大阪市中央公会堂

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大阪市中之島に、緑と水に囲まれ赤レンガが映える建物「大阪市中央公会堂」があります。
この大阪市中央公会堂は、文化、芸術、社会活動の場として利用されているレトロ建築で、大阪城天守閣とともに大阪市のシンボルとなっています。
建物はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、細部にはウィーン分離派様式も取り入れられています。

大阪天守閣

大阪市中央公会堂は、1911(明治44)年、株式仲買人である岩本栄之助という人物が公会堂建設費を寄付し、建築されました。
当時の価格で100万円を寄付したそうです。
この100万円は、父親の遺産50万円に自分の手持ち財産を加えたもので、現在の価値にすると数十億円という莫大な金額でした。
この寄付により、同年8月に財団法人公会堂建設事務所が設立され、建設計画が始まりました。

岩本栄之助

岩本栄之助は、大阪の両替商「岩本商店」を営む岩本栄蔵の次男として、大阪市南区安堂寺橋通2丁目(現在の大阪市中央区南船場2丁目付近)に生まれました。
市立大阪商業学校、大阪清語学校及び明星外国語学校で、商業学と外国語(英語、フランス語、清語)を学びました。

その後、日露戦争に出征して陸軍中尉となり、凱旋後、従七位に叙し勲六等単光旭日章を授けられました。

日露戦争

1906(明治39)年4月、栄之助は早死にした兄に代わり、父・栄蔵の家督を相続して株式仲買人となります。

1907(明治40)年の株式市場の大暴落時には、野村徳七ら大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)の仲買人らの訴えを聞き、全財産を投じて株式市場を買い支え、北浜の仲買人らを危機から救います。

その確固たる信念と、信念を曲げない勇猛心で、栄之助は「義侠の相場師」と呼ばれ、株式の世界で広く知られることになります。
とても義に厚い人物だったそうです。

野村徳七

また、「学問せなあかん」がいつも口癖であり、取引所で働く少年たちに学校に行くように勧めるとともに、私財を投じて少年たちの為の塾を作ります。
こうした栄之助の行動は、ますます人々の人気を集めることになり、世間から「北浜の風雲児」と称えられるようになりました。

1909(明治42)年、栄之助は財界が結成した渡米実業団(団長は渋沢栄一)に加わり、当時、世界経済に台頭しつつあったアメリカ合衆国を視察します。
その視察中に父・栄蔵が病死したとの知らせを聞きます。

渋沢栄一

1911(明治44)年3月8日、当時33歳だった栄之助は、父親の供養も兼ねて、自身の私財から金百万円を大阪市に寄付するとの発表を行います。
この突然の発表に、多くの市民たちは仰天し、「大阪商人の鑑みでんなー」という賞賛の声が相次ぎ、そのニュースは全国に知れ渡ることになります。
当初、その寄附内容は具体的にどんなものか何も決まっていませんでしたが、渋沢栄一ら多くの人が意見を出し合い、相談して、「桜並木」、「育成資金」、「公会堂」の3つの候補案にしぼられ、最終的に市民の誰もが利用できる『中央公会堂』を建設する案に決定します。

この時決定して建設されたのが、今回ご紹介する「大阪市中央公会堂」です。

財団法人の建築顧問として、建築界の大御所・辰野金吾を迎え、公会堂の定礎式は1915(大正4)年10月8日に行われます。
その時、定礎式に参加して「定礎」の文字を書いたのは渋沢栄一でした。

辰野金吾

栄之助は、1912(明治45)年から1914(大正3)年まで「大阪株式取引所仲買人組合」の委員長を務め、「大阪電灯株式会社」の常務取締役も務めました。
その後、大阪電灯株式会社は1923(大正12)年に大阪市が買収しました。
この会社は、現在の関西電力の前身の一つです。

1916(大正5)年、第一次世界大戦の異常景気で、大衆の大量の資金が株式市場に殺到し、株式相場が上昇しますが、「大衆買いの場合は逆をとれ」との相場格言により、栄之助は売りに回ります。
しかし、株式相場は下がらずそのまま上昇し、大きな苦境に陥ってしまいます。

第一次世界大戦

その後、相場の読みに外れ、株式相場で大損失を被ります。
同年10月22日、岩本商店の全ての使用人と家族を京都の宇治へ松茸狩りに出した後、自宅の離れ屋敷に入り、陸軍将校時代に入手した短銃で自殺を図ります。
その時、左手に愛用の菩提樹の数珠を握っていたといいます。

5日間生死をさまよった後、10月27日に亡くなりました。
栄之助は、中央公会堂の完成を待たず、亡き人となってしまったのです。
辞世の句は「この秋をまたでちりゆく紅葉哉」でした。

その後も中央公会堂の工事は続けられ、1918(大正7)年10月末に竣工、同年11月17日に落成奉告祭が行われました。

現在、大阪市中央公会堂地下1階には「岩本記念室」が設置され、栄之助の銅像と遺品が展示されています。

岩本記念室

また、阪急宝塚線池田駅前に所有していた別邸は、太平洋戦争後に伏尾温泉の旅館が買い取り、移築したものが現存しています。
ちなみに、栄之助を主人公にしたミュージカル『愛が降る街』が、2003年以降上演されています。

「大阪市中央公会堂」の設計デザインは、「懸賞付き建築設計競技」により、当時29歳だった岡田信一郎のデザイン案が1位に選ばれ、その岡田のデザイン原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行いました。
辰野金吾は以前の記事でもいろいろと紹介しましたが、東京駅の建築家として有名です。

岡田信一郎

大阪市中央公会堂の建物は、鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建ての構造です。
意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、細部にはセセッションを取り入れており、アーチ状の屋根が特徴的です。
当時「辰野式」と呼ばれた、赤レンガに白い花崗岩でアクセントを付けた建築としても有名です。

外観
上空から

南側の玄関には、創建当時の看板が残されています。
書体の感じにもレトロな雰囲気が漂っています。

看板

南側には出入口が2ヶ所あり、出入口の上には長く伸びるひさしが設置されています。
このひさしは、栄之助が「雨天の際の公衆のために」と設けさせたと伝えられています。
雨宿りする人のことまで考えていたという、心遣いや気配り能力が非常に高い人物であったのではないでしょうか。

ひさし

正面のアーチ上にある2体の神像は、商業の神「メルキュール」と科学と平和の女神「ミネルバ」です。
こちらの像は第2次世界大戦中の金属供出によって長いこと失われていましたが、近年復原製作されて再び設置されました。

アーチ上の像

公会堂が建設されている場所は両方に川が流れる場所で地盤も軟弱だったため、建設当時にはそれを補強するために約4,000本の松の杭が使われました。
そのうちの1本が、現在も地下1階に展示されています。

大集会室2階席に設置されていた木製の椅子は、現在は休憩用のベンチとして使われています。

そして、大阪市中央公会堂といえばこの部屋といっても過言ではないのが、特別室です。
天井画・壁画の圧倒的な存在感に目を奪われます。
洋画家の松岡壽によって日本書紀の「天地開闢」が描かれたもので、部屋そのものが芸術品ともいわれています。
こちらは、有料のガイドツアーでのみ見学することができます。

天井画

地下1階から3階まで吹き抜けの階段は、四角い螺旋が美しい仕上がりです。

螺旋階段

そんな大阪市中央公会堂では、アルベルト・アインシュタインをはじめ、ヘレン・ケラーやガガーリンなど歴史的人物の講演やロシア歌劇団の公演も行われました。

アインシュタイン

1999(平成11)年3月から2002(平成14)年9月末まで、建物の老朽化が進んだために保存・再生工事が行われました。

2002年(平成14)年11月、新たにリニューアルオープンした大阪市中央公会堂は、耐震補強、免震レトロフィットやバリアフリー化がなされ、ライトアップもされるようになりました。
リニューアルの際に取り除かれた当初の意匠についても、一部は保存・活用されており、内装の一部に旧館の遺構をはめ窓のようにして見せるなどしています。
また、周辺道路と敷地を隔てる境界にも、遺構が利用されています。

2006(平成18)年からは、大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽監督 大植英次がプロデュースする同交響楽団を中心とした音楽祭「大阪クラシック」の有料コンサートの会場として、毎年ホール(大集会室)と中集会室が提供されています。

また、日本有数の公会堂建築であり、外観、内装ともに意匠の完成度が高く、日本の近代建築史上重要なものとして、2002(平成14)年12月26日に国の重要文化財に指定されました。

近年ではライトアップや施設のツアーなどもありますし、公会堂なので施設を利用することもできます。

大阪に行かれた際は、日本有数の公会堂まで足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

ライトアップ

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