待庵
京都府乙訓郡大山崎町、天王山のふもとに「妙喜庵(みょうきあん)」という仏教寺院があります。
山号は豊興山で、妙喜禅庵とも称します。
このお寺の中に「待庵(たいあん)」があります。
妙喜庵よりも、実はこちらのほうが有名です。
「待庵」は千利休が作った日本最古の茶室建築で、草庵茶室の完成形といわれ、1951(昭和26)年に国宝に指定されています。
妙喜庵
千利休
「妙喜庵」は江戸時代一時地蔵寺の塔頭でしたが、現在は臨済宗東福寺派に属しています。
室町時代の明応年間(1492年~1501年)の開創です。
開山は東福寺開創聖一国師法嗣・春嶽士芳です。
連歌師の山崎宗鑑の屋敷(對月庵)を宗鑑が退去した1524(大永3)年ごろの後に寺庵に改めたとの伝えもありますが、春嶽は1510(永正6)年にすでに没しています。
また、大山崎集落の大阪府側(島本町山崎)には宗鑑旧居跡(宗鑑井戸)の伝えもあります。
大山崎
「待庵」は日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休が作ったと信じられている唯一の現存茶室です。
現在一般化している、にじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型であると同時に、数奇屋建築の原型といわれています。
寺伝には、1582(天正10)年の山崎の戦いのおり、羽柴秀吉の陣中に、千利休により建てられた二畳隅炉の茶室を解体し移築したとあります。
1606(慶長11)年に描かれた「宝積寺絵図」には、現在の妙喜庵の位置あたりに「かこひ」(囲い)の書き込みがあり、この時にはすでに現在地に移築されていたものと考えられています。
豊臣秀吉
山崎の戦い
同図には、妙喜庵の西方、現在の島本町の宗鑑旧居跡付近に「宗鑑やしき」そして「利休」の書き込みもあり、利休がこの付近に住んでいたことをうかがわせます。
したがって、待庵はこの利休屋敷から移築されたとも考えられます。
千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人、商人です。
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられます。
また、今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えました。
今井宗久
末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方とも親しく交流がありました。
子孫は茶道の三千家として続いています。
利休には天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、豊臣秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」の中で、多くの大名にも影響力をもちました。
しかし秀吉との関係に不和が生じ始め、最期は切腹を命じられました。
死に至った真相については諸説あり、定まっていません。
利休は、1522(大永2)年、和泉国・堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)に生まれました。
家業は、納屋衆といい、塩魚を独占的に扱う商人(座)ないし、そういった商人たちに倉庫を貸す「問」だったとされます。
利休の幼名は田中与四郎、のち法名を千宗易、抛筌斎と号しました。
広く知られた利休の名は、1585(天正13)年の禁中茶会にあたって、町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号です。
19歳で父を失い、それと前後して祖父も失います。
祖父の七回忌に無財のため法要ができず、涙を流しながら墓掃除をしたとの日記が残っています。
当時、応仁の乱の影響で、特権的商人たちは独占に対する保護を失い、苦境に立たされていました。
利休が茶の湯を習い始めたのは17歳のころ、初めての師は堺の茶匠「北向道陳(きたむきどうちん)」といわれています。
1544(天文13)年2月27日、松屋久政らを招いて茶会を開きました。
この茶会が、信頼性のある記録の中で最初の利休の茶会とされています。
この茶会で利休は、珠光茶碗を用いています。
珠光茶碗とは、還元焼成で青くなるべき青磁が、技術的な不備で酸化焼成となり赤褐色になった、中国民窯製雑器であり、村田珠光が使っていた名物です。
4椀あった珠光茶碗のうちの1つを利休が購入し、若かった頃の茶会で使用していました。
以降、1559(永禄2)年までの『松屋会記』および『天王寺屋会記』に記録されている4つの茶会でも、珠光茶碗を使っています。
商人としての利休は、堺の実質的支配者であった三好氏の御用商人となり、財を成したと推測されています。
1561(永禄4)年までに、珠光茶碗を三好実休に千貫で売っています。
堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わっていました。
三好実休
1569(永禄12)年以降、堺が織田信長の直轄地となっていく過程で、堺の豪商茶人であった今井宗久、津田宗及とともに、信長に茶堂として召し抱えられました。
1574(天正2)年3月に信長が京都相国寺で開いた茶会に、ほかの堺の有力商人9人とともに招かれたとの記録が残っています。
このときまでに、堺の自治組織である会合衆の一員となっていたと考えられています。
1575(天正3)年、越前一向一揆掃討戦を行う信長のために鉄砲玉を調達して送り、謝状を受け取っています。
織田信長
1582(天正10)年6月の本能寺の変および山崎の戦いのあとは豊臣秀吉に仕えました。
同年8月に秀吉を訪ねた利休は、茶室を作るように命じられ、約半年をかけて、翌年3月に待庵を完成させました。
1585(天正13)年10月、秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕しますが、このとき、宮中参内するため居士号「利休」を勅賜されます。
1591(天正19)年、利休は突如秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられます。
この理由については諸説ありますが、大徳寺の山門に飾られた木像が一番のきっかけではないかといわれています。
応仁の乱以来、大徳寺の山門は大破し長らく放置されていたので、利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継ぎ、門の上に閣を重ねて楼門を造り、金毛閣を寄進しました。
利休への感謝の気持ちから、大徳寺の住職は利休の木像を楼門の2階に設置しました。
しかし、この木像が雪駄(せった)を履いていたため、秀吉は「山門を潜る自分を踏み付けにしている」と激怒したのです。
利休はその後、秀吉により切腹を命じられます。
切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられています。
上杉景勝
利休の死後、その首は一条戻橋で梟首されました。
首は前述した大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたといいます。
墓所は大徳寺聚光院です。
では、そんな利休が残した「待庵」をみていきましょう。
待庵は切妻造柿葺きで、書院の南側に接して建っています。
茶席は二畳、次の間と勝手の間を含んだ全体の広さが四畳半大という、狭小な空間です。
南東隅ににじり口を開け、にじり口から見た正面に床(とこ)を設けています。
にじり口
室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさの見える草庵風です。
この荒壁は仕上げ塗りを施さない民家では当たり前の手法でしたが、細い部材を使用したため壁厚に制限を受ける草庵茶室では当然の選択でもありました。
床は4尺幅(内法3尺8寸)で、隅、天井とも柱や廻り縁が表面に見えないように土で塗りまわした「室床(むろどこ)」です。
天井高は5尺2寸ほどで、一般的な掛け軸は掛けられないほど低いです。
これは利休の意図というより、屋根の勾配に制限されてのことと考えられます。
待庵内部再現
床柱は杉の細い丸太、床框は桐材で、3つの節があります。
室内東壁は2箇所に下地窓、南壁には連子窓を開けます。
下地窓とは、草案茶室の土壁の一部を塗り残し、下地をそのまま露出させることでつくられる窓の形式です。
下地窓の小舞には、葭が皮付きのまま使用されています。
下地窓
炉はにじり口から見て部屋の左奥に隅切りとしています。
現在では炉と畳縁の間に必ず入れる「小板」はありません。
この炉に接した北西隅の柱も、壁を塗り回して隠しており、これは室床とともに2畳の室内を少しでも広く見せようとする工夫とされています。
ただ隅炉でしかも小板がないのだから、炉の熱から隅柱を保護する目的もあったと考えられています。
天井は、わずか2畳の広さながら、3つの部分に分かれています。
すなわち、床の間前は床の間の格を示して平天井、炉のある点前座側はこれと直交する平天井とし、残りの部分(にじり口側)を東から西へと高くなる掛け込みの化粧屋根裏としています。
この掛け込み天井は、にじりから入った客に少しでも圧迫感を感じさせない工夫と思われます。
二つの平天井を分ける南北に渡された桁材の一方は床柱が支えていて、この桁材が手前座と客座の掛け込み天井の境をも区切っています。
つまり一見複雑な待庵の天井の中心には床柱があり、この明晰性が二畳の天井を三つに区切っていても煩わしさを感じさせない理由となっています。
平天井の竿縁や化粧屋根裏の垂木などには竹が使用されており、障子の桟にも竹が使われています。
このように竹材の多用が目立ち、下地窓、荒壁の採用と合わせ、当時の民家の影響を感じさせます。
二畳茶室の西隣には襖を隔てて1畳に幅8寸ほどの板敷きを添えた「次の間」が設けられ、続けて次の間の北側に一畳の「勝手の間」があります。
一重棚を備えた次の間と、三重棚を備え、ひと隅をやはり塗り回しとする勝手の間の用途については、江戸時代以来茶人や研究者がさまざま説を唱えていますが、いまだ明らかになっていません。
下地窓の小舞には、葭が皮付きのまま使用されています。
妙喜庵入口
待庵を見学するには、およそ1か月前までに往復はがきによる予約が必要です。
また、見学が許可された場合もにじり口からの見学で、内部に立ち入ることはできません。
このように見学するには手間がかかりますが、その手間も、千利休風に考えればわびさびなのではないでしょうか。
京都に訪れた際は、日本の歴史上最も有名な茶人の作った茶室に訪れてみるのはいかがでしょうか。