孫文記念館(移情閣)

兵庫県神戸市垂水区の舞子公園内には、いくつかの有名建築があります。
そのうちの一つが、今回ご紹介する「移情閣」という建物です。

中国の革命家・政治家・思想家である孫文を顕彰する日本で唯一の施設で、1984(昭和59)年11月に記念館として開設されました。

孫文

この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂(1855~1926)の別荘「松海別荘」を前身としています。
1915(大正4)年春、その別荘の東側に、八角三層の楼閣「移情閣」が建てられました。
本当は八角形なのですが、外観が六角形に見えることから、「舞子の六角堂」と呼ばれています。

松海別荘

しかし、なぜ中国の革命家である孫文の記念館が神戸にあるのでしょうか。
まずはその部分から解説していきます。

孫文は、1866(慶応2)年に清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農家に生まれました。
父は孫道川、母は陽氏、9歳にして父を失います。
12歳のとき、地域信仰の象徴であった洪聖大王木像を地元の子供らと壊したことから、兄の監督下に置かれることになりました。

中山市位置

当時のハワイ王国にいた兄の孫眉を頼り、1878(明治11)年にオアフ島ホノルルに移住し、後に同地のイオラニ・スクールを卒業します。

ハワイオアフ島ホノルル

同市のプナホウ・スクールにも学び、西洋思想に目覚めます。
しかし、兄や母が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒する孫文を心配し、1883(明治16)年に中国に戻されました。
帰国後、イギリスの植民地であった香港にある香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業します。

香港大学

その後、清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894(明治27)年1月、ハワイで興中会を組織しました。
翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てましたが、密告で頓挫し、日本に亡命しました。
このころから革命家と呼ばれるようになっていきます。

日清戦争

1897(明治30)年、宮崎滔天(みやざきとうてん)の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会います。
頭山を通じて、平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けました。
住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は、後に日本の総理大臣となり暗殺される犬養毅が斡旋しています。

宮崎滔天

平岡浩太郎

1899(明治32)年、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵しますが、失敗に終わりました。
1902(明治35)年、中国に妻がいたにもかかわらず、日本人の大月薫と結婚しました。
また、浅田春という女性を愛人にし、つねに同伴させてもいました。

大月薫

浅田春

のちにアメリカを経てイギリスに渡り、一時清国公使館に拘留されます。
その体験を『倫敦被難記』として発表し、世界的に革命家として有名になりました。
この直後の1904(明治37)年、清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島生まれ」という扱いで、アメリカ国籍を取得しました。
そして、革命資金を集めるために、世界中を巡りました。

1905(明治38)年、孫文はヨーロッパから帰国をするためにスエズ運河を通りました。
その際、現地の多くのエジプト人に喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしたそうです。
孫文の思想の根源には、日露戦争における日本の勝利があるといわれています。

満州民族の植民地にされていた漢民族である孫文は、長い間「独立したい」「辮髪もやめたい」と言っていました。
そして同年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成しました。
この時、東京に留学中の蔣介石と出会います。

蒋介石

蒋介石は、のちに孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となります。
第二次世界大戦では同国を四大国の一角にさせ、連合国中国戦区最高統帥でした。

しかし、戦後の国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949(昭和24)年に台湾へ移り、1975(昭和50)年に死去するまで大陸支配を回復することなく同国の国家元首の地位にありました。

毛沢東

孫文は、その後も次々と革命を繰り返し、度々日本へと亡命していました。
その中で、1913(大正2)年ごろ、神戸に身を隠していた時期があります。
孫文は当時の中国国内では危険思想の革命家でしたが、日本国内では国賓級の扱いを受けていました。

その時頼っていたのが、華僑の貿易商で相場師の呉錦堂という人物と、川崎重工業の松方幸次郎という人物でした。
呉錦堂は「松海別荘」という建物を明治20年代から建設し始めていました。
還暦を迎え、事業の一線から退いた呉は、1915(大正4)年に、コンクリートブロック造建築としては最初期のものである「移情閣」を建てることになります。
こちらはそもそも、「松海別荘」の付属棟でした。

呉錦堂

松方幸次郎

「移情閣」という別称は、窓から六甲山地、瀬戸内海、淡路島、四国といった「移り変わる風情」を楽しめることから名づけられました。
八方どの窓からも違った景色に出合い、我を忘れる、ということから「移情閣」と名づけられたともいわれています。
前述したとおり、楼閣の外観が六角形にも見えることから、地元では「舞子の六角堂」と呼ばれています。

呉の没後の1928(昭和3)年、国道の拡幅に伴い、松海別荘の本館は撤去されましたが、移情閣は保存されました。
貴重な建造物として残されたわけではなく、単にこの建物が船舶航行上の目印となるという理由からでした。
移情閣は第二次大戦中は軍の施設として使われ、戦後は呉家から神戸中華青年会に寄贈されて、華僑の集会所として使用された時期もありました。
しかし、1965(昭和40)年の台風で被害を受けてから、建物は管理が行き届かなくなり、荒廃していました。

その後、孫文ゆかりの地にあるこの建物を、孫文の記念館として再生しようという動きがあらわれました。
日中国交正常化10周年を機に、こうした機運がたかまり、関西大学教授で孫文の研究者であった山口一郎が中心となって兵庫県に働きかけました。

こうして1983(昭和58)年には移情閣が兵庫県に寄贈され、翌1984(昭和59)年11月12日(孫文の誕生日)に「孫中山記念館」として開館しました。
初代館長は、前述の山口一郎氏です。

明石海峡大橋の建設を機に、移情閣移転の話が持ち上がりましたが、コンクリートブロック造3階建ての建築を移転することは建築基準法上不可能でした。
そのため、一時は取り壊しの上、外観のみ復原という案も出ました。
しかし、1993(平成5)年に建物が兵庫県の有形文化財に指定されたことから法規上の問題はクリアされます。
移情閣は1994(平成6)年から一旦解体され、移築されることになりました。

この時、同時に金唐革紙等の館内装飾・備品の復原製作が行われました。
また、解体中であったことが幸いして、翌年1月の阪神・淡路大震災では被害をまぬがれています。

200メートル離れた現在地に移築完了したのは、2000(平成12)年のことです。
そして2001(平成13)年11月14日付けで、「移情閣」の名称で国の重要文化財に指定されました。

さて、移情閣に関する話に戻りましょう。
設計はイギリス人建築家アレクサンダー・ネルソン・ハンセルの弟子だった横山栄吉です。

現存する日本最古のコンクリートブロック造建造物で、国の重要文化財に指定されています。
構造は、木骨コンクリートブロック造りで3階建てです。

外観

上空から

玄関

こういったパステルカラーの建物は、景観や建物様式によっては全く合わない感じになりますが、この建物にはよく似合っているように感じます。
この印象的なパールグリーンの外壁には、コンクリートブロックが5018個積まれています。
構造体とは別に装飾性豊かな花や蛇腹の紋様が刻み込まれた化粧ブロックも多数含まれていて、比較的シンプルな外観に程良いアクセントを与えています。

また鉄筋を使わないコンクリートブロック建築としては最古の建物で、そのブロック自体も呉が創設した東亜セメント社製のものです。
自社の製品で組み上げたとても目立つ物件である移情閣は、その話題性も含めて、モデルルームのような建物でもあったのかもしれません。

内部は八角形の広い部屋が各階に並ぶ構成で、シンプルな外観とは異なり装飾性の豊かな意匠へと変わります。
ここではポイントが二つあります。
一つは、壁紙に金唐紙を貼ってある点です。
和紙を幾枚も重ねた上に漆を塗って金箔を押した、日本独自の手法による戦前の洋風建築の内装に採用された高価な壁紙で、東京湯島の岩崎邸や呉の入船山記念館等が現存する程度の貴重なものです。

内観1

内観2

もう一つは、中国趣味が濃厚なことです。
特に1階の天井中央には鳳凰が、2階には龍の極彩色の彫刻が施されており、ため息の出る美しさです。
また、マントルピースには薔薇の絵柄のタイルが嵌められていて、金唐紙の壁紙と相まって異国情緒溢れるエキゾチックな雰囲気が醸し出されています。

内観3

2階へ続く階段は、八角形にそった螺旋状になっています。
木製の階段に赤絨毯、金唐紙の壁紙と、中国建築の中に和と洋が混ざり合った、大正ロマン漂う階段になっています。

内観4

かってこの付近は、多くの別荘や旅館が並ぶ海辺の景勝地でしたが、当時建てられた中で現存しているのはこの建物のみとなってしまいました。
孫文所縁のこの建物は、近代の日中交流史の舞台となった貴重な文化遺産として記念館に生まれ変わりました。
同時に、神戸発展の大きな力となった華僑の繁栄ぶりを偲ばせる貴重な建物でもあります。

解体工事の終盤の1995(平成7)年には、阪神・淡路大震災が発生しました。
解体作業はおおむね終了していたため、あまり影響は出ませんでしたが、復原に関しては慎重にならざるを得ませんでした。
移情閣の復原工事は、明石海峡大橋の工事の進捗状況から、1998(平成10)年12月に着手と定められました。

移情閣は、明治・大正期の舞子浜の別荘文化を今に伝える最後の建物です。
それだけでなく、兵庫県における日本と中国の交流の歴史を語る上で、欠くことのできない重要な文化遺産です。
また、全国的に近代の歴史的建造物に対する評価が高まっていました。
そんな中で、復原工事は、単に県指定重要文化財の保存工事のレベルにとどまらず、現在の最高水準を目指すことになりました。

そのため、建築構造・建築意匠・建築史の6名の学識経験者からなる「移情閣復原工事指導委員会」が組織され、
①阪神・淡路大震災の教訓を活かした耐震対策・安全確保の検討
②文化財としてのauthenticity(真実性、本物であること)を追求し、建物本体の価値を損なうことなく後世に継承すること
を基本方針とし、全18回におよぶ委員会・ワーキングを通じて、耐震補強の検討、伝統工法、意匠などあらゆる角度からきめ細かい検証が行われました。
さらに神戸華僑総会からの資料提供や英国総領事館などからの国際的協力を得て、より高い精度での復原が実現されました。
時代的に、阪神・淡路大震災の影響が非常に強かったのでしょう。

2014(平成26)年には、開館30周年を記念して孫文銅像除幕式が行われ、孫文の曾孫にあたる宮川祥子慶應義塾大学准教授らが出席されています。

神戸に訪れた際は、一度訪れてみるといいかもしれませんね。

 

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