名護市庁舎

沖縄。

日本の南西部に位置する小さな島々からなる県。
もとは「琉球王国」という名の王国。
今では多くの国内外から多くの観光客が訪れる、日本有数の南国観光スポットとして非常に有名です。
あなたも一度は訪れたことがあるかもしれません。

沖縄

さて、今日はそんな沖縄県の、とある建物を紹介します。
今回も前回に引き続き、比較的新しい建物です。

ここでちょっと想像してみてほしいのですが、
「沖縄っぽい建物」と言われたとき、あなたの頭にはどんな建物がイメージとしてありますか?
なんとなく南国リゾートっぽくて、屋根がなだらかで、石積みがあって、シーサーがいる・・・
みたいな感じでしょうか。

えぇ、おそらくほとんどの方がそんなイメージをお持ちだと思います。
私もそのうちの一人です。

沖縄っぽい建物

いわゆる「日本っぽい建物」とは明らかに違いますよね。
どちらかといえば、ハワイと中国と東南アジアが混ざったような・・・
そんなイメージがありませんか?
私もそう思います。
もちろん、戦後に建てられた多くの建物は、日本っぽい建物が多いです。
ではなぜ、沖縄の建物と、いわゆる本州や九州、四国の建物とは、こうもイメージが違うのでしょうか。

なぜ違うのか、その答えは「世界地図」を見ればよくわかります。
今では飛行機の技術が非常に発達していて、東京から沖縄まで2時間程度で行けますよね。
ですが、沖縄は、昔はそんな簡単に行けるような場所ではありませんでした。
例えば、九州の南部、鹿児島県鹿児島市から沖縄の那覇までの距離・・・
これがどのくらい離れているか、考えたことはありますか?

実は700~800kmほど離れています。
東京-大阪間よりも長い距離があるのです。
しかも陸地ではなく、海に阻まれています。

沖縄地図

もっといえば、日本の最西端の与那国島は、那覇からさらに500kmほど離れています。
逆に、台湾と与那国島の距離は、わずか100kmほどです。
陸地であれば2時間のドライブで着いてしまうほどの距離なのです。
距離だけでいうと、もはや日本と呼んでいいのかどうかわからないような場所なのです。

今は飛行機で楽々沖縄に行けますが、
昔の人々が沖縄(琉球)に行くには、船で行くしかありませんでした。
今よりもずっと低い造船技術で、海賊などもうようよいるような危険な場所を
航海するしか方法がなかったのです。
そうなれば当然、日本と琉球は異なる文化や伝統が育つのは明白です。
その伝統によって作られた建物=沖縄っぽい建物なのです。

では、沖縄っぽい文化や伝統はどのようにして育ってきたのでしょうか?
もともと聖徳太子や小野妹子が活躍していた時代に、すでに沖縄は存在していました。
当時、中国の隋王朝が沖縄にも使者を送ったのですが、言葉が通じなかったそうです。
その後、小野妹子らを通じて再び使者を送りましたが、沖縄の人々は命令に従わなかったため、宮廷を焼き払い捕虜を捕らえて中国に戻ったと伝えられています。

聖徳太子

小野妹子

そして時代は流れ、中国が明王朝のころ、
日本では室町時代⇒安土桃山時代(戦国時代)⇒江戸時代と移り変わるわけですが・・・
日本が室町時代のころに、「琉球王国」が誕生します。
それまで、琉球王国は全く統一されておらず、4つの国がずっと争っていました。
沖縄は小さな島々からなるので国土としては狭いのですが、実際には海に阻まれていて島と島の間に大きな距離があります。
そのため、1つの国としてまとめるのは困難な状況でした。
また、「琉球」という名称はこのころに中国の明王朝によってつけられた他称であり、現地の人々は「おきなわ」に近い発音の言葉で沖縄のことを指していたそうです。

この琉球の4つの国をまとめあげて作られたのが「琉球王国」です。
首里城で有名ですね。
最近大火災があって正殿が焼け落ちてしまったそうです。
残念でしかたありません。
一日も早い復旧をお祈りいたします。

琉球王国

首里城

そして、戦国時代には鹿児島の種子島に鉄砲が伝来するなど、ポルトガルやスペインなどがこぞって世界中で大航海を行うわけです。

では、これらの国々がどういったルートで種子島に着いたのかを考えてみましょう。
まず、インドからミャンマー、タイ、マレーシア、インドネシアを経由し、フィリピンに渡ります。
フィリピンから台湾や与那国島、石垣島へと渡り、現在の那覇(琉球王国)へ行き、最終的に日本の種子島へ到着するのです。

当時の海の道

つまり、琉球王国という国は、東南アジア諸国やポルトガルなどとの交易を、日本よりもずっと早く行っていた国ということになります。
こういった背景から、日本とはかなり異なる文化や伝統が育つことになったわけです。
しかし、1609(慶長14)年に、薩摩の島津藩により琉球は薩摩藩の属国となってしまいます。
諸外国との交易は多少していたものの、やはり日本の属国なので鎖国の影響があり、ここから日本的な文化や伝統が混ざることになります。
(琉球の先住民はもともと日本からの渡来人なので、長い時を経て日本に戻ったと考えるのが良いのかもしれませんが・・・)

島津斉彬

ただし、そうはいっても、1000年以上もの間、沖縄は沖縄独自の文化や伝統を育て続け、東南アジア諸外国との交易を盛んに行っていたため、どうしても東南アジア寄りの分化的特徴が色濃く残ったのでしょう。
建物にしてもそうですし、人々の特徴を見ても、なんとなくのんびりしている感じがあります。

さて、長々と沖縄の文化や伝統を解説してきましたが、冒頭で話した通り、沖縄っぽい建物は、おそらくあなたが頭でイメージしているような建物のことです。
それを踏まえて、下の写真を見てください。

沖縄っぽい?建物

どうでしょうか?

微妙に沖縄っぽいけど、なんとなくモダンな気も・・・
明治から大正にかけて作られたような建物で、歴史がいっぱい詰まってそうな雰囲気も・・・
と言いたいのですが、この建物、竣工は1981(昭和56)年です。
がっつり戦後です。バブルのちょっと前ですね。
この建物こそ、現在も利用されている『名護市庁舎』です。

名護市はいわゆる沖縄県の中心部の島(那覇がある島)の北部に位置する市です。
1970(昭和45)年、1町4村の合併を機会に、人口5万人の市として発足されました。

名護市

この時から、市庁舎建設について考え始めました。
しかし、実際に動き出したのは1976(昭和51)年、市民各層の代表者19名からなる「名護市庁舎建設委員会」が設置されてからでした。
これも沖縄時間のなせる業なのかもしれません。
委員会は議論を重ね、泡盛を飲み交わし、議論は夜遅くまで続けられました。
なかには「永遠に市庁舎を造らなくてもいいじゃないか。こうした議論の過程こそ市庁舎なのだ」といった意見まで出たそうです。
「これが市庁舎じゃないか。ものに結びつかなくてもいいんだ」とまで言われたとかなんとか。

泡盛

そんな熱のこもった議論が1年以上続きました。
たび重なる議論の末に、市庁舎の設計案は広く全国に公募して求めるべきだという結論に達しました。
その結果、1978(昭和53)年より、公開設計競技が実施されました。
要項の発表が8月15日で、登録締め切りが9月30日、応募登録は795名でした。
作品提出の締め切りが11月30日で、きっちり2ヶ月間の戦いでした。
全国からなんと、308案もの応募がありました。
第一次審査、第二次審査を経て、3月にようやく1つの案に決定されました。
選ばれたのは、「Team Zoo(象設計集団とアトリエ・モビルの共同体)」の案でした。

彼らは建築家である吉阪隆正氏の事務所から独立したメンバーを中心とする若手グループで、コンペが行われる8年も前から沖縄を何度も訪れて集落調査を行っていました。
8年・・・つまり、名護市ができた当初から、このあたりの調査を続けてきていたということです。
その間、名護に近い今帰仁村では、公民館の設計を手掛け、沖縄での実績も持っていました。
こうした経緯から、沖縄の伝統文化を尊重しつつ、機能性もあり、かつ象徴的な設計をコンペで打ち出すことに成功したのでしょう。

吉阪隆正

名護市庁舎が建っているのは、海の近くです。
北側は広場を介して住宅地が広がっています。
住宅地側から見ると、建物は段上にセットバックし、張り出したところにはパーゴラ状の庇がかかっています。
成長したブーゲンビリアが建物を這い上がり、落ちる影が濃さを増します。

名護市庁舎 北側外観

この「半屋外空間」は「アサギテラス」と名付けられました。
アサギとは、神様が降りてくる場として沖縄の集落に設けられるもので、通常は壁がなく、方形の屋根がかかっています。
設計者たちは、このイメージを庁舎に取り入れたのでした。

名護市庁舎 半屋外

外装に使われているのは、沖縄の建築に広く用いられているコンクリートブロックです。
2色の組み合わせでストライプの模様を作っています。
竣工当時からすると、さすがに少し色あせた感じがします。
なんとなく、どこかの文明の古代遺跡のような感じもありますよね。

反対の国道側に回ると、こちらは3階までのファザードが垂直に立ち上がっています。
そこに取りつけられているのは、なんと56体ものシーサーです。
魔除けのシーサーが56体もいるので、この建物にいれば色々なことから身を守れそうですね。
ちなみに、これらの56体のシーサーは、県内各地にいるシーサー作家に1体ずつ作ってもらったそうです。
つまり、沖縄には当時シーサー作家が少なくとも56人はいたということです。

名護市庁舎 南側外観

現在は建物の老朽化に伴い、シーサーが全部撤去されています・・・落ちてきたりして危ないそうです。
非常に残念です、ぜひシーサーを復元して再設置してほしいですね・・・

さらに、南側のファザードをじっくりと眺めると、いくつもの穴が開いているのがわかります。
これらは建物を南北に貫くダクトの入り口で、ここから入ってくる涼しい海風が、建物を自然の力で冷やしてくれるという仕組みです。
沖縄は亜熱帯に位置するので、非常に暑いです。
にもかかわらず、この建物は機械空調なしで建てられているのです、驚きですよね。
「風の道」と呼ばれるこの自然通風システムは、実は現在では使われておりません。
今はふつうにエアコンが設置されています。残念です。
ではなぜ、当時エアコン設置をしなかったのでしょうか。

それは、設計者のエゴなどではありませんでした。
実は1970年代末の時点では、空調機械が取り付けられている建物は沖縄県内にはほとんどなく、「冷房なし」というのがこの建物の建築要綱の1つだったからなのです。
むしろ、そんな無茶ぶりに対して、デザイン性や「海風」という沖縄の分化も取り入れつつ見事に対応した設計者が見事なのです。

しかし、逆に考えてみると、反復するアサギ、56体という異常な数のシーサー、縞模様で強調されたコンクリートブロックなど、この建物では地域性が「過剰」なまでに表現されているように思えます。

この時期、「地域」というのは建築界での非常に大きなテーマとなっていました。
名護市庁舎の完成した1981(昭和56)年には、「批判的地域主義」という言葉さえ生まれています。
この言葉を広めたのは、アメリカのコロンビア大学で教えていた建築史家ケネス・フランプトンです。

ケネス・フランプトン

この概念に当てはまる建築として彼が挙げたのは、デンマークのヨルン・ウッツォン、スペインのリカルド・ボフィル、ポルトガルのアルヴァロ・シザ、スイスのマリオ・ボッタらの作品でした。
そして日本の代表として挙げられたのは安藤忠雄でした。

この用語には「批判的」と付けられています。
要は、この用語に当てはまる建物では、単なる民族的なデザインとは異なることが強調されているということです。
例えば、フランプトンは安藤忠雄の建築に「普遍的な近代化と異種的な土着文化との狭間にある緊張感」を読み取っています。
しかし、この言葉はむしろ、Team Zooの名護市庁舎のほうが当てはまるのではないでしょうか。

名護市庁舎の建物の特徴となっている「コンクリートブロック」という材料は、戦後に米軍が製造機を持ち込み、軍の施設や住宅用として普及したものです。
つまり、名護市庁舎を設計する時点では、たかだか30年ほどしか歴史のないものだったのです。
しかしあえて設計者たちは、これを地域性を表現する材料として選択しました。
彼らにとって地域性とは、あらかじめ与えられたものではなく、新たに発見されるものなのでしょう。
沖縄のアイデンティティーを表現しただけの建築であれば、むしろ地元建築家の作品のほうが格段にわかりやすいでしょう。
赤瓦にシーサー、石積みの塀の建物ですね。
しかし、これらに比べると、名護市庁舎は圧倒的にモダンです。

実はこの建物、外側のいろんなものをはがしてしまうと、「立体格子」の連なりで成り立っているのです。
モダニズムを特徴づける「グリッド」なのです。
モダニズムと言えば、ル・コルビュジエが代表的ですが、彼のもとで働いていた人物の1人が吉阪隆正です。
そして吉阪の弟子の1人がTeam Zooのメンバーなのです。
つまり、名護市庁舎はモダニズム直系の建物ともいえる作品なのです。

ル・コルビュジエ

とにもかくにも、沖縄っぽさとモダンが融合した形の現代建築を、一度見てみてはいかがでしょうか?
今はシーサーがいないので変わったシーサーが見られないのは残念ですが、それでも建物自体の構造なんかはとても面白いです。
名護市にお出かけの際は、ぜひ市庁舎を訪れてみてください。
インスタ映えは間違いないスポットですよ。

変わったシーサー

 

関連記事一覧

ニュースレター作成代行

ニュースレターLINE版

ウェブサイト制作

SNSサポート

LINE版デモアカウント

フェイスブック

ニュースレター作成代行センター公式サイト

お問合せ