します。
以後は、鉄道院→鉄道省→運輸通信省→運輸省の直営で、宿泊客について「高等官以上又は資本金一定額以上の会社の重役」という原則に従って、迎賓館に準じた施設として国の手厚い保護の下で運営されるようになりました。
またそういった経緯から、外国からの観光客誘致のためのポスターなどで使用することを目的とした絵画や鳥瞰図が、鉄道省によって当時を代表する日本画家たちに依頼されました。
上村松園、前田青邨、横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳らによる絵画や、鳥瞰図の名手吉田初三郎による「奈良ホテル鳥瞰図」の原画などが、ホテルに所蔵・展示されています。
上村松園
1914(大正3)年には、翌年に京都で挙行される大正天皇即位式典に備え、従来の暖炉による暖房に代えてラジエター式のスチームヒーターによるセントラルヒーティングが、一年をかけて全館に導入されました。
これに伴い、本館屋根上に突き出していた煙突が順次撤去されました。
ただし、煙突は撤去されたものの、ロビーをはじめ各所に設けられていた暖炉のマントルピースは室内装飾として残され、これらは現在も残っています。
マントルピース
1935(昭和10)年4月に国賓として訪日した満州国皇帝溥儀の宿泊に際しては、高価な調度品や美術品が買い揃えられました。
皇族・国賓などの食事の際に供される食器がこの時に新調され、特にディナーセットなどの磁器については当時の最高級品が大倉陶園に特注されたそうです。
溥儀
1945(昭和20)年の終戦後、同年12月1日に、運輸省が奈良ホテルを日本交通公社に貸し付け、営業も委ねることになりました。
これと前後して同年9月28日、奈良ホテルはサンフランシスコ講和条約発効後の1952(昭和27)年6月30日の解除まで、連合軍に接収されることとなりました。
この際、白木仕上げの内外装が不潔であるとして、米兵によって危うく全館ペンキ塗り潰しにされるところでした。
しかし、当時の日本側支配人が必死で奈良ホテルの来歴を米軍担当指揮官に説明して説得し、欄干など直接手が触れる部分を朱塗りとし従業員スペースの内装をペンキ塗り潰しとすることで、由緒ある本館主要部を守った、というエピソードが残されています。
連合軍による接収解除後、経営難に苦慮した日本交通公社は1954(昭和29)年4月、運輸省から権利を承継した日本国有鉄道へ、奈良ホテル営業の返還を申し出ました。
しかし、日本国有鉄道法の規定で、本来の業務から外れる事業への参入・兼業を事実上禁止されていた当時の国鉄では、ホテル直営は不可能でした。
そんな折、歴史的にも奈良ホテル創設に強く関わっていた都ホテルが営業を引き受ける旨申し出を行い、1956(昭和31)年3月以降は同社によって運営されるようなりました。
その後、複数の部屋で共用する形態となっていた風呂・洗面所を個別化するなどの内装の間取りの変更や、冷房装置の設備などの改修はあったものの、1960年代末までは概ね創建当時の姿を保っていました。
しかしこの状況は、大阪・千里丘陵で1970(昭和45)年に日本万国博覧会が開催されることが公表されたことによって、一変することとなります。
万博記念公園
海外からの観光客が多数来訪することが予想された万博の開催に備え、奈良ホテルは1968(昭和43)年に次のような大規模な増改築を計画しました。
・客室98、宴会場2、食堂等3、と大きな収容力を備えた新館を本館食堂南側の斜面に建設
・個別の風呂・洗面所の設置で不要となった本館の共同風呂・洗面所を改装して客室を22室増設
・近鉄奈良駅の地下化に伴い建設される駅ビル6~8階に別館を開設
ところが肝心の新館は、工期の問題から見切り発車で起工したものの、古都保存法の区域内であることから奈良県古都風致審議会に建設を差し止められ、建設中止となりました。
(風致審議会とは、都市の伝統的な景観などを守るために建築物等の外観を審査する議会のことです。)
そのため、本館の拡充については館内の間取り変更による客室増設が予定通り実施される一方で、すでに着工していた新館の基礎部を生かして近代的な外観の半地下式グリルが景観に大きな影響の無い規模で新設され、これに伴い不要となったラウンジが撤去されるに留まりました。
近鉄奈良駅ビルに開設された別館は、予定通り1970(昭和45)年に営業を開始しました。
その後1970年代末には、国鉄の兼業に関する規制が緩和されます。
安い賃料で他社に営業を委託し続ける必要のなくなった国鉄は都ホテルに対し、1981(昭和56)年に奈良ホテルを直営としたい旨を、さらにその翌年には土地建物の賃貸借契約を解除したい旨を通告しました。
都ホテル側はこれに対して使用承認の継続を求め、協議の結果、国鉄と都ホテルが株式を折半保有する新会社、「株式会社奈良ホテル」が設立されました。
そして同年4月1日より、奈良ホテルは同社によって運営されるようになりました。
併せて万博以後の状況の変化に対応すべく、万博時には断念された新館の建設が再び計画されました。
1984(昭和59)年のわかくさ国体を控えて、県下の宿泊施設増強を迫られていた奈良県は、この計画に協力的に対応し、最大の難関であった風致審議会においても条件付きながら新館の建設が承認されました。
そして1983(昭和58)年8月に、総工費24億円を投じた新館の工事がようやく開始され、1984(昭和59)年8月に竣工、開業しました。
この新館は、本館の建つ高台の南側傾斜面を削り込んで埋め込む形で建設された、半地下式の鉄筋コンクリート造り4階建てで、客室数65、4つの宴会場と新グリルを備え、本館を含めた供食設備の大幅強化を伴う大工事となりました。
新館の設計・工事監理は日本国有鉄道大阪工事局建築二課、同東京建築工事局建築二課、それに安井設計事務所が共同で担当し、工事は奥村組が担当しました。
新館は1階から3階までの客室について、すべて南側を窓とした開放的なレイアウトとしてあり、制約が厳しい中で各階の天井高さ3mを確保し、かつ景観に配慮した吉野造りとするなど、外観・接客設備面ともに既存の本館との調和を図りつつ独自性を発揮した設計となっています。
1987(昭和62)年4月1日の国鉄分割民営化の際、奈良ホテルにかかる資産はJR西日本が承継し、株式会社奈良ホテルも同社と都ホテルの共同出資となりました。
1988(昭和63)年に開催された「なら・シルクロード博覧会」閉幕後までは、本館・新館と、別館(近鉄奈良駅ビル内)の3館体制で営業が続けられましたが、別館は採算性の問題から1991(平成3)年6月に撤退・閉鎖されました。
それに先立つ1989(平成元)年4月には、新設されたばかりの奈良県新公会堂1階でレストラン「能」の営業を開始しています。
なら・シルクロード博覧会
本館では新館完成後も、万博開催以前より使用されてきた古風な調度品が、修理を重ねつつ長く使用され続けていました。
しかし、2006(平成18)年に寝具や家具、空調設備の全面更新が実施されて面目を一新しました。
その翌年には新館の設備更新も完了して、本館・新館の基本的な接客設備の仕様統一がされ、最後に料理場の改装工事が2008(平成20)年9月に完了します。
これにより、3年に渡った一連の館内設備更新工事が完成しました。
開設100周年を迎える2009(平成21)年には、館内で各種記念イベントが行われ、2月にはホテル所蔵の絵画20点を展示する絵画展が開かれました。
その一方で、この年の11月には20年にわたったレストラン「能」の営業を終了し、奈良県新公会堂から撤退しました。
2015(平成27)年には、新館屋上にテラスガーデンを新設します。
同時に、同一平面にある宴会場を南側屋上に張り出すように拡張する工事も実施されました。
設計監理はアーキテクツ・オフィス、構造・設備はJR西日本グループである大鉄工業の担当で行い、同年11月に落成しました。
この工事に際しては、外観上増築されたことに気づかれないほどの従来の宴会場部とのデザインの連続性や一体感、違和感のなさを重視して、内外装が設計されました。
この拡張により得られたスペースを利用して宴会場「金剛の間」が大改装され、同年12月には、日本料理レストラン「花菊」が新館5階宴会場フロア南側拡張部分に移転されました。
さらに「花菊」の移転で空いた新館4階のスペースは、翌2016(平成28)年に、隣接する宴会場「大和の間」の拡張に役立てられ、ホテル全体の宴会場施設の拡充や供食施設の改良が実現しています。
このホテルには、アルベルトアインシュタイン博士やオードリー・ヘプバーンなど、その時代の数多くの分野の外国の著名人が宿泊しています。
アインシュタイン
オードリー・ヘプバーン
外観の風格のある佇まいは、木造の日本建築の中にも西洋の趣漂う迫力の和洋折衷様式です。
荘厳であり「桃山御殿風檜づくり」といわれる圧巻の建物といえます。
辰野金吾により設計された本館は、美しい日本瓦の屋根、白い漆喰の壁、桃山風の華やいだ意匠が混在している建築です。
外観
外壁は、白漆喰の真壁造に腰板貼りです。
通し柱と縦長の上下窓が連続して並ぶ、規則的な立面となっています。
1階と2階の境目にぐるりと腰屋根がめぐらされ、柱頂には舟肘木を載せて桁を支え、軒は反りのある深い一軒木舞裏としています。
ただし柱や桁、舟肘木ふなひじきの多くは薄い化粧材です。
玄関
屋根は、入母屋・桟瓦葺で、小屋組みはクイーンポストトラスです。
表からは見えませんが、要所に軒を支える桔木はねぎが用いられています。
両端には、宮殿や寺院建築に見られる、現代では珍しい飾りの「鴟尾」が据えられています。
屋根
中に入ってみると、目に入る一つひとつのインテリアに当時の匠の技術やユニークな個性が見え隠れします。
フロントに設置されたドイツ風のマントルピースには、神社で見る和の鳥居が重ねられ、辰野金吾の求めた“和洋折衷”の思想が込められるなど当時の文化が表現されています。
所蔵されている美術品には日本画も多くあり、メインダイニングルームの横山大観と川合玉堂の団扇画は、外国人客に土産用として作られたうちわの原画ともなっています。
さらに本館玄関には上村松園の『花嫁』が、レストラン内には中村大三郎作の『美人舞妓』が飾られています。
アインシュタインが弾いたというピアノも含め、枚挙に暇のない美術品の多さはまるで美術館のようです。
内観①
内観②
内観③
内観④
フロントと「ザ・バー」の間の壁に設置された曇りガラスは1900(明治33)年頃のアールデコ風です。
ザ・バー
最新鋭機器やコンピューターなどのない時代に、先人たちが緻密で芸術的な感性を駆使して施した技が、ホテルの随所に施されています。
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